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諏訪山へゆく(GOGO山行)
大石 憲二

山行日 1988年11月12日~13日
メンバー (L)勝部、広瀬、伊藤、大石、阿部、服部、(大泉)

ヴワッー。(中身が少し出てしまったのではないだろうか)。いくぶん水気を帯びたいつもの聞きなれた音と共に、鼻の粘膜が痙攣しそうな臭気があたりに立ちこめた。一同は「ウワッ」と言って呼吸を止めて難から逃れようとした。勝部さんが宴会のお開きの合図の代りにカラキジを一発やったのだ。
 高崎線、新町駅を降りた一行5人はタクシーに乗り、ここ楢原までやってきていた。楢原に着いたのは14時頃だったろうか。待ち人を待つあいだ楢原橋の上、勝部さんの号砲一発を合図に宴会が始まる。やがて陽が傾き一同が山の陰に入って寒くなると日向の方に場所を変えた。日陰に追いかけられてはまた日向に逃げていた。逃げ場所がなくなるとやっと腰を上げて、一同は歩いて浜平へと向かった。途中、勝部さんが「爺イ、わらわはもう歩きとうない!」と服部さんの袖に縋って駄々をこねている。
 小1時間程歩いて現地に到る。着くと同時に待ち人の2人も黒いジープで到着した。ザックを宿に預けて全員で近くの河原に出て焚火を囲んだ。伊藤さんがマジメな冗談で一同をドッと笑わせている。
 夕日が西の山の向こうに駆け込もうとしている頃から、あたりの空気が紫色に染まっていた。そんな風景の中にゆらめく焚火の魅惑的な炎に誰もがみとれていた。「ケオトスナヨッ!」ぼくは一瞬我にかえりあたりを見廻す。伊藤さんが、阿部さんに投げた言葉らしかった。どうやら阿部さんが一番風呂に入ることになって、そのことについて言葉「ケオトスナヨゥ!」を発したらしい。何と言っているのかその意味が僕にはよく解らなかった。「ケオトスナヨッ!」漢字とひらがなで書くと、どうなるのだろう。「蹴落とすなよ」だろうか・・・・・これではどうもおかしい。それでは「毛落とすなよ!」と言ったのだろうか。もしこれだとするといったい身体の何処の部分の毛のことだろうか。よくわかりませんけど、まいいや。
 そのあとは2人づつ宿の内風呂に入れて頂くことになった。僕と一緒に入った人のが、僕のよりいくらか小さ目だったなんて、小生は口が堅いし、大切な山仲間をキズつける様なことはしたくないから絶対誰にも言わない。
 宿での山仲間との食事は大変楽しいものでした。食事の始まりはすこぶる真面目な話しから出発したのでした。我が山岳会の将来について、登山技術の話しや登山家としてどうあるべきか、人生とは・・・・・・恋愛について、女性のくどき方、女性の扱い方。この辺からどうも話しは色々進んで、あぶなくなり始め、ところどころに「解剖学的原語」が出てくる。
 ウィスキーを生のまま「グビッー」と伊藤さんが飲んでいる。目ブタが半分閉じかかりながらも最後のチカラを振りしぼるようにして、だんだん「解剖学的原語」が連発してくる。そして僕にはまったく理解できない指の形をつくっては原始的な微笑みをしばしば浮べているのだった。この頃になると伊藤さんは、もうほとんど意識を失いかけていて、現実の世界と夢の世界を行ったり来たりしているようだ。このようにしてふところ深き山合いの夜は更けて行くのでした。
 よく11月13日、6時30分起床。納豆と生タマゴで朝食を済ませる。7時20分出発。7時40分浜平登山口を入る。鉱泉の混じる沢筋をコケの付いた石に足を捕られないように、気を配りながらゆっくり登り始める。やがて、沢の水量が少なくなりカラマツの落葉が敷つめられた、つづら折りの道となる。先程からカラスが鳴いていると思っていたが、その正体は伊藤さんだった。「アーアッ、グエッ」これを10分間隔ぐらいにくり返している。かなり苦しそうだが伊藤さんは頑張る。「グエッ」と言って今朝食べたもの(納豆と生タマゴ)を戻しているようだ。昨晩、あんなにウィスキーを飲まなければ良かったと伊藤さん。「グエッ」とやった後にホッペタをふくらませてうつむいているが、外に出そうで出ない。口の中でもぐもぐやってから飲み込んでしまう様子である。「アーアッ、グエッ、モグモグ、ゴックン」反芻するのは牛や鹿の類いと竹中直人だけではない、我が山岳会の伊藤さんだって立派に反芻するのだ。本人いわく、納豆は消化が良くないそうだ、そして、胃袋から口に戻した納豆は二度と再び糸を引くことはないと言う。
 9時10分、湯ノ浜の頭手前の支尾根に達し、ここで一本とる。ここから少し登りつめると稜線にぶつかり湯ノ沢ノ頭に立つ。進路を左にとり、まだ新しい太陽の光を左頬に受けながら落葉の道を行く。ところどころに展望が開け。その度に立ち止まっては見はるかす山々に目をやって、その美しさにため息をついて、又歩き出す。湯ノ沢ノ頭から下ヤツウチグラ、すなわち三笠山までは一投足。途中、避難小屋の脇を通り、更に2ヶ所ばかり梯子を登ると再び歩きやすい道が続いていた。やがて大小の岩で形成された小さな岩のようなピーク、下ヤツウチグラに10時30分到着。着いたばかりの時はここが諏訪山だと勘違いしたが、南方向に見える三角点が本物の諏訪山であることを地図で確認する。小休止の後、再び目標のピークを目指す。一度、白水沢源頭に下り、これを登り返す。11時10分全員が諏訪山のピークに立つ。山頂は比較的広く、辺りは樹木の林に蔽われていた。登頂記念のプレートをピークの標識の裏に付けた。記念撮影をすませて、展望の良い三笠山に戻りここで昼食をとる。360度の大パノラマがほぼ目の高さ位のところに展開している。空は雲一辺なく澄み渡っている。色に表現してはいけないこの不思議な空の空間。山々が黄金色に輝いていた。
 12時20分三笠山を後に下山の途につく。午前中登って来た同じ道を逆に下って行くのだ。楢原発15時のバスに間に合わせるために、あたりの風景に視線を投げる間もなく下山の足を速める。それにしても雑木林の何と美しいことだろう。いつもの暑い夏が廻ってこなかったために、紅く色づくことが出来なくて黄金色に染まってしまった山々の樹木。太陽光線が、その樹木の間を幾筋もの光の束となって深い眠りにつこうとしている落葉をやさしく包みこんで生き返らせようとしていた。山全体に幾重にも降り積もった夥しい数の落葉一葉一葉が、自分は今度あの梢のあそこあたりに出てこようと企んでから永い眠りに入ってゆくことを、私はずっと以前から知っていた。自然が自然であろうとする様に、人が人であろうと願うから人は山に登るのだろうか。そして、ここはこの世の天国だろうか。それとも都会生活に倦に疲れ死んでしまった自分の心を置き去りにしてゆく山旅人の魂の墓場だろうか。
 13時5分、湯ノ沢ノ頭。13時20分小尾根に到達し、小休止をとる。この頃になると心配された伊藤さんの体調はすっかり回復し、小休止の間にも快調に話しはなめらかになる。一同はいつの間にか話の中に引き込まれていく。ある劇場の舞台に立ちスポットライトを浴びたのだそうだ。能面を付け、衣裳を着てお能を舞ったのだろうか。あるいは、"白鳥の湖"かも知れない!フリルのついた透けたレースのドレスとバレエのトウシューズを履いて、伊藤さんは美しく"白鳥の湖"を舞う。あぁ脳ミソが脱臼しそうだ。
 13時30分、ヒザとアゴと脳ミソの具合がおかしくなっているにも関わらず、身体は変に軽くなったような妙な気持ちで、支尾根を出発して浜平へと向かう。何もかもが黄金色に染まっている雑木の森の中を、同じ色に染まった一行は浜平へと急ぐ。九十九折りの道を幾度も幾度も折り返しながら下って行く。やがて、下の方に大きな廃屋が見えてくると今回の山旅も終るのである。14時20分浜平登山口に着く。


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