山行日 | 1985年12月30日~1986年1月3日 |
メンバー | (C.L)佐藤(明)、(S.L)安田、勝部、江村(皦)、高橋(清)、牧野、関谷、高橋(千)、小泉、本山、服部 |
「そうねえ、今年は雪は早かったけんど、量は少ないねえ、ここんとこ雨で雪は降っとらんよ」。
汚れたタクシーの窓の向こうには、どこにでもありそうな田舎路が続いていた。初めて見る奥飛騨の冬。早朝の緩み始めた大気の中、森は静かに呼吸している。裸の木立ちの根元を埋める雪も、なるほど運ちゃんの言葉通り所々茶色を混ぜている。やがてカーブを廻り込むと高い山が姿を現わした。北アルプスだ。ありふれた景色が俄然色めき出した。ほどなく人と荷物を満載した僕らのタクシーは車体を軋ませながら新穂高温泉に到着。(AM 8:00、タクシー代 奥飛騨温泉口より1台7,710円)
暗いバス待合室で空腹に朝メシを詰め込んだ。ここのバス停広場の一角には村営の風呂がある。出発前にひと風呂浴び、と心ときめかせれば来春まで休業との冷たい貼り紙。筋向いの温泉の噴水池から立ち上がる熱い湯煙も、そうなってはいたずらに入湯意欲をそそるだけである。無念だが邪心即除、心を新たに山に向け直す。こんな所で湯にあまり未練を残しては、立派な山やにはなれないのだ、と思って8時45分出発した。
凍てついたアスファルトを詰めて林道に入ると、道は一本の白い筋となった、それを一列縦隊で忠実に辿る。背中の重い荷物に少しでも楽をしようと、前の人の歩幅に合わせたり、自分の歩幅で試みたりするが、楽になるどころか荷は次第に重くなってくる。縦走ではないのでこの重さも槍平までしばしのガマンよ、と気を取り直す。道はしばらくは右俣谷の流れを左に見ながら上るが、やがて流れから右に逃れ、穂高平避難小屋に至る。小屋といってもかなり大きな立派なものだ、ここを10時5分に通過し、その先の白出沢出合の荷継小屋の所で林道は終り、僕らはトレイルに導かれるままに白い森の中へと入って行った。ふと気がつくと雨だ。音もなく降る細かい雨がいつの間にかシャツを濡らしている。枝の上で雨を吸った雪が時折バサッという音を立てて、森の静寂を破る。「せめて雪に変ってくれ」との願いも空しく、雨は断続的に勢いを増し、滝谷出合に着いた13時頃にはかなりの降りとなった。この季節にこんな場所で雨が降るとは天気が狂っている。雨男雨女だけのせいにはできない異常さだ。今朝の運ちゃんの言葉がうらめしく想い出された。滝谷出合の小屋で何度目かの一本を取り、13時20分に出発。全身濡れねずみとなり、槍平に14時30分に到着した。
槍平小屋は思ったほど混んでいなかった。テントは4~5張、小屋も一階はカラであった。小屋近くに場所を占め、さっそく皆で文明堂のコマーシャルよろしく(それほどカワイクはないが)腕を組んでドカドカと整地した。ここでスコップの達人、関谷嬢の登場となった。彼女の独断場となった白い敷地で僕も挑戦してみたものの、雪かきでは迷いのない境地に達している彼女とは、腰の入り方がまるで違っていた。ジャンボ及びエスパース4~5人用を設営して中にもぐり込み、ストーブを焚いてヤレヤレと思うのも束の間、一向に弱まりそうもない雨足に、フライのないテントの中は床上浸水のうえに天井からの雨漏りが加わって、アレアレという状態である。皆はしばらくザックの上に腰を下ろしてボーゼンとして暖を取るだけで、何もする気が起こらない。やがてエスパース、通称シルバーテントの方から、夕食を叫ぶ達者な声が聞こえてきた。その声に一同ハッとして現実に立ち返り夕食の準備に取りかかった。
ジャンボテントに11人が入ってレストランを広げると、文字通り立錐の余地もなくなる。おまけに下着も含めて何もかもグショ濡れのうえに、上からはポタポタ、テント内の一番低い所ではしょっちゅう水をかい出さねば湖ができてしまう始末である。やがて野菜の皮をむくのも面倒となり、石狩鍋のはずだったメニューも闇鍋となってしまった。山では雰囲気と暗さとでこういう料理も結構いけるが、女性の場合、こういう傾向が習性となってしまうと家庭がある、ないしは将来持った場合、家族は悲惨な食生活を送ることになりかねないので、諸氏特に新人の女性は十分心すべきである。
さて、おいしい闇鍋をいただいて食後のお茶をすすっていると、定時の交信(18時35分)で滝谷パーティの湯谷君から緊急コールが入った。先の14時35分の交信の直後、湯谷君が足元から崩れ出した雪崩に巻き込まれ、C沢を約400m流されたが、本人は奇跡的に怪我もなく無事脱出して雪崩発生地点までモートーコールをかけながら登り返したものの、パートナーの金子氏の姿が見当たらず、金子氏が雪崩に巻き込まれたかどうかも不明、自分はツェルトでビバークしていると、興奮しているが比較的しっかりとした声で連絡してきた。途端に和やかだった空気がサッと緊張した。一同の顔に驚きと心配の表情が走る。どうする? 今すぐにでも助けに飛んでいきたいところだが、装備も技量も十分ではない。既に日も落ちて、しかもこの暖かさ(気温0度)と雨では、二重遭難の危険性も大きい、すぐ近くの谷で自分たちの仲間が助けを必要としているのに手を出せないやるせなさに、冬山の厳しさと自分たちの非力さを思い知らされた。とにかく、その場は湯谷君を励ますこと以外何もできなかった。1時間後の交信で、彼は大きな木にビレーを取っていること、金子氏にはツェルトはないもののストーブと食料は十分にあることがわかった。金子氏のことだから、そう簡単に死ぬはずがない、おそらくどこかに雪洞でも掘ってビバークしているだろう、と考えて希望をつなぐことにし、シーバーは緊急用と湯谷君を励ます意味で常時オープンにしておくことにした。
その夜、雨は止むどころか強風を伴ってテントを打った。退屈な長い夜、ジャンボテントでは三峰には珍しく歌が出た。さほど遠くない昔に覚えたTV番組の主題歌、文部省唱歌、流行歌等ナツメロ特集であった。ピアノの先生の指導による輪唱は、何度やってもうまくいかず、三峰の音楽的才能の一端を暴露してしまった。メンバーの高尚な質から春歌はでなかったが、ことによると元気を奮い立たせるにはこのジャンルの唄が最適かつ最も皆の得意とするところであったかも知れない。シルバーテントの方でも話が弾んでいるらしく笑い声が漏れていた。しかし、楽しい和気藹々の中にあっても、滝谷パーティのことは常に皆の頭の片隅から離れなかった。ジャンボテントではシュラフを濡らしたくないので、ザックに座ったままストーブを焚きっぱなしにして(幸いガソリンはデポ分も含めて十分あった)濡れた服を乾かしながらの徹夜を覚悟した。だが、シルバーテントの方ではシュラフを広げて寝ると言う。川の流れるテントの中で横になるとは、さすが年季が入っている。場慣れの程度が違うと、ジャンボテント組は一同感心したのであった。夜が更けるにつれ次第に話し声も途切れがちになり、いつしか皆うつらうつら眠り出した。風雨は夜半もだいぶ過ぎた頃には収まり雪となった。明け方、シルバーテントでは力強いイビキが響いていた。
みじめな一夜はこうして明けた。寝不足の頭に先ず浮かんだのは、滝谷の二人のことである。やがてトランシーバーから湯谷君のモートーコール。良かった、昨夜の風雨では滝谷は相当荒れたに違いなく心配していたが、彼氏は無事だった。だが、ツェルトが吹き飛ばされそうで殆ど眠れなかったと言う。これから金子氏を探しに行くと言って、連絡は切れた。皆、口には出さないが心配そう。不安な時間が過ぎた。まもなく湯谷君から第二報。金子氏無事発見! 思わず拍手が沸き上がる。安堵の胸をなでおろした一同に、嬉しい笑顔がよみがえった。金子氏はやはり期待した通り、雪洞でビバークしていたというそれも、湯谷君のツェルトからそう離れていない地点であった。谷を下ることに決定した彼らに慎重に降りてくるよう最後の励ましを送り、何人かが滝谷出合の小屋まで迎えに出ることを約して、連絡を終えた。シーバーを握る明氏の声も嬉しさに弾んでいた。この事故で一番の重圧を受けたのは、リーダーの明氏である。全くご苦労様でした。
朝食は、昨夜の闇鍋の汁にアルファ米をぶち込んでの雑炊であった。文字通りの雑なメシも、朗報をオカズにおいしくいただけた。朝食後は、グショ濡れのゴミタメと化したテントの清掃と整理。テントも一旦はずして整地し直す。関谷嬢の活躍は言うまでもない。テントは、うって変わって居心地の良い居住空間となった。空の方も、雪もあがって昨日とはうって変わった上天気となった。一服し一段落してから、佐藤(明)、安田、牧野、高橋(清)、服部で偵察に出た。凸凹のトレイルは歩きにくいが、昨日から縮めっぱなしの身体を動かすのは気持が良い。槍平の北端まできて振り返ると、小さくなった青や赤のテントの向こうに、北穂高から奥穂高にかけての山々が絹のような雲のベールを日光に白く輝かせながら、大きくそびえ立っていた。その姿に目を奪われた僕らに穂高の神は微笑んだのか、一陣の風を送って雲の覆いを開かせると、山々はその白い秀麗な姿を現わした。あたかもそれは、壷装束の平安の淑女がむしの垂絹の前をそっと持ち上げて、恥らうように顔を見せてくれた、そんな姿を想わせる光景であった。すっかり嬉しくなった僕らは、中岳の西端をトラバースぎみに北上して行った。勝部氏は調子が悪く、最初の木立ち(尾根)を越えた地点で牧野さんに付き添われて引き返した。残りの4名は調子良く進み、いくつかの尾根と谷を越えて出発後2時間半で大喰岳西尾根下部に到着した。空は快晴、東には大喰岳、北には西鎌尾根、その左には中崎尾根が続き、そして北東の方角、大きな飛騨沢の奥に槍が青い空をバックにそびえていた。ここからでは槍の穂は見えないが、雪をつけた肩の小屋が白い要塞のようにがっしりと建っているのが印象的だった。明日のルートを見定めて引き返す。帰路はアイゼンを脱いで一気に駆け下った。急な斜面でグリセードを試みたが、雪が柔らかくてうまくいかない。雨に洗われた表面はクラストしているのだが、その下がふかふかで体重を支えきれず割れてしまうのだ。16時すぎにテントに帰着。用意されていたオシルコに感激。程なく滝谷パーティも到着。二人の元気な顔を見て安心する。そして彼らの話を聞きながら、二人の無事を祝福した。
早めの夕食は、手巻き五目ずしという一見フクザツ、実は何てことないメニュー。ここでのポイントは、小さめのノリに如何に多くのメシを巻くかである。新たに2名を加えて13名に膨れ上がったジャンボテントの中で、まさしくスシ詰めになりながら腹にスシを詰めたのはいいが、何と腐る程あると思っていた酒がもう殆ど底をついてしまった。あればあるだけ吸ってしまう肝臓たちに半ばあきれながら、明日共に槍を目指すことになった滝谷組に、槍に登ったついでにチョイと北穂の小屋までデポの酒を取りに行ってもらおうなどと半分本気の冗談を言っていたが、このことは酒飲みのいる長丁場の山行では食当ならぬ酒当も置く必要があるという貴重な教訓を得ることとなった。
明けて翌日は、1986年元旦、明けましておめでとうございますの挨拶に、2時起床。雪がぱらついているが何とか行けそうだ。一年の計は元旦にあり。今年度の山行のためにも、是が非にも登頂したいところだ。カボスも入った雑煮を食べて、4時25分に出発した。胃が不調の勝部氏と足に豆をつくってしまった江村さんは残念ながらテント番である。安田氏を先頭に、昨日の偵察の跡を辿る。昨夜の積雪は少なく、トレイルははっきりと残っており、雪は締まって昨日よりもずっと歩き易い。30分程すると雲が切れ、一人おきにつけたカイデンの光に頼らなくとも、ぼんやりと辺りが見渡せるくらい明るくなった。遠くの木立ちがぼうっと黒い。左には暗い谷に向って白い斜面が落ち込み、その向こうには黒い中崎尾根の壁が立っている。幻想的な墨絵の世界から目を上に転ずると、稜線に切られた細長い濃紺の空に冷たい月がクリスタルに輝く星達と共に透明な光を放っていた。
快調にとばして5時30分、スックと伸びた大きな木の所で最初の一本を取る。雪に埋まった谷の向こうの木立ちの中でチカチカ光冬蛍は、先行パーティのヘッドランプか、行動食を水で流し込んで出発。じきに昨日の引き返し地点に着いた。ここまで昨日よりも1時間あまりも速く来たことになり、その快調さに驚く。ここから先行パーティは飛騨沢を横切って西鎌尾根の方向へ行ったので、大喰岳西尾根に取り付いた僕らの前から踏跡は無くなった。まっ白な急斜面をジグザグに登って行く。クラストした雪面にアイゼンが心地良く効いて楽しい。高度も面白いように稼げる。途中振り返ると中崎尾根が薄茜色に染まり出した。西鎌尾根を目指す先行パーティが下に小さい。更に飛騨沢を詰める別のパーティも見える。7時5分、稜線の手前で二本目を取った。蓄膿症が風邪を引いたような声に目を凝らすと、まっ白な雷鳥が岩の上にとまっていた。彼はひょっこり現われた僕ら珍客に別段驚いた様子もなく、悠然と人間ウォッチングを楽しむと「ケッ、おもしろくもねえ、アバヨ」とチンケな声で捨てぜりふを残して舞い降りて行った。
稜線に上がると、東及び東南方向の山々がきれいに見渡せた。スッと伸びた槍の穂も見える。どこかのTV局のヘリコプター?が北の方から飛来し槍ヶ岳周辺をぐるぐる廻り始めた。すでに槍の穂先にいる連中でも撮っているのであろうか。僕らの近くに来た時には、愛想良く手を振ってみたが、美男美女に撮ってくれたかどうかは不明。それから岩と雪の稜線を辿って、9時に大喰岳山頂を踏んだ。山頂では2パーティのテントがそれぞれ周囲を雪壁で高く囲って強風に耐えていた。吹きっさらしの山頂は寒く、おまけにガスがかかって視界がない。時々、ガスの切れ目から大きな槍の穂が見えた。人間が何人か途中の岩にはりついている。僕はギョッとした。こんな切り立った氷だらけの岩を攀じるのか。僕はまともな岩登りなどしたことないんだぜ。そう思った途端、槍の穂が僕の墓場となって頭の中をよぎった。こりゃ困ったぞ。怖くて登れないなどと言ったら、女の子の手前、忍者と姓を同じくする僕のコケンにかかわる。たとえチビッたとしても、これは何とか攀じ登らねばならない、と考えていたら促されて槍の肩へと向かった。
大喰岳山頂から飛騨乗越を経て槍の肩の小屋までは40分かかった。悲愴感にあふれての下り斜面に思わず腰も引けてしまう。だが、小屋の手前の登り返しで腹ペコンペコンなのに気が付いたおかげで、そんな心配はどうでもよくなり、とにかくまず腹に何か入れたいという思いに専念することができた。小さな窓から冬期小屋に入り、行動食を食べながら全員の到着を待つ。ソーセージは凍って弾力を失い、ケシゴムみたいな歯応えであった。全員揃ってお茶を沸かし、ゼルバンを締めて11時5分に出発する。牧野さんは体調が悪く小屋に残った。腹が落着くと心配がよみがえってきた。小屋の前から仰ぐ穂先は、ますます急峻にそびえ立って見える。だが、ザイルを出す所まで来て見上げると、思ったほど急ではなくホールドもでかい。細かいホールドと垂直に近い壁を想像していたので、これなら何とかなりそうだと一安心。トップを行く周子さんの腰からザイルのしっぽがスルスルと伸び、やがてOKの合図に続いて、明氏から行けとの声がかかった。緊張した面持ちでプルージックを握りしめ登り始める。僕には千恵子さんが付いてくれて、後から足の置き場を指示してくれた。入会したばかりの高橋君には関谷さんが、本山さんには明氏が付いて慎重に登る。登路には途中に鉄梯子が2ヶ所、鎖が1ヶ所かかりホールドもでかい。アイゼンの前爪を利かせての登攀は、想像していたほどの苦労もなく、ズルズルと重い体で岩を磨きながら何とか這い上がって行くと、狭い頂上に出た。やった! 僧播隆の初登頂(文政11年・1828年7月28日)以来何番目の登頂かは知らぬが、あの槍ヶ岳の穂先(3180m)に立てたのである。視界は時折ガスの切れ目から肩の小屋が見える程度で、あとはまっ白であった。12時30分頃10人が全員登頂し、握手を交す。写真を撮り北鎌隊に向って全員一斉にモートーコールをはりあげた。頂上に居合わせた別パーティは、どこのバカな連中がはしゃいでいるのかと思ったことだろうが、興奮さめやらぬ僕らはそんなことにおかまいなしである。
さっそく上りとは逆の順に下りにかかった。下りは舐めるように見てきた岩だけにルートもよく頭に入り、また千恵子さんの指導も適切で上りよりは気楽に降りることができた。肩の小屋に戻ると気のきく心優しい牧野さんが温かい紅茶を用意していてくれた。そして思いがけず、もみぢの小林さんが来ていた。小林さんはこれから頂上まで登り、今日はこの小屋に泊る予定の北鎌隊と合流して、明日槍平へ降りてくることとなった。ザイル回収にあたっていた最後の4名が戻り、14時30分方の小屋を辞した。ここから槍平まで落差にして約1100mの帰路は、飛騨沢を下って大喰岳西尾根の取り付き地点を経るルートを取った。視界はガスのため約20m。コンパスと高度計をにらみながらの下降であった。飛騨沢を下り始めて間もなく北鎌隊と定時の交信を交していた列の後方がはぐれ、彼らは方向を失ってしまった。どちらを向いてもまっ白で、自分の足元の凸凹さえ見分けられない中、声は届いても風に流され正確な方向がわからないらしい。ずいぶんと時間がかかって合流できたが、風に流された下からのコールは実際の場所とは正反対の方向から聞こえたと言う。やはり視界の悪い時は隊列を絶対バラさないように十分注意せねばならない。まかり誤れば事故になりかねず、しかも待たされる方はどこが雪崩れても確実に押し流されるであろう場所にいたのである。
こうして無事槍平に帰り着いたのは16時過ぎ、約12時間の行動であった。ジャンボテントでは江村・勝部両氏が既に夕食の仕度を始めていた。待望の夕食は、赤飯におせち料理、それに今は貴重となったオトソが付いた。乾杯が終ると一斉におせちに箸が伸びる。やっと回ってきたおせちの盆は、既に初戦の跡も生々しく、こちらに盛られたお豆が反対の方向に出張しているかと思えば、オニシメが関係ない所で負傷している。そして僕の嫌いな醜悪な赤や黄色のブツブツ玉子達がその員数にものいわせてのさばっている。僕の好きな栗キントンはと捜索すれば、赤いブツブツ野郎の影で、かわいそうにすっかり小さくなっている。その傷をそっと箸でなでると無い。あるはずの本体は初戦の箸の猛攻で跡形もなく奪い去られ、いまや付録のベトベトが僅かに残留するのみである。未だ戦意を喪失しない僕は、直ちにとなりの関谷食当に伝令を発し、予備軍を繰り出してもらって無事栗キントン本体を救助することができたのであった。その夜は遅くまでワイワイガヤガヤとだべっていたが、何を話したかは初戦で出遅れた僕の記憶には残っていない。だが高橋(清)君が髪を赤いリボンで結い上げ口紅を塗ってオカマ的魔性をあらわした時の異様な光景だけは忘れようにも忘れられない。
翌2日は停滞日なのでゆっくり寝ていたかったが、シルバーテントの江村・勝部両氏はさすがに元気で、朝早くからテントの前でキッカイな体操を始め、勢いづいた江村氏はジャンボテントを来襲して平和な眠りを妨害した。同氏の攻撃は二段構えで、まずガス弾を発射し、頃合いを見計らって突撃してきた。この奇襲にジャンボテントは反撃を試みる間もなく陥落し、全員起きて朝メシとなった。この日の朝食は、焼豚入りラーメンだったと記憶している。その後うだうだと皆で話しこんで、モチを焼いて食べた。肩の小屋から降りてくるはずの、もみぢの小林さんを加えた北鎌パーティは、ガスのためかなかなか姿を見せない。肩の小屋~槍平間はシーバーの電波が届かず、彼等がどうしているのか気がかりであった。この日は槍平を下るパーティが多く、小屋がガラガラになったので、最後の晩は小屋泊まりにすることにしてテントを撤収していると、肩の小屋に泊った5人の元気な雪焼けの顔がガスの中から現われた。やあ、ご苦労さんとお互いの再会を喜び、元気な姿を確認して一安心。あとに残るのは表銀座を来る二人である。(彼等は僕らの下山後、宿に無事下山の連絡をしてきたのである)
総勢18名となった我ら三峰山岳会は冬期小屋の一階を全て占領した。移動を完了すると、高橋(清)、本山、服部の新人3名は、特別雪訓として雪洞掘りの実習を受けることとなった。どこの山岳会でもそうだろうが、新人はトレーニングに励まねばならないのだ。講師はつい先日雪洞掘りを実践してみせた金子氏を迎え、田中、湯谷両君の助手もついた。小屋の横に場所を定め、雪を掘り下げていく。講師は一般にエライものなので、現場を助手達に任せてすぐに小屋の中へ引き上げてしまった。雪洞掘りは思ったより重労働である。交替で掘り進み、やがて適当な大きさになった。雪洞でビバークする場合は雪を積んで入口をもっと小さくするのだそうだが、今回は屋根付きキジ場とする予定だったので、入口を狭くすることはせず(そうしたら臭いが籠っちゃってたまらないであろう)代りに奥まった所に縦穴を掘った。完成したキジ場に満足して小屋の一階に下って行くと(小屋は二階から入る)もう夕食の仕度はずいぶんと進んでいた。僕も車座に加えてもらって、とっておきのジンフィーズを開けて飲み始めた。皆も残り少ない酒を大切そうに舐めていた。その夜のメインはカレーライスであった。その他にもプリンやイモサラダ、戦火をくぐり抜けたおせちの残り等、盛りだくさんであった。やがて後片付けを終え各自寝場所を確保すると、一部の者はシュラフにもぐり込み、他の者は部屋の隅でおしゃべりの続きに興じた。夜中、ガリガリとグレムリンが壁を引っかく音に目を覚ました。また小屋の中は意外と冷えた。テントでくっついて寝た方が暖かいと思ったが、小屋の方が濡れないだけましか。
翌3日、下山の日の朝は4時に起床。アルファ米にふりかけとみそ汁の朝食を簡単に済ませ、撤収にかかる。小屋の前で中沢氏持参の花火をたいて景気をつけ、全員で記念写真を撮り6時50分に出発。小屋からすぐの所から、しばらく北穂高の美しい姿を望むことができた。雪のついた岩肌は幾分グレイがかり、ひだもはっきり見えた。滝谷出合の小屋までの幾つかの谷は、入山日の雨のために落ちたらしい雪崩れで埋められており、往路とは道が全く変っていた。江村さんは待ってましたとばかりに持参のスキーを履いて滑って下った。滝谷出合の小屋では、驚いたことに中沢氏が無くしたと思っていたテントポールが置いてあった。どうやら槍平へ来る途中、どこかで同氏が落としたらしい。それにしても槍平の小屋で彼氏がテントポールが見つからないと騒いでいた時、「見たよ」という人が何人もいたのは、相当なミステリーである。10分ほどの休憩の後、その小屋を7時50分に出発した。そして荷継小屋前に9時着。デポ回収のために立ち寄った穂高平小屋からは、僕は列の後ろを歩いたが、先頭の連中はずいぶん速くトットと下って行く。やはり温泉が近づくと、加速度的に足が速くなっていかざるを得なくなるのだ。やはり、パーティに及ぼすリーダーの影響には大きなものがある、と認識を新たにした。やがて雪の林道が切れると、ロープウェイ駅の前に飛び出た。そこにズラーッと列を作って並ぶスキーヤーの塊を目にした途端、ウェ~~と思うと同時に、人間社会に戻ってきたんだなーという実感が湧いた。こうして10時30分頃新穂高温泉到着。槍平・北鎌パーティ共に下山届けを提出した。さあ、これから待望の温泉が待っている。小さな湯池から立ち上る湯煙を見ながら、僕はその招きに身をまかせられる幸せを感じていた。