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晩秋甲武信酒盛映艶月
服部寛之

山行日 1989年11月3日~4日
メンバー (L)服部、井上(博)、佐藤(明)、大久保

 「甲州と武蔵と信濃の境にあるからコブシって言うんだと」とルームでの雑談中に誰かが言っているのを聞いて、オレは、
 「なるほど、それで甲武信か。男らしくキッパリシャッキリした名でなかなか良いではないか」と思った。
 厳しい風雪との闘いをしみじみと回想しながら下山口の駅前の暖かい小料理屋の座敷で注文した煮カツ丼の運ばれてくるのを待ちながらお茶などすすっていると、かすりの着物の楚々とした美人が片手で袂を押さえながらテーブル越しに、
 「おにいさん、どうぞ上って」
などと品の良い漬け物の小鉢をスッと出すので、
 「うむ」などとつぶやきつつ女の細っそりとした白い手を見やりおもむろにその白菜漬けの芯に近い白い厚めの部分を指でつまんで口に入れると、少し凍りがちのその部分から冷たい汁がジュワッと口の中に広がるのを感じつつシャキシャキシャキと噛み進んで行く時のような、そんな爽快感がこの『甲武信』という名の響きの中にはあるような気がする。それでどんな性格並びに根性の山なのかということを本で調べてみると、『展望の山旅』というピークハンター向けアンチョコ本にこの山の展望図が出ていて、2475mという中堅の標高の割にはなかなかオープンな性格であることがわかった。さらに『東京周辺の山』というガイドブックから、ちょっと奥まった所で千曲川・信濃川水源地など擁したりしていわば男の余裕と優しさを見せつつ悠々自適の生活をしている山であることもわかった。やはり思った通り男らしく気持ち良く笑って付き合えそうなかんじの山なので、行ってみることにしたのである。
 信濃川上駅でぞろぞろ降りたハイカーと山屋をぎゅうぎゅうに詰め込んだ村営の寸詰まりバスを梓山でやっとこさ降りる。一緒に降りたハイカーの大方が行ってから、じゃあ行くかと男4名出発する。静かな梓山の集落を抜けると戦場ヶ原というだだっ広い一面の畑地の中の直線道路をひたすら歩く。収穫の終わったガランとした畑にはまだ所々市場に行きそびれたひしゃげた大根などが植わっているので物色しながら行くが、なかなか良さそうなのは無く、また後から来るハイカーの良識目を気にしているうちに畑は過ぎてしまった。道はキャンプ禁止の看板のある誠にキャンプに適した気持ちの良い白樺の林に入ったので、ここで朝メシ及びキジタイムとする。そのすぐ先がモウキ平で、ここにはハイカーの車が何台か停めてあった。モウキ平から道は二股に分かれていて、左手は十文字峠ヘ行く道で、我々は右の千曲林道に入る。きれいな沢を左に見ながらしばらく車の通れそうな道が続くが、やがて道幅もせばまった。耳にここち良い沢音を聴かせながら、道はゆっくりと高度を上げながら沢沿いに谷に分け人って行く。紅葉を楽しむにはちょっと遅すぎたが、明るい林は誠に気持ち良く、梢の間に間に青い空が高い。秋の逍遥にはもってこいのコースである。
 沢音を聴きながら一本取っていると、単独行の女性ハイカーが追い越して行った。実は彼女には先程朝メシを食っている時に抜かれたのだが、途中で我々がまた追い抜いたのであった。出発すると、その女性もそのすぐ先で休んでいた。チェックのカッターシャツにベージュのパンツ、軽登山靴をはいて30リットル位の使い慣れたザックを背負っている。年齢は30代半ば。紅葉も終わりかけた晩秋の奥秩父路に女がひとり、紅映す川面に想いをはせる・・・・・・うーむ、これは何か訳ありであろうか?と思っていると、今度は我々の後を明らかに一定の距離を保ってついてくるのである。こうなると、こういう事にかけてはスコブル敏感な明氏と大久保氏がそわそわしだして盛んに後ろを気にするものだから、パーティの足並みもみだれて来てしまうのである。うむ、いかん、こんなことではいかんいかんと思っていると、今度は井上のお父さん、否モトイ、お兄さんまでも気にしだした様子である。板橋を何度か渡って沢沿いの道もだいぶ上流まで来ると、水の湧き出している支沢があったのでそこで一本取る。その訳あり風謎の美女も―仮にミズNとしておこう―道がくねっているので姿は見えないが、声のとどく距離で休んでいるのである。当然のことながら、カリントをボリつきながらの我々の話題はミズNの実態に激しく迫って行くのであった。結局ひとり歩きは心細いから我々についてくるのであろうということに落ち着いたが、各自腹の中ではひょっとしたらオレがイイ男だからかもなと思っていたのを、リーダーはちゃんと見抜いていたのである。黙って出発しては失礼だろうとか言っちゃって、明氏、大久保氏、それに井上のお父さんじゃなかったお兄さんまでもが親切に「行きますよ」などと声をかけるに至っては、リーダーとしてはいやはやいやはやキッパリシャッキリの甲武信に対して男としてシメシがつかないと思ったのであるが、しかし悠々自適の余裕の生活を送っている甲武信は沢の源頭も近いというのに滔々と水を流し、静かに笑って我らを迎えてくれているのでありました。
 千曲川・信濃川水源地の標識(長野県を流れる千曲川は新潟県に入って信濃川となる)はそこからしばらく行った所にあった。水源とされている所は水脈が樹林帯の小谷地に流れ出て沢となる地点で、稜線が近いというのにその水量の多いのには驚かされた。原生林の保水能力というのは本来斯くも豊かなるものなのかも知れない。立ち止まってそんなことを考えていると、モンダイのミズNが追い付いてきた。すかさず明氏が声をかける。明氏に先を越された大久保氏は「クソオ」と思いつつもメガネのまん中を右手中指で押し上げながら小道具のカメラを出して対抗する。ミズNにシャッターを押してもらい、かくして最初の第三種接近遭遇は果たされたのであった。
 水源地から短い急登を詰めると稜線で、頂上まではそこから一投足であった。軽快にカラキジを鳴らしながらひとり先頭を切って上って行くと、頂上にはでかいケルンが積んであり、その脇で先着のおっさんがキジ音の方を注視していたので上って来たオレと目が合ってしまった。誰もいないと思ったのに、こういう時はさすがにちょっと気恥ずかしい。わざと大袈裟にザックをドサッ!と下ろしたりして、「おぉ、イイ展望だなー」。全員が揃い、今日の予定はあとこのすぐ下の小屋に幕を張るだけなので、時間もあるし晴れて展望もいい、となると当然酒が出る。実際、この隊員達には酒しかない! そんなに広くない頂上で、そばに座ってひとり静かに展望を楽しんでいるミズNに、明氏はさらに接近遭遇を深めるべく塩辛のビンや漬け物のビニール袋を盛んに勧めるのだが、秋の女のひとり旅なのに勧めるモノが違うじゃんかよと思って見ていると、根負けしたのかミズNから逆にサキイカなどもらったりして、接近遭遇深化の試みはそれなりに成功し、今夜は小屋泊りの予定であることを聞き出した明氏の三角眼はうれしそうに次なる計略をめぐらして行くのでありました。
 甲武信小屋は頂上から10分で、小屋前の段々畑状幕場に幕を張る。水は小屋でも売ってくれるが、バカバカしいので大久保氏と釜ノ沢の源頭まで汲みに行く。小屋から往復15分。小屋のポンプアップ用に立派な水槽がしつらえてあり、豊富な水が溢れ出ていた。幕に戻ると酒だけはもうしっかりと出ており、日はまだ高いのでゆっくり安心して宴を進めつつメシの準備などに取り組んで行けるのであるが、本日のような小人数の酒宴山行の場合、宴とメシとのケジメをキッパリと宣言するという具合には絶対行かず、そのままズルズルとオカズなどつまみ代わりに食いちらかして行くうちに「おっ、もう酒がねえや、じゃあ寝るか」と、あくまでも酒主体に物事は進行して行くものなのである。そのあたりの展開を見計らって、今日のメニューはおでんなのである。これだとわたくしのように酒の飲めない人間でも宴の進展に割と違和感を覚えることなく腹いっぱいになれてパーティの平和を保つことができるのである。
 ところで、本日の甲武信小屋は小屋も幕場も結構賑やかであり、酔い醒ましの偵察に出た大久保氏が小屋の晩メシはカレーであることを突きとめて来た。すると明氏が、それじゃ小屋の貧弱なメシまでまだ時間もあるしひとりでつまらなくしているかも知れないのでミズNを呼んでやろうよとうれしそうに言った。すると井上のお父さんじゃなかったお兄さんもうれしそうに賛成した。大久保氏に異論のあろう筈がない。皆の圧倒的賛同を得て明氏は力強く飛び出て行ったが、努力むなしく帰って来てしまった。適当にあしらわれたらしい。こうなるとガゼンはりきるのは大久保氏で、我が出番を得たりとばかりメガネをズリ上げ、小屋に向かったのであった。結果は上々、意気揚々と帰還した英雄に慰労の盃はなみなみと注がれたのでありました。間もなく「おじゃまします」と艶っぽい声がすると、我が隊員達はめいっぱいうれしそうに「まあどうぞどうぞ」とミズNを迎え入れ、接近遭遇はますます激しく深化の度を深めて行ったのである。しかし、その晩どんな会話がなされ接近度の深化の過程でいかなる進展があったのかはここには書かないのである。みんな知りたいだろうけど、教えないのである。晩秋の奥秩父女ひとり旅と男4名笑って酒飲む幕宴の旅の接近遭遇は、秋の一夜の月明りの結ぶ運命の糸でありました。
 翌朝、小屋泊りのハイカーと他の幕が粗方いなくなってから出発。ミズNももう出発した後であった。オレは木賦山のピークを踏んで行こうと思ったが隊員達の強硬な反対にあい捲き道から戸渡尾根に回る。この尾根は結構な傾斜で、上りはしんどそうだが走って下るぶんには都合が良い。ヌク沢の出合で一本取ろうとザックを下ろすと、ミズNもすぐそばで休んでいた。この沢も水量が豊富で、9月の釜ノ沢パーティが豪雨で渡渉できなかったというのも頷ける。ヌク沢からは当然ミズNもパーティに加わり、しばしの尾根の捲き道から最後の下りにかかると、西沢渓谷へ向かう観光客の群れが林道上をうねっているのが見えて「ウッ」とした。
 不動小屋でミズNと別れ、我々はタクシーで最近できた『笛吹の湯』へ向かう。ここは三富村々営の施設で、持ち込み自由で休憩もでき400円。きれいな風呂で雑念無念を洗い流す。そこからまたタクシーを呼んで、運ちゃんご推薦の塩山駅前のほうとう屋でほうとうとけっとばしで下山を祝い、帰路についた。甲武信は豊かで懐深く、気持ち良く笑って登山者を迎え入れてくれる良い山でありました。

〈コースタイム〉
3日 梓山(7:45) → 白樺林(8:45~9:05) → モウキ平(9:15) → 水源地(12:10) → 稜線(12:32) → 甲武信山頂(12:54~13:45) → 甲武信小屋(13:55)
4日 小屋発(8:05) → ヌク沢(9:55~10:20) → 林道出合(10:50) → 不動小屋(11:10)

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