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病床日誌
宮坂 和秀

 およそ病気なぞした事のない私ではあったが、昭和50年に卒中(脳血栓)で倒れて以来、右半身が麻痺し、特に脚部、それも下へ行く程酷くなるという症状を示しているため、これじゃ山へも行けないではないかと考え、少し無理をすることにした。
 無理をするといっても、バランスを要求される沢歩きや岩のぼり、スキーや寒冷地は何としてもだめだ。関節は何ともないのだが、麻痺した脚がいうことをきいてくれないのだ。
 私は今年で72才になる。老人だとは思っていないが、年令相応の動きは自分では出来るつもりだ。三峰の岳友であった長久鶴雄、小堤正雄、五十畑喜正、鈴木竹次郎等が次々と「あの世」へと旅立って行った。次は私の番にちがいない。当然の事だろうが、あの世への転勤の命令はもう少し待って貰いたい。あと少しで良いんだよ。これらの人達の一部が「○○居士」と改名する以前の交渉と私の病状とをアレンジして日誌を書いてみた。私の病状はそんなに古くないので、竹さん居士のみがシゲシゲと現われてくる。(アイツは気の良い奴だが、一寸しつこい奴だったからなー)
 私の病名は結局のところ、喘息性の気管支炎と前立腺肥大症であった。レーガン大統領や金丸副総理も前立腺の手術を受けたと聞いているが、子供を作る能力のある男の避ける事の出来ない病気らしい。私の場合は気管支炎という持病が伴っていたので手術がのびのびになってしまった。その気管支炎は今だに治ってはいない。
 (昭和60年)、3月10日、鈴木竹次郎君が築地の聖路加病院へ入院しているので見舞に行く。胃や食道等が不調なので4日から入院しているのだそうだ。案外元気だが、15日頃手術する由で、あるいは胃がんではないか。私も気をつけなくちゃ。
 4月20日、前に勤めていた会社の女子で大宮の病院へ入院しているのを見舞に行く。スキーで骨折したのだそうだ。私は三輪バイク(原付のホンダストリーム)で行ったが、帰路新大宮バイパスでネズミトリに引っかかって25キロオーバーで7千円の罰金を取られた。
 4月23日、右足親指のつけ根が「しもやけ」の様にはれる。足をついて立つと馬鹿に痛いので医者に見てもらうと、尿酸値が多いので痛風だという。ビッコを引き引き歩く。
 4月25日、竹さん意識不明になったというので、野口君と待合わせて聖路加病院へ見舞に行く、足を引きずりながら歩くのも楽じゃない。
 4月27日、竹さんついに逝ってしまった。淋しい限りだが、私はまだ逝かないぞ。彼は63才の人生だった。私の痛風はどうやら治ったようだ。
 4月30日、昨夜のお通夜に引続き、竹さんの宅で告別式が行われ、戸田の火葬場へ行き、骨を拾ってやる。若い頃からの長いつき合いだった。
 5月3日、快晴なので三輪バイクを走らせて新青梅街道を奥多摩の御岳ケーブル駅まで行ってみる。
 5月4日、又々痛風の発作が起きる。今度は左足だ。痛風は人に言わせるとゼイタク病だという。別にうまい物ばかり食べている訳ではない。むしろ私は粗食の方だ。ヤキトリやもつ焼、肉なぞは尿酸値を増やすのでいけないという。足がはれても4、5日で治まるようだ。
 5月12日、五日市奥の浅間尾根へ行く。昨年の暮に忘年山行に参加して以来の初登山の訳だが、フーフーいいながら登り、昼食となったが吐いてしまう始末で、何となく調子が悪いのである。同行者は野口、堀田君、藤居さん、渡辺のお母ちゃん、堀田さんとその友人。
 6月4日~11日、又々、痛風の発作が始まった。今度は右足に始まり、治らない内に左足も腫れる。こうなっては歩くことも出来ず、会社を休み荻窪の東京衛生病院に診断を頼み、11日に入院する。
 6月17日、治療の結果良好で退院することができた。(その後、現在まで痛風の発作は起きていない)
 7月21日、野口君とバイクリングに行く。彼は125ccの新車を購入したのである。国道246を走って伊勢原交差点で彼と待合せ、大秦野からヤビツ峠に登り、表尾根の三ノ塔中腹をからむ作業道を走る。立入り禁止のゲートがあるがかまわず潜り抜けて進む。舗装してないので楽ではない。葛葉川の曲り滝上で昼食を済ませ、ヒゴノ沢で水無川沿いの登山道に出て、大倉の対岸から戸川に下る。大秦野駅前から二宮へ出て、大磯を通って、戸塚の野口邸へおじゃまして帰る。
 9月8日、鈴木竹さんの追悼山行、これはヤビツ峠から三ノ塔山への往復だ。こんな所でも苦しい。堀田君だけは葛葉川より登ったそうだが、他のレギュラーメンバーは表尾根班だ。野口君と、藤居、渡辺さん。
 10月10日、バイクで新青梅街道を瑞穂から16号国道に入り、飯能から奥に進み、小沢峠を越えて、東青梅へと抜けて帰宅する。
 11月12日、数日前より食欲不振が起き、併せて少し動くと呼吸困難となり、フウフウやり出す始末。近くのかかりつけの町医者に行くと、これから病院で見てもらえという。荻窪の東京衛生病院へはバスを使って両方歩きとなると、30分はかかるのでバイクを使う。10分足らずで病院へ着いたが、もう受付時間は過ぎていた。
 11月13日、朝早く東京衛生病院へ外来で行き、10時頃に診察してもらう。結果は即刻入院しろという。バイクで来たので、一旦帰って仕度をして来るといって家に帰った。出直して4時頃入院する。
 11月20日、野口、堀田両君と渡辺のお母ちゃんの三名が見舞に来てくれた。
 11月21日、9日ぶりに退院した。(2月には肺の検査をするから、暇があったら入院してくれと)しかし、もう勤めは駄目だろうと、退職を決意する。
 11月23日、今年は庭の次郎柿が豊作なので、退院の挨拶を兼ねて妻の実家へバイクで届けに行った。その留守中に太田晃君が見舞いに来てくれた。悪いことをした。
 (昭和61年)1月31日、本日をもって第三の勤務先である瑞穂鉱業を退職した。前の有終会を退職してから6年間勤めた訳である。後任には有終会時代の後輩を推薦した。彼は前立腺肥大の手術をするそうで2月1日から就職する筈の所、1ヶ月の空白期間をおいて3月1日からということにした。
 2月12日、肺機能検査のため、衛生病院に入院。翌日絶食して、のどに麻酔を打って気管に凄く太い管を飲みこむ。検査の結果は普通の気管支炎であって悪性のものではないという。(つまり肺ガンではないと私なりに解釈した。)
 2月17日、5日間の入院期間中にあらゆる検査を行い、本日退院する。
 3月6日~18日、約3週間食欲不振が続く。
 4月27日、飯能の大蓮寺に於て鈴木竹さんの一周忌法事があり、野口君、お母ちゃんと共に出席する。
 4月29日、奥多摩日の出山から沢井へと下るハイキングを計画してくれ、野口、堀田両君、渡辺のお母ちゃん、藤居さんと共に御岳ケーブルを利用して日の出山に登ったが、どうも呼吸が楽ではないので、気管支炎のためらしい。
 5月28日、妻の父、山崎久次が池袋の長汐病院で死亡。次の日お通夜、30日に告別式を行い、落合の火葬場で火葬に付した。
 5月31日、長野県上諏訪在の弟である、敬造(私は長男で11人の弟妹の筆頭、この弟は四男)の長男で真一が結婚するので、特急あずさで出発する。義父の葬式に続いて甥の結婚式で中々忙しい。茅野の奥で白樺湖を過ぎて女神湖畔にある高原白樺教会で式が行われ、隣のホテルグランドビューで披露宴があった。
 6月1日、東京と茨城県在住の妹など三名と共に上諏訪にて一泊。弟敬造に車で八ヶ岳山麓の原村でペンションを経営している弟準之助(三男)の「コッペリア」まで送ってもらう。ペンションに一泊して翌日帰京する。
 7月6日、義父の骨を納骨するため、次男の車で秩父の聖地公園へ行く。納骨式が済んで帰路は定峰峠へ登り、刈場坂峠、高山不動を通って顔振峠から飯能へと下って帰宅する。
 8月4日、会友の村瀬君死亡の通知があったが、調子が悪いのでお通夜、告別式も欠席。野口君に香典を頼む。
 8月14日、バイクで伊勢原から大山町まで登り、引き返して日向薬師を拝し、七沢を廻って帰る。
 10月26日、会友の五十畑喜正君の三回忌へ出席する。お宅は渋谷から東横線日吉よりバスで東京鋼器前で降り、すぐ近くだ。
 11月2日、上諏訪より弟敬造夫妻と、先日結婚したその長男真一夫妻が挨拶に来たが、その夜から食欲不振が始まった。併せて少し動いても呼吸困難となる。
 11月6日、昨夜から発熱。呼吸困難、食欲不振と来ては、どうにもならない。個室でも仕方がない東京衛生病院へ入院させてもらう。どうせ10日ぐらいだろうとたかをくくって見たが、今回はそうはいかなかった。次の日から熱も下がり、2、3日すると食欲も出てきた。又、それから2、3日して食欲不振になった。
 11月11日、ぼうこうの附近のレントゲン写真で袋が以上に小さく、残尿がある由。ポコチンの先からカテーテル(管)を差し込んで導尿袋を接続し、移動のたびに持ち歩くことになった。これをつけると尿はタレ流しだから残尿はない訳で、食欲不振は起きない訳だ。結局、残尿による尿毒症という事だろうか。看護婦さんが入れ替わり1日おきにポコチンの消毒をしてくれる。私のは別に自慢する程のシロモノではない筈だが、皆急に親切になったようだ。(自信過剰かな?)
 12月1日、今日は私の誕生日。入院中では格別目出度くもない。残念なのは原付の免許が今日で切れる事だ。
 12月20日、夜、三峰の連中が見舞に来てくれた。川田、佐藤(明)、江村(弟)、佐藤(光)の諸君だ。どこへも知らせていないのだが、どうして入院の事が判ったのだろう。野口君がルームで発表したのだそうだ。彼等は間違えて荻窪病院へ行ったのだそうだが、気の毒な事をした。(この病院には泌尿器科がないので入院中、荻窪病院へ通院している事を言ったのが、感違いの原因らしい。)
 12月22日、担当医からこの病院でクリスマスもお正月も迎える様になりますよと、引導を渡されたので病室で年賀状を書き始めることにして、家から印刷したハガキと名簿を持って来させて、ボツボツ書き始めた。
 12月27日、今村君が見舞に来てくれる。
 12月28日、約2ヶ月に亘る入院生活にケリをつけて、やっと退院することが出来た。退院が早くなったのは荻窪病院と話合いによるものらしい。導尿袋をつけたままの退院だ。次は前立腺の手術が待ってるのだから、正月だけの退院生活だ。
 (昭和62年)1月7日、脇腹が痛くなってころげ廻る程だったので、荻窪病院へ入院、見てもらうと、脇腹と思ったのは睾丸であって、前立腺とは関係なく、左のタマが痛んで来たのだ。おかげで1月27日予定の手術が遅れて2月17日にのびてしまった。
 1月17日、又々、導尿袋をつけたまま退院、家で待機だ。外へ出ることも出来ない。
 1月28日、野口君が見舞に来る。
 2月16日、荻窪病院へ再度入院。
 2月17日、朝から絶食、浣腸の上、10時に手術台に乗る。俎板の鯉だ。どうにでもなれ。腰の辺りのセキズイに左右2本麻酔を打つ。ポコチンの近くの感覚が消え、一向に何をやっているのか判らない。1時間も経過するともう終ったという。ひき肉状のものを見せられて、成功したという。夕食にはおも湯、くず湯などが出たが、胃の方で受付けない。4日間位いは気管支の持病のため、呼吸が苦しく、酸素吸入のお世話になる。
 鈴木竹さんが病室の外で呼んでいる。「もういい加減に来いよ」という。負けてたまるか、ヤゾー頑張れ。
 2月22日、太田晃君が見舞に来てくれたが、頭をあげて起きることが出来ない。
 2月24日、堀田、野口両君が相前後して見舞に来て一緒に帰って行った。この日の夕食から食欲が出て、紙をはがすように快方に向う。
 2月28日、この日に退院する。以後10日間ぐらいは入院したときと同じような状態で静養することになった。11月の初旬から止められていた、アルコールの類も4月頃から飲めるだろう。
 以上のような、とりとめのない病床日誌ですが、会員の皆様にはご心配をおかけし又、お見舞をいただきまして、紙面をおかり致しまして厚く御礼申上げます。ありがとうございました。


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