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救助訓練と遭難
小林 勝夫

 7月10日、救助訓練に参加する。集合場所の大倉滝沢キャンプ場に着くと、前夜から幕営していた会のテント脇に、緊急用に作られた担架が置かれていた。昨日、ハイキング中の婦人が足を骨折し、通りかかった会の人達が、その担架を作り、ここまで運んだということであった。救助訓練に来たのが、本番の救助になったようである。それはともかく、会の屈強な男達に守られて、下ろされたその婦人は、さぞかしほっとしたことであろう。
 実は私も10年前、このような担架で下界に下ろされたことがある。その時の救助者への感謝の気持ちが、いかに強く忘れられないものか、また、不安な気持ちが救助者の言動によってどれほど励まされるか、その時の状況を書いてみたいと思う。
 昭和53年の5月のゴールデンウィークに、6日間の日程で、葛温泉から入山し、北アの烏帽子岳から笠ヶ岳まで、妻と2人で縦走に出かけた。笠ヶ岳までは比較的順調に進んできたが、最終日、笠ヶ岳から槍見温泉への下山の途中で事故を起こしてしまった。
 笠ヶ岳から新穂高の槍見温泉まで、4時間もあれば下山できると、夏道の感覚で考えていた。ところが、出だしで笠ヶ岳からなだらかに延びている南西尾根に向かってしまった。途中で気づき登り返すが、5~6時間ロスしてしまった。それでもまだ昼過ぎなので、槍見まで十分下山できると考えていた。しかし、残雪の状況が悪く一歩ごとに足が膝上までもぐるような箇所が多く、半分もいかない所で午後6時を回ってしまった。しかたがなくクリヤの頭の手前のハイマツ帯の斜面にテントをかぶるようにして一夜を明かした。
 翌日クリヤの頭を西側をまわりこむようにしてトラバースし、クリヤ谷へ下降中にスリップし、20mほど滑落し、大きなハイマツの幹に右足を激突させ足頸を骨折してしまった。妻に救助を求めに連絡に向かわせようと思ったが、トレースもなく一人で下山できる自信がないようなので、ビバークできる装備だけ持ち、ザックを一つ放棄し、尻ですべるようにして下山を試み始めた。
 しかし、幸い下り始めてまもなく、宮崎山岳会のパーティ4人が、私が滑落したところを、うしろ向きの姿勢で慎重に下りてきた。事情を話し、下に救助の連絡を頼むと、リーダー(日高氏)が"私達も下山するところで。一緒に行きましょう"と言ってくれた。私は、この言葉を聞いた時ホッとした。尻ですべっていくのでは今日中にはとても下山できるとは思っていなかった。
 日高氏は、足の骨折をみて「真っすぐに伸ばしましたか」と尋ね、まだですと言うと、私が骨折箇所を固定と保護するため、巻いていた厚手のマットの切れ端と目出帽をとり、足を引っ張り、細木を切らせてきて、足に添え木をしてくれた。それからどう運ぼうかとしばらく考えていたが、メンバーにダケカンバを2本切らせてきて、ザイルで底を編み、担架のようなソリを作った。その間紅茶をつくらせ飲ませてくれた。昨夜来、食料、燃料が底をつき、何も食べていなかったので生きかえる感じがした。
 それから、私が放棄したザックとマットをかついできて、ソリの下にマットを敷き、枕あてにザックを置き、シュラフに私を入れ、寝かされた。2人が前でかじをとりながら引っ張り、後で2人が40mザイルで制動をかけながら急斜面を駆けるように滑っていった。その斜面を下りきると、小さな川に出合い、左岸に渡渉しなくてはならないところにでた。日高氏は休憩し、ルート工作にでかけ、しばらしくして、3人の登山者を連れてきた。クリヤの岩小屋付近で、錫杖岳の岩登りのため、テントを張っていた金沢大と愛知大の学生であった。日高氏は、できたら渡渉しないでこのまま進みたかったらしいが、3人の学生の意見で無理であることを知り、ソリから背負っていくことにしたらしい。その渡渉は困難を極めた。川幅は5mぐらいであるが、丸木が2本並べてあるだけで、その後も急斜面になっており、足場がとても悪かった。最初、丸木橋に沿ってザイルが張られた。学生の持ってきたザイルで背負い用具をつくり、そこに入れられ背負われた。背負っている人は、前後をザイルでビレーされている。渡渉したあとも、雪が軟弱で、前で2人が雪を踏み固め道をつくりながら進んだ。クリヤの岩小屋の前で休憩した時、愛知大の学生が、貴重な食料であるジャムパンと水を持ってきてくれた。そこからの道も悪かった。前で一生懸命雪を踏み固めている。背負っている人も大変苦しいらしい。厳しい息づかい。ときどきふらつく足どり、一呼吸入れ、立ったまま休むときの苦しそうな様子。私はたまらなく辛かった。見も知らない、勝手に不注意で怪我をした人のために、このような善意を与え、その上苦しむとは。山で遭難する事がどんなにたくさんの人を必要とし、迷惑をかけるかという事を身をもって知らされた。
 槍見温泉に着いたのは午後7時を回っていた。宮崎山岳会の4人がかわるがわる7回に分けて背負ってくれた。怪我をしたのが午前10時40分頃。自力で下山に向かったのが11時半頃。宮崎山岳会の人が来たのが12時前。救助され下山に向かったのが午後1時半頃であった。救助から下山まで7時間かかったことになる。
 私の為に、貴重な時間を無駄にし、疲労の極限に達している下山日に、より過酷な労働をさせ、その上、ザイル1本をソリに使用した為、使用に耐えられないものにしたであろう。それにもかかわらず、嫌味一つも言わず励まし、運んでくれたことに、ただ、宮崎山岳会パーティに感謝以上のいいようのない気持ちであった。
 救助者の臨機応変な処置、誠実な言動が、遭難者に、いかに計り知れない力を与えてくれるか、その思いは10年たった今でも強く印象に残っている。


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