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編集後記

 今年もいろいろな山へ登り、さまざまな音楽を聴いた。山や雲の形、草木の色と匂い、雨風の音、鳥や獣の姿、岩や雪の感触、水や氷の冷たさ、陽射しの暖かさ、そして仲間の温かさ。毎回、それらが心の中で融け合って、シンフォニーになったり、コンチェルトになったり、あるいは合唱曲になったり。様々な音楽を聴かせてくれた三峰の皆さんに感謝したいと思う。
 しかし今年は、そうした楽しいメロディーだけでなく、個人的に不協和音についても考える機会が多かった。即ち、遭難である。
 昨年3月から今年の2月まで、三峰は192回の山行をふみあとに残した。毎週3.7回、1.9日に1パーティの率である。記録漏れを考慮すれば、実質はこの数字を上回ろう。その間、大きな事故は1回、幸い死亡事故には至らなかった。比較の問題として、この成績は良いのか悪いのか。事故を記録した限り、良いとは言えまい。事故は0でなくてはならない。
 山に入る限り、どんな山行であろうと、アクシデントに対する対処を考えておくのが、山の基本であり鉄則だ。山の楽しさを知っていると自認する僕らこそ、山の怖さも識っている筈ではないのか。毎週山に入っているから、いつものルートだから、いつもこんなもんだから今回も何とかなるだろう―こういう慣れが何より恐ろしいような気がする。僕らが山から下りてくるまで、ハラハラしながら待っている人のことを忘れてはなるまい。そういう人がパーティの全員にいることを、各人は肝に命ずべきだ。残念ながら今の日本では、山屋の命は非常に安いことも。でも僕らは、山に登るだろう。どうして?
 この古典的な質問は常に新しく僕らについてまわる。


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