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那須三斗小屋集中山行
その2 参加顛末の記
秋場 俊司

山行日 1988年9月10日~11日
メンバー (L)勝部、川田、紺野、秋場

 天幕を打つ雨の音で目がさめた。どしゃ降りの中あたりは漆黒の闇であった。今、自分はどこに寝ているのだろうと、ふと考えた。昨日幕営した神社の境内のテントの中であった。テントが流されるのでは、と一瞬心配する程の雨音が聞えていた。懐電を取り出しつけてみる。
 テントの中のメンバーは、集中山行のパーティであった。私を除いて皆ぐっすりと眠りに浸っていた。昨夜ふるまわれたアルコールも深い眠りに加担しているのであろう。
 私達のパーティは、福島県甲子側より甲子山を経て、三本槍を経由し、三斗小屋温泉まで行き、別のルートからそこを目指している他のパーティと合流する手はずになっていた。
 思えば昨日私は、仕事の都合で上野駅を昼過ぎに発車する列車に乗る皆と合流できなかったので、一人新幹線で皆が乗っている列車を追いかけ、合流できたのは新白河駅であった。
 私達のパーティは、列車を次の白河駅で降り、駅前ではすでに準備されている食糧の他、夕食に供するつまみやアルコールなどを調達した。そして駅前に止っていたタクシーに乗り、奥甲子へと目指したのである。総勢4名のパーティであった。会長の川田さん、リーダーの勝部さん、紺野さん、そして私である。
 タクシーは、市街地を通り抜け、田園風景の中を走り、山あいの道に入ってしばらく走った。やがて温泉宿の点在する新甲子温泉を過ぎ、砂利道の曲がりくねった悪路を道路の終点までつめると、そこに一軒だけある温泉宿の前で止った。ここが奥甲子の温泉宿大黒屋である。宿の前は、小砂利が敷きつめられたやや広い庭になっていた。奥の方に車が数台駐車してあった。庭を隔てた向い側は、阿武隈川に流れを注ぐ沢が谷を深く切り込み、水量が多いのか、沢音を響かせて流れていた。重く沈んだ雨雲の上では、もう日も傾きかけているのか、湿った山風が夕闇の迫りくる気配を漂わせていた。
 幕営地を探し、日の暮れるまでにテントを張り、夕食の段取りを整えなければならない。温泉宿を山側に少し行った砂利道の上に設営しようか、それとも他に適当な場所があるのか、その検討のため、川田さんとこのパーティのリーダー勝部さんが、甲子山の麓の山道を斥候で行くことになった。私も追って随行した。甲子山の方ヘ山道を少し行くと、左手の砂防ダムからごう音をたてて滝が流れ落ちていた。そのすさまじい音と水量の多さは不気味さを感じさせる程であった。更に山道を4・5分程登ると、右手の山側に祠があった。神社であった。この神社の境内はやや広い丘の様になっていて、以前にも幕営のために使われた形跡があった。焚火の跡があり、ペグが落ちていた。けやきの大木がありその下の雑草は、夏の間刈られずに伸び切っていた。
 幕営地はここにしようと決め宿の前まで戻って荷物を運んだ。けやきの大木の下の雑草を取り除いて、地面に凸凹をつけていた小石や木ぎれをどかし、テントを張った。ドーム型5人用のテントであった。グラスファイバー製の支柱を伸ばし、簡単に設営できた。フライシートも張った。焚火のための薪を集めたが毎日のように降り注ぐ雨のため地面はぬれ、草木は水を含んで湿っていた。それでも小枝や倒木を集め、杉の葉を拾ってきて焚火の燃料とした。川田さんの火おこしは自信に満ちていた。ナタで杉の倒木を切り裂き、足をかけて太い幹を折り、薪を作った。土の上では小石を敷いてその上で火を焚くと良いと教えてくれた。焚火は暖をとるためであり、明かりとりのためであり、けものよけのためでもあった。
 紅一点の紺野さんは良くこまめに動いてくれた。夕食はホエーブスで煮炊きした。白河駅前で調達したビールに酒がうまかった。又勝部さんの料理する手さばきは達人そのものであった。
 食事を終え歓談のひとときが一段落してから、折角の温泉だから交替で入ろうと言うことになった。雨が小降りになった暗闇の中を懐電をつけて悪路の山道を下り、宿まで行って温泉に浸かった。風呂には温泉客の団体さんも入っていた。木造りのガランドウの湯屋であった。湯舟にゆっくりとつかった後は、浴衣が欲しかったが、テントに寝る我々にはかなわぬことである。温まって濡れた体の滴を拭き下着をつけてズボンをはいて、カッターシャツを着込み、その上靴下を2枚重ねにはいてから、おもむろに登山靴をはいて、傘をさして宿を後にしたのであった。
 一度覚めた頭は、昨日を思い起こして、ドシャ降りの雨の音を耳ざわりと感じながら、また眠ろうと思っても眠りにつかれなかった。
 いつの間にか再び眠ってしまったのである。廻りのざわつきで目が覚めたときは、あたりがすでに明るくなっていた。勝部さんだけはまだすやすやと眠っていた。皆が起きた。
 雨はザアザアと降り続いていた。当然私は、勝部リーダーが本日の行程のとり止めを宣言するか、ルート変更を指示するだろうと思った。なぜなら、まともに我パーティのたどるべきコースをこなすには、集中山行の集合目的地、三斗小屋温泉に到達するだけでも7時間55分を要し、全行程では9時間35分を要することになっていたからである。しかもこの所要時間には、いずれも休憩タイムが加算されていないのである。これは昭文社の「山と高原地図」「那須・塩原」に表記されている標準コースタイムによって計算した所要時間であった。その上、三斗小屋温泉では、他のパーティと正午頃合流する予定であると言う。しかしながら、予定のコースを行ってみようと言う。私はガッカリした、なぜなら状況の変化に応じて、山では華麗なる撤退が美徳とされていると信じて疑わなかったからである。それでも朝食が終了するまでは、時間がまだあると思い、その間の翻意を期待した。
 朝食を終え,後片付けを始めても、雨はあい変わらずどしゃ降りであった。しかも翻意の期待は裏切られた。勝部さんは、やっぱり予定のコースを行こうと言う。行ってみればなんとかなるものだとも言った。川田さんは、すまし顔で出発の準備をしていた。私は観念した。
 予定のコースは、奥甲子から甲子山に登り、坊主沼、須立山、三本槍を経て、熊見曽根から三斗小屋温泉に行き、そこで他の集中山行参加のパーティと合流し、煙草屋で温泉一浴休憩の後、峰の茶屋、中の茶屋を経て当然のことながら歩いて那須ロープウェイの山麓駅へたどり着くという長い道程であった。本日中に標準コースタイムで9時間35分を踏破しなければならないのだ。しかも降りしきる雨の中を傘をさしながら、すべったり、ぬかったりしながら登り下りするのである。休憩タイムは標準コースタイムには含まれていないのである。
 幕営の後始末を終えて神社の境内を出発できたのは、6時40分を過ぎていた。この出発時間からすると三斗小屋温泉に着くのは、午後3時を過ぎるのは目に見えていた。しかも、三斗小屋温泉で一浴した後、本日中に東京へ帰るのである。私は先を案じ気が遠くなる思いがした。
 当然の事ながら勝部リーダーは黙々と飛ばしたが、私は速く歩くのは得意でなかった。甲子山頂を目指して登っている途中で、私は先の道程を考え、皆にご迷惑をおかけしてはならないと思った。そこで、甲子山頂へ辿り着いた時の自分の体調によっては、リタイヤするつもりであると、いさぎよく勝部リーダーに申し出た。ところが「リタイヤは認めない」とのすげない返事であった。川田会長の顔をのぞいてみたが全然とり合わないといった顔をしていた。
 甲子山頂までは、標準コースタイム2時間20分のところを1時間40分でこなした。登りっぱなしでも50分以上歩き詰で、やっと5分程の休憩をとった。雨の中なので立ったままの休憩であった。甲子山頂へやっと着いた。山頂は雨とガスで眺望が悪いどころか視界すら良くはなかった。
 甲子山から坊主沼へ至る途中の尾根道には、ササが生い茂り根本から折れ曲がって谷側に倒れていた。寝ているササの上を滑らないように、小枝やササの茎にしがみつきながら渡った。甲子山を出発してから40分程歩いた所で、私はリーダーに休憩を申し出た。勝部さんは快く承諾してくれて休憩をとってくれた。私は行動食に持ってきたジャムパンを食べたが、唾液が涸れてノドを通らなかった。5分程の休憩で又黙々と歩き続けた。
 やっとの事で坊主沼に着いた。沼のほとりに避難小屋があった。ここまで来る途中で、我々と反対方向へ歩いていく一人歩きの二人にあっている。一人は甲子山頂に着く手前で、もう一人は甲子山を坊主沼の方ヘ少し下った所で、最初の一人はヌーッと現われ、すれ違いに声をかけてもにこりともしないで黙々と下っていった。もう一人は、はるか下の方から福島なまりの大きな声で、最初は何を言っているのか聞きとれなかったが声をかけてきた。背丈のずんぐりした坊主頭でヒゲの濃い、一見熊を思わせるような風貌の50がらみの男であった。昨夜は坊主沼の避難小屋に泊ったのだと言う。もう一人泊ったと言う。先にもう一人とすれ違わなかったかと聞いてきた。すれ違ったと答えてやった。彼はマップケースに入っている2万5千分の1の地図をかざして、今いるのはこの辺りかと、とんちんかんな所を指さして聞いてきた。私はこの辺りにいると地図上を指さして今いる場所を教えてあげた。さらに甲子峠への道はどうであったかと聞いてきたので、我々はそこを通らなかったのでわからないと答えてやった。彼のいでたちは新品づくめの山の服装と装備で飾られていたが、何か場違いに新しい黒光りのゴム長をはいていたのがチグハグで印象深かった。
 その彼が泊ったという坊主沼の避難小屋をのぞいてみた。風雪をしのぐための気密さがそこにはあった。寝袋を敷いたら白い砂ボコリがつくように感じる程、そこは乾燥していてほこりっぽかった。その小屋の前に釣鐘があった。ホワイトアウトの時鳴らしてその所在を辺りに知らしめるためのものであろう。
 この春に年配の女性が、この避難小屋を最後に行方不明になっていて、未だ見つかっていないと川田さんが聞かせてくれた。この小屋の後ろの方に、その女性が道を間違えたのか、登っていく姿を見た人がいるという。
 坊主沼からは、アップダウンをくり返し、大きなピークを二つ程こえると、長居ガレ場の急登があった。本当のガラガラのガレ場であった。私は疲れていたせいもあって、一歩一歩踏みしめて登っているつもりでいても、足場にしたガレがズリ落ち、なかなか登るのに難儀した。そのうち先頭を登っている勝部さんとの間が、だんだんと離れてしまった。川田さんから、ガレ場は一歩一歩を確実に歩かないといけないと、注意を受けたが、なかなか足が言うことをきかなくなって呼吸が乱れ、その場に座り込んでしまった。私の唾液は涸れてしまっていた。道道パンを喰っては平然と飲み込めている川田さんがうらやましかった。川田さんは何か食わないとダメだとも言った。パンはあるがノドを通らないと私が哀願調で訴えると、川田さんはパンを口に入れて水を飲んで胃に流しこめと言う。やってみた。食べるというより飲み込むという感じである。勝部さんは時計を時々見ながら、ガレ場の上の方からいらいらしながら、いまいましそうに私を睥睨していた。だから途中でリタイヤすると言ったのにと思った。でも、ここまで来てしまった。三斗小屋までの道程では、やっと半分位を進み終えたのであろうか。泣き事を言っている場合じゃない。行くしかないと観念してまた歩き始めた。
 勝部さんは、ピッチを少し落として歩いてくれた。胃袋にパンを流し込んだ効果もあってか、それからどうやら皆について歩けた。
 モリアオガエルの生息地、鏡ヶ沼を右手下方に見て、分岐を分けてから登りが続いた。三本槍の山頂に着いたのは11時頃であった。この山頂では傘をさしながら皆めいめいにしゃがみこんで昼食の軽い食事をとった。風とともに小粒の雨が横なぐりに飛んでいた。
 ここまで来ると三斗小屋までは、あと2時間足らずの歩程である。元気が少し出た。三本槍の頂上から中の大倉尾根への道を分けて、スダレ山の山頂下を熊見曽根の方向に下りしばらく歩くと沼のようなものが眼下に見えてきた。湿原が水をたたえて沼のようになっていたのだ。清水平である。
 湿原の入口には丸太の道標が朽ち果てて倒れていた。そこから右手の方へ粘土層の土の上を明瞭な踏跡がのびていた。何のためらいもなく、皆でその道を辿ったところが、やがて道は細くなり、その道はハイマツの茂みの中へと消えていた。ケモノ道であった。川田さんが、もう一本別の道を探しあて先導してくれた。ルートファインディングはうまいものである。その後を皆で従った。しばらく進んだ、だが、しかし、その道もハイマツでだんだん狭められ、ついにはハイマツの茂みの中へと消えていった。皆で道標が朽ちて倒れていた湿原の入口まで戻った。道に迷った場合は道のわかる所まで戻る。これが山歩きの基本とのことであった。勝部さんが、おもむろに2万5千分の1の地図を広げ、コンパスで行くべき先を探った。道があった。左手の方には休憩のための丸太を並べて作ったベンチがあって、その傍らに石仏が見えていた。そこは単なる休憩場所だと思って、皆は立ちよらないで先へ進もうとしていたのである。そこまで行ってみると、スノコ板を大きくして並べたような木道が、向い側のピークの方へ延々と連なっていたのである。湿原の入口からは、ナナカマドの茂みにさえぎられて見えなかったのである。
 木道はところどころ朽ち果ててぐらぐら傾き雨でぬれて滑りそうであった。皆さん慎重に木道を渡り終えた。熊見曽根の手前は、良く滑る粘土層の土とガレ場が交互に続いて、その頂には熊に注意の立札と丸太を削って作ったベンチが朽ちて、冷たく強い風に吹かれて濡れそぼっていた。
 道標が朽ち、ベンチが朽ち、そして木道も朽ちている。最近の山道は手入れをしていなのか、至る所でそういう光景が目につく。往年の山登り全盛の頃に設置されたまま、その後の山登り人気の衰退とともにそれらもまた老朽の一途をたどっているのだろう、もっと村や町、そして市や県の観光課が、力を入れてそういうものを整備をはかってもらいたいものだと、冷たい雨に打たれながら道々考えた。
 熊見曽根から三斗小屋までは、隠居倉を経て1時間程の歩程であるので皆元気を出した。勝部リーダーは下りを疾風の如く飛ばした超特急である。三斗小屋の温泉源に着いた。岩で囲まれた池から熱いお湯があふれ出していた。その辺りの山肌は、温泉から滲み出した成分で赤や黄色そして白の粘土層をなしていた。流れ出るお湯に手をさしてみた。すごく熱い。手をお湯に濡らし、なめて味をみたが、塩味はしなかった。硫黄の匂いが少しした。
 そこから程なく下ると、小さな屋根が見えて、小屋がぽつんとあった。温泉神社の祠であった。神社の石段を延々と下ると(疲れていたので延々と感じたが)三斗小屋温泉の煙草屋の裏側に出た。歓声やら嬌声やらが聞えてきた。煙草屋の入口は混雑していた。
 章子さん率いる沢登りパーティが先に着いていた。三斗小屋直行の原口さんも来ていた。私達のパーティが煙草屋に着いたのは13時40分頃であった。すごく飛ばしたものである。
 煙草屋の露天風呂は小屋の中に入り、テラスに出てから、備えつけのサンダルをはいて外の階段を山側へ少し上がった所にあった。男女混浴とのことであったが、男ばかりであった。ちょっと前までは、年配の夫婦が入浴して、風呂の中で日本酒を燗して皆にふるまっていたと言うことであった。原口さんは、裸のつき合いでの燗酒を湯舟の中で、ご馳走になったという。
 のどかであった、私は別所さんから差し入れの缶ビールにノドを鳴らした。木々は青く、空はあい変らず雲っていて、時折小雨がパラついたりしていた。
 15時には三斗小屋を出発するという。いそいで服を着て、煙草屋の土間におり立った。三斗小屋のオカミサンは素朴で人の好さそうな人であった。福島弁、いや栃木弁丸出しである。紅葉の頃、また来て下さいと愛想良く送り出してくれた。
 全員が帰路についた、と言ってもこの先も山道である。コースは三斗小屋から那須ロープウェイの山麓駅までの最短距離をとった。延命水を通り、避難小屋を経て峰の茶屋へ登り、中の茶屋へ下って車道に出て山麓駅へ下るコースである。
 三斗小屋からは、隊伍を組んで黙々と歩いた。先頭を歩いていた集団は、後を振り向きもせずひたすら前へ前へと急いでいた。
 そして、途中で一人の行方不明者を出し、その捜索のため一人が別コースをたどったのを除いては、その他の全員は無事に那須ロープウェイ山麓駅に到達し、集中山行は終了したのであった。
 唯、ここに、行方不明者が、道を間違えて、三斗小屋から沼原への道を下っているのではないかと心配し、とっぷりと日が暮れて、冷たい雨のそぼ降る中を、ひとりで沼原への道(最近はあまり歩かれていない道で、ヤブがところどころに繁茂し、踏跡もはっきりしないところがある道である。)を捜しに下っていった勇気があり、慈愛に満ちた勝部さんがいたことを、特記してその労をねぎらいたいと思う。


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