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転付峠を越えて、千枚岳・荒川三山・赤石岳
服部 寛之

山行日 1985年8月10日~14日
メンバー (L)川森、勝部、加藤、国行、服部、大久保

 転付峠への道は早川にかかる橋から始まる。身延駅からバスに揺られること2時間余り、登山口に着いた時には既にポツポツと雨が落ち始めていた。仕度をして9時頃出発する。案内板によると、早川沿いには糸魚川静岡構造線とかいう断層線が走っているそうである。地質学者は良くそんなことが判るなと感心しながら行くと、じきに右手に断層の様子がよく観察できる岩壁というのが現われた。観察してみたが余り良く判らない。
 半時間すると雨が本格的になってきたので合羽を着る。このところずっと晴天続きだったので、今回の縦走も天気には恵まれるだろうと期待していたのに残念である。僕は縦走は初めてである。またこれ程重い荷を背負って山に入るのも初めてである。ましてや3000m級の山には登ったことがない。果たして完走できるだろうか、落ちてくる雨粒を見ながら不安であった。1時間程で発電所に着いた。途中から左足を引きずり出した大久保氏が、ここから引き返すと言う。先月会津田代山で痛めた膝の故障が完全に治っておらずに出たのであろう。分担の共同装備を残し、リーダーの川森氏に付き添われて大久保氏は下山した。僕が受け取った最終日の食料はズッシリと重かった。
 林道はそこで終っていた。山道を国行、服部、加藤、勝部(サブリーダー)の順で登り始める。内河内川の瀬音を下に聴きながら、ゆるやかに登って行く気持ちの良い道である。良く踏まれ又、良く整備されていた。雨も一時の勢いは衰え断続的な小雨となった。しばらく行くと鉄塔の下に出た。方向がおかしいと加藤、勝部両氏が引き返し偵察に行く。既に夜行の疲れと荷の重さにかなりまいっていた国行氏と僕は、これ幸いとヘタヘタとその場に座り込んで舟を漕ぎ始めた。30分もたっただろうか二人が偵察から戻り、重い腰を上げて来た道を引き返す。案の定、道が切れて崖になっていた所を左にへつるべき所を、そのすぐ手前を右に曲ってしまったのであった。このタイムロスで後から追いかけて来る川森氏に二軒小屋までに行く途中で追いつかれるかも知れないと思った。
 またしばらく行くと電力会社の施設があり、水があったので荷を下ろして休む。道はそこから内河内川を離れ、いよいよ峠に向かって斜度を増す。僕がトップとなりゆっくりと登って行く。かなりまいって苦しいがまだなんとか行けそうだと思って振り返ると、二番手の国行氏が遅れて皆の姿が見えない。そのうちに「モートー」の声がした。待望の一本かと思って荷を下ろすと国行氏がまいって駄目なので、荷を分散すると言う。サブリーダーの温情あふれる発言に声も出ず、黙って白ガス2リットルを受け取ると、僕のザックは口元まで膨らんだ。ここで川森氏が追いついてきた。足の速さに一同驚いたが、荷を軽くしてもらったおかげで楽に来れたと言う。彼の健脚ぶりもさることながら、実は僕らの足がかなり落ちていたのである。峠まではまだだというのに時計は既に3時を回っていた。川森氏を加えて5名となった僕らは、またノロノロと登って行った。じきに今度は僕がへばってしまった。リーダーが荷を代えてくれてありがたかったが、半分眠りながら歩いている国行氏に加え僕までもへばってしまい本当に峠を越えて二軒小屋まで辿り着けるかどうか怪しくなってきた。やっと峠の手前の水場に着く。天幕が張れそうな平地があったので、今日はここで夜営と決った。本当に助かったと思った。
 食事ができる間、寝不足の国行氏は丸太のように眠っていた。僕は疲れて食欲もなく、小盛にしてもらった飯も殆ど残してしまった。食欲も落ちずにまだ元気もある残り3名の先輩のタフさには改めて敬服した。コッヘルを洗い、さて暖まって寝ようと川森氏がホエーブスに圧を入れ始めた時、事故が起きた。どこからか漏れていたガソリンに近くのEPIの火が燃え移り、ストーブが燃え上がったのである。出入口の近くにいた勝部氏が素手でストーブをつかみ、外へ放り出す。慌ててマットを被せ消化させる。僕はなす術を知らず、唖然として見ていた。加藤氏は天幕に火がついたら靴だけは持って逃げようと考えていたそうである。幸い勝部氏の勇敢で適切な行動で、マットを焦がしただけで済んだ。奇跡的に天幕は全く焦げていなかった。これでホエーブスが使い物にならなくなったら下山するしかない。完全にまいっていた僕はこの事故にますますメゲて、内心そうなったら助かるなと思っていた。ストーブは大丈夫であった。明日の行動は明朝の天気と皆の調子を見て決定するということになり、やっと体を横にすることができた。
 翌朝3時過ぎに目が覚めたら、サーと天幕を打つ雨音がする。まだ誰も起きそうにないのでまた眠る。次に目を覚ましたら、「雨が降っているので今日は二軒小屋まで行くことにしてまだ寝てよう」とのリーダーの声。縦走に来て雨で停滞するなんて聞いたことがないとの声もあったが、元気の回復していない僕にはありがたい決定であった。9時頃ノソノソと起き出して朝食の仕度をする。朝食は焼きソバであったが、これがまた手のかかる代物であった。麺は茹で上げたら冷水で冷やすと説明書きにある。雨の中水場まで冷やしに行くのは、責任を取って食当の川森氏が行くと言う。天幕の外に鍋が消えた途端、「アッ」という声がした。見ると鍋は見事にひっくり返っていた。
 食事を無事に終え、雨も小降りになってきたので11時頃天幕を撤収して二軒小屋へ向かう。転付峠までは15分位であった。峠の尾根にはトラックでも通れそうな広い道がついていた。峠で大キジを済ませ、下りにかかるとじきに雨も止み日が射してきた。10分程下ると地図にはない水場があった。ステンレス板でブッシュの奥から引水している。その前からは千枚岳への山がドーンと立っているのが見えた。明日はあんな急な斜面を登って行くのかと思うと気が重くなった。荷の重さを膝で感じつつ尚も下って行くと、林の向こうに大きな屋根が見え二軒小屋に着いた。早速濡れた物を広げ、1時間程前に撤収したばかりの天幕を広げる。天幕も張ったまま上下をひっくり返して乾かした。
 二軒小屋は清潔で設備の整った気持ちの良い所である。蛇口の並んだ水場があり、幕場も良く整地されている。自動販売機のビールも350円と安く、何とトイレは水洗であった。広い芝生の広場にはブランコもあり、早速勝部氏が漕いでいた。難点といえば幕場から100mの所にかかっている水量の多い滝の音がやや耳につくぐらいである。二件小屋という名前から小屋は二軒しかないのかと思っていたら、4~5軒あった。柔らかな日光を十分に楽しみ、まだ日の高いうちから夕食の仕度をしつつ飲み始める。やがて雲行きが怪しくなってきたので荷物を天幕の中に入れていると、ポツポツ降り出してきた。天幕の中へ移動して更に飲み続ける。時間はたっぷりとあるので万事ゆっくりとやる。のんびりと休養したおかげで僕は食欲が戻ってきた。国行氏の寝不足も解消し元気になった。夕食は永谷園の五目飯、スープにサラダ、目刺し2匹、それにカニモドキ入りワカメの酢の物と御馳走であった。明日以降の予定は、明日千枚小屋まで上り、その翌日荒川三山の頂上を踏んで千枚小屋に戻り、椹島へ下るということで一応決り、もしも全員の調子が良ければ一気に荒川小屋まで明日中に行ってしまうということになった。明日はいやでも昼間に見たあの急坂を登らねばならなくなった。僕は不安であったが、こうなっては仕方がないと覚悟を決めてエイと寝てしまった。8時頃であった。
 3時起床のところ2時半に起きる。早速お茶を沸かし朝食。隣のジャンボテントはもう撤収を始めた。僕らも荷をまとめ撤収を完了させると4時半頃であった。各自文字通りこれまでの疲れを水に流してキジ場から戻り、スッキリした気分で4時45分出発した。幕場の裏手からすぐ急登が始まる。いきなり四つん這いにさせる程の斜面が樹林帯の中を延々と続いている。すぐ汗でビッショリになったが、皆すこぶる体調が良い。昨日の食っちゃ寝食っちゃ寝が効いたのか、これまでの困憊が嘘のようだ。先頭の国行氏のうまい歩調に引っぱられ1時間毎に10分の休憩で快調に飛ばす。急登なので高度が面白いように稼げる。だが高い樹林の立林する森の中は風がなく、下草もそよとも動かない。たまに道が尾根端に出たり、ガレにかかったりすると心地良いそよ風が吹き上げてきた。途中、どうしてこんな所にと思われる急斜面に軽トラックがワイヤーロープで固定されていた。如何なる理由でどうやって、と不思議であったが、ことによると前衛芸術なのかも知れぬ。最後尾の川森氏と勝部氏は傾斜が弛むと漫才を始める。
川森「この花は何というのか」
勝部「・・・黄色いかわいい花だ」
川森「残念でした、黄色いかわいい可憐なというんだ」
普段なら疲れるこうした会話も、こういう場ではかえってアクセントになるから不思議なものである。
 万斧(マンノウ)沢ノ頭に8時半に着いた。この急登をコースタイムより1時間も早く登ってきたことになる。リーダーはこの時点で既に荒川小屋まで行けると思っていたそうだ。万斧沢ノ頭では先に出発したジャンボテントのパーティーがコーヒーを沸かしていた。彼らも僕らの健脚ぶりには驚いていたが、その中の女の子が「三峰って、あの三峰?」と聞いてきた時には皆ドキリとさせられた。だが彼女が意味したのはあの新聞に出た例の一件のことではなく、新宿の三峰のことであった。しかし新宿の三峰にしては僕らの服装は貧しすぎた。
 やがて森林限界を過ぎ、這松帯に変った前方を見上げると、雲の向こうに黒い大きな丸い山が裾を広げてドーンと立っている。モーツァルトを見下げる黒仮面黒マントの男のようであった。這松帯を過ぎ砂礫に変わると千枚岳の頂上はもうすぐである。運悪く大粒の雨が落ち始めた。雲が急速に動いてみるみる視界が悪くなる。千枚岳の頂上(2879.8m)に10時半に着くや、カッパを出して着る。僕は雲が山を隠してしまう前にと思い、夢中でシャッターを切った。頂上には6~7名の先客がおり、後からも数名がやって来た。登頂の写真を撮り11時、千枚小屋には下らずにこのまま荒川小屋を目指すことにして千枚岳を後にした。
 千枚からは、しばらく切り立った細い尾根を辿る。北側は林だが南側は入り組んだガレが面白い地形を見せている。このあたりから色とりどりの高山植物が目立って多くなってきた。丸山(3032m)を越えて悪沢岳(東岳:3141m)に着いたのは12時半であった。とうとう来た、と思った。悪沢岳のことは深田久弥さんの紀行文で読んで知っていたが、今自分がその山に立っているんだと思うと、無性に嬉しかった。激しい雨と風を避けて岩陰に入り、行動食を口に入れる。国行氏が持ってきたイモセンベイは非常にウケが良く、皆さん口々に早速行動食のメニューに加えると言っている。山で食べるイモセンベイは実に美味であった。
 悪沢岳から中岳(魚無河内岳:3083.2m)へ向かうには、一度悪沢岳からドンと落とされ再び登り返すことになる。中岳への登りの途中で振り返ると折りよく雲が切れ、悪沢岳の堂々としたピラミダルな山容が姿を現わした。左肩には更に峰が重なっている。深田久弥さんが、東岳などという平凡な名はこの山には相応しくないと書いておられたが、全く個性ある男性的な山である。中岳頂上は13時50分であった。悪沢岳から1時間20分かかった。冷たい雨が横からなぐりつけるようで休むと寒いので早々に退散する。道はここから前岳を捲いて荒川小屋へと下っている。せっかくなので前岳頂上も踏むことにして、コースを右にとり前岳の頂上に立った。これで荒川三山(悪沢岳、中岳、前岳)を走破したことになり、一同万歳をして祝う。とにかく寒いので荒川小屋に急いだ。途中大きなお花畑があった。一面の黄色の中に様々な色の花が混ざっている。悪沢岳を下った所にもお花畑が広がっていたが、あちらの方が花の種類も多く色彩豊かであった。ふと加藤氏が「ああ、こういう所で女の子と二人で愛を語りたいね」と言った。実に素直な発言であった。ロマンチストの僕はその言葉に心からの賛意を表したが、それを聞いた川森氏ら既婚者2名は、やんやとからかいの挙に出た。こうした自然なデリケートな感情を解することを忘れたかのような態度に僕は内心ムッとした。「純情」も結婚すると次第にかすれてしまうのかも知れない。
 15時30分に荒川小屋に着いた時は、もうかなりの数の天幕が張られていた。ようやくジャンボを張れるだけの空地を見つけた。水場を聞くと、片道15分のトラバースだと言う。地図には水場は近いとあったが、ここの水場はよほどの大雨でないと涸れるとのこと。荒川岳から荒沢小屋へ下る時は途中の水場で水を汲んでおいた方が無難なようだ。ありったけの水筒と鍋を持って川森氏と勝部氏が水場を往復する間、残りの者で天幕を張った。ストーブを出して暖まっていると両氏が雨の中を濡れそぼって戻ってきた。全くご苦労様で、頭の下がる思いがした。早速お茶を沸かし人心地がつくと餅を焼こうと言う。既婚者組はコッヘルで焼く術を心得ていると言う。川森氏がおもむろにコッヘルを取り出し楽しそうに焼くのを半信半疑で見ていたが、案の定すごい煙が出た。しかし、砂糖醤油で食べるその餅はうまかった。この術は、なかなかのものである。夕食のドライカレーもうまかった。3000m級の山を四つも踏んできたのにバテず食欲も落ちずにいるのは、昨日の休養のせいもあろうが、尾根で日光にあぶられることなく来たことも大いに原因しているのであろう。とにかく、今日一気に荒川小屋まで来たことによってスケジュールはすっかり取り戻した。その夜待望の星が出た。
 翌朝は上天気であった。ウドンを食べて、5時15分出発する。10分も行くと、夜明け前の薄明かりの雲海の上に富士山が浮いているのが見えた。今日は赤石岳に登って椹島へ降りるだけの予定なので、ゆっくり写真を撮りながら行く。大聖寺平から後を振り返ると、昨日歩いた荒川岳がはっきりと望めた。あれを通って来たんだなと思うと感慨もひとしおであった。登りにかかる頃から運悪く東側の谷に雲が上ってきた。小赤石岳(3070m)に着いた頃には東側は雲で埋まってしまった。だが幸いなことに雲は尾根を越えて西側には来ようとせず、おかげで伊那盆地を挟んで木曽山系の山々を遥か見渡すことができた。7時30分、赤石岳頂上(3120m)に立つ。既にかなりの人で賑っている。荷を下ろし、地図を広げて山の品定めにかかる。南側は兎、聖が望め、その奥には光岳も頭をのぞかせる。すぐそこに見える百間平は昼寝にはうってつけの場所のようだ。僕らはこの一等地の展望台でのんびりすることに決め込み、荷を広げて賑々しくも餅を焼く。香ばしい匂いが棚引き出すと、周りの人たちから熱い眼差しがコッヘルに注がれる。山頂でひけらかして食べる焼き餅は絶妙な味わいであった。
 宴会を終え9時に赤石岳山頂を辞す。後は椹島まで下るだけだ。赤石からの下りはいきなり急坂でしばらく続く。途中のお花畑で初めて黒百合を見た。急坂が終ると道はしばらくトラバース気味に上りとなり、10時30分に富士見平に着いた。折からの風に流されて運良く雲が切れ、荒川、赤石を望むことができた。そこから椹島までの道は遠かった。何でもない林の中の下りがずっと続くだけなのだが、僕の足がいうことをきかなくなってきた。右足の豆がつぶれた上に左の膝がいうことをきかない。必死の思いで歩くが思うように足が動かず随分とスピードが落ちた。随分と時間が過ぎ、皆さんが後ろからもうすぐだぞと励ましてくれる。有難かった。最後の下りにかかると、先に駆け下った川森氏が空荷で迎えに来てくれた。厚意を謝して最後まで自力で歩き通す。赤い鉄の階段を後ろ向きに伝って林道に立つと椹島入口と看板が立っていた。とうとう着いた。15時30分であった。全員でカメラに収まると、やっと僕も笑うことができた。僕の両膝も大笑いに笑っていた。
 椹島はあまり愉快に過せる所ではない。同じ料金なのに二軒小屋とは雲泥の差がある。まず従業員の愛想がなく感じが悪い。幕場も石ころだらけで整地不充分である。風呂場もロッジ泊りの客以外には利用できない。おまけにゴミも処理できない。蛇口付きの水場とトイレはあるものの、二軒小屋の清々しさは期待できない。期待していた赤石温泉が明日は閉まっている公算が大なので、天幕を張り終えてから皆で河原へ行って体を洗うことにした。広い河原を横切り水辺に降りて足を流れに入れると、疲れが溶け出していく。裸になって体を洗い服を洗う。石に腰を下ろして夕方に近い日だまりの中に平和な時を過した。最後の夕食は中華丼であった。しょっぱかったがうまかった。日航機の墜落事故は夕方天幕の中で初めて聞いた。皆でラジオにしばらく耳を傾けていた。他人事とは言え暗い気持ちになる。その夜は蒸し暑く、なかなか寝つけなかった。
 いよいよ最終日である。今日は畑薙第一ダムまで林道を歩き、そこからバスで静岡に出て帰京というスケジュールである。日が出る前に少しでも距離を稼ごうということで、お茶を飲んだだけで4時45分に出発する。椹島からすぐの所から赤石岳が青い空をバックに良く見えた。赤石沢は上流にダムを造る計画があるとかで、遡行するなら今のうちだと勝部氏から聞いた。このようにして又一つ沢の姿が変えられていくのかと思うと残念な気がしてならない。赤石沢に沿って下るこの林道は1時間も行くと大井川との出合いに出る。そこからは聖岳を見上げることができた。途中1・2度口に物を入れるために止まったぐらいで、休まずに大吊橋まで行く。川森、勝部両健脚は文字通り大手を振ってスタコラ行ってしまった。その後を残りの三人が思い思いの歩調で追いかけた。大吊橋に着いたのは8時半で、加藤氏と橋のまん中で記念写真を撮る。
 吊橋から小1時間ダム湖に沿って歩くと、畑薙第一ダムに着いた。これでやっと僕らの山旅もようやく終った。時計は9時半近くを指していた。


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