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瑞牆山の研究~対カツカレー比較試論~
服部 寛之

山行日 1990年5月13日
メンバー (L)服部、今井、飯島、紺野、(小西、石山)

 私は瑞牆山が好きだ。瑞牆山は秩父多摩国立公園に属し、金峰山と小川山を結ぶ尾根から派生している。
 私はカツカレーも好きだ。カツカレーは大衆食堂・皿メシ部門に属し、洋風料理から派生している。
 瑞牆山とカツカレー、共に私が好きなこの両者の間には、いかなる共通点・相違点が存在するのであろうか。今回瑞牆山に登った機会に、その辺りについて考察・研究してみたい。
 私が瑞牆山を好きな理由のひとつに、まずその名称がある。「瑞牆」とは「神の宮居の玉垣」(深田久弥 日本百名山)という意味である。その神秘的なイメージは、人の登山意欲をかき立てずにはおかない。実際、この山の洞ヶ岩という洞窟には、弘法大師が来て彫ったといわれる梵字があるそうだ。また、この「瑞牆」という漢字そのものも美しい。その形は、この山の端麗な山容を彷彿とさせる。ここで我々は、漢字が象形と表意の二つの機能を合わせ持ったすばらしい文字であるという事実と、そのことを教えてくれた中学の国語教師がカッパハゲであったという事実とを、突如思い出すのである。
 カツカレーという名称は、極めて直截的にして超刺激的である。カツとカレー(ライス)という二つの独立した料理名を直列につなげただけのその名称は、「フレッシュフォアグラソテーのキノコ添え」とか「牛フィレ肉パイ包み焼きウエリントン」などのごとく冗長な難解さでヒトを惑わすようなこざかしさは有せず、一切のムダを排した簡潔さでこの料理の原理原則を表現し、見事である。カツとカレー(ライス)は、それぞれ単体でも十分刺激的な料理であるが、< カツ+カレー(ライス)=(刺激)2 >という方程式から予想される相乗効果は、人の摂取意欲をかき立てずにはおかない。もっとも、カレーはもともと刺激的な食べ物であり、カツの場合もからしをつけすぎると泪が出る程刺激的になる。文字の形について見てみると、カツカレーの場合は、瑞牆山の場合の様に全容を彷彿とさせるという訳にはいかない。カタカナは表音文字だからである。そこで私は、試みにカツカレーという漢字を制作してみた。 カツカレー (説明図見よ)我ながら非常に論理的な文字であると思うが、残念ながら全容を彷彿させるまでには形は昇華されていない。まだ歴史的な錬磨を三日しか経ていないからである。発展の余地を多分に残したこの漢字の原型に対する歴史的評価は、後世の漢字評論家の手にゆだねたい。
 次に、瑞牆山の山容を眺めてみよう。深田久弥は釜瀬川上流の黒森からの眺めがこの山の最も立派で美しい姿であろうと述べている(前掲書)が、私はまだそちらから眺めたことはない。私が眺めたのは、瑞牆山荘前から登って行って富士見平小屋を過ぎた辺りからである。そこからの姿も美しい。一見してこの山が岩峰の集合体であることが判る。だが瘤の集合体であるとする見方もある。岩を瘤に見たてたと思われる瘤岩という名称は、古くから地元に伝わるものであるが、「全山コブだらけ」という痛々しくも悲惨なその見解は今日では「いじめ」→「おかあさ~ん」→「ミコちゃんのハナマルキ」というクソミソ的連想を喚起して社会通念上世相に合わなくなってしまった。山体を仰ぎ見ると、奇岩怪石の数かずが複雑なスカイラインを描き出し、個性的な線を引いて屹立する岩峰の姿は、クライマーの登攀意欲を刺激せずにはおかない。
 カツカレーの場合はどうであろうか。注文したカツカレーが到着したら、まずひとしきり鑑賞してみよう。料理の美しさを味わうのも食事の内である。論旨からは若干逸れるが、料理の内容を把握してお食事全体の構想を練ることもまた肝要である。構想なくしていきなりスプーン乃至フォークをつける(この場合箸ではない)ような軽率な行為は、絶対につつしまねばならない。摂取の最終局面に於いてカレーが無くなり、白いごはんだけを皿からこそげ取って食べるような事態は、極力避けたいからである。
 カツカレーの場合は、山とは違って見上げるということはまずない。大低、上空から俯瞰することになる。俯瞰行為を行なうと、一見してこの料理はカツとカレーライスの集合体であることが判る。カツライスとカレーの集合体とする意見を述べる人もあるが、だがその見解は誤りである。一般にカツライスには汁物が付いてくるがカツカレーには汁物は付いてこないからである。ひるがえって、カレーライスに付いてくるお冷やはカツカレーにも付いてくる。そして単品のカツには付随する汁物は見られない。丸い皿大地に左側に盛り上がるごはん山は、瑞牆山の様な複雑なスカイラインは成していない。全体的な山容はなだらかである。ごはんの造成上の問題があるからだ。ごはん山の山腹に安置されているカツは、色、形、ごはん山との相対的大きさから推察すると、ものすごく巨大な一枚岩であることが判る。岩というものはたとえ一枚岩の様に見えていようと幾つかの部分から構成されているもので、リスと呼ばれる割れ目が走っている。クライマーはそのリスにハーケンを打ち込んで支点とし、或いはリスそのものを手掛かりとして登攀を行なうのであるが、リスの数が適度にあればそれだけ登攀も容易となる。カツにもリスが走っている。だがカツの場合はリスとは呼ばず切れ目と言う。切れ目の数も適度にあればそれだけ摂取も容易となる。この山腹に堂々と横たわる巨大一枚岩的カツはまた、瑞牆山に於ける山頂の巨大な一枚岩を想起させるものでもある。瑞牆山頂のそれは、東西60m、南北10mの大きさである。
 カツ岩から目を転じると、ごはん山の麓、皿大地のほぼ右側いっぱいにカレー湖が広大な拡がりを見せている。様々な養分が溶け込んだ湖水は火山噴火直後の硫黄と粉砕物が混入した様な複雑な状況を呈しているが、水深は一般に浅い。上級のカツカレーになると、カレー湖はごはん山とは別の地盤に形成されていることがある。その場合は一般に、カレー湖の標高はごはん山より高く、カルデラ湖的様相を呈し、水深は深い。カツカレーと瑞牆山との最大の相違点は、この湖の存在である。瑞牆山には湖はない。だが、釜瀬川と天鳥川の源流を山腹に発している。山麓に湖があるのに、そこに流入する沢を持たないのがごはん山の特徴でもある。
 さて、瑞牆山に戻って観察を続けてみよう。山容を眺めて岩峰群の次に気づくのは、全山を覆う豊かな樹林である。針葉樹の森の中のあちこちから岩が生え出て来たとも思える風景である。岩峰と樹林の混在こそ、この山の最大の特徴である。岩峰聳える岩山でありながら、クライマーのみならず多くのハイカーを引きつけているのも、この樹林の存在故であろう。岩の硬に対する樹林の軟。聳り立つ岩峰の威圧感を木々が和らげている。巨岩の圧迫感を木々が弱めている。岩の緊張を強いられる登山者の心を木々の温もりが柔らげてくれる。正に樹林は登山者に憩いを提供してくれているのである。
 さて、カツカレーの俯瞰行為を尚も続行して行くと、皿大地の一隅にキャベツ・ブッシュ帯の存在を人は認めるに至るであろう。キャベツ・ブッシュ帯は、一般に、マイナーな存在として低く評価されがちである。カツ岩を中心としたごはん山とカレー湖のある表カツカレー方面を上高地、涸沢とするならば、キャベツ・ブッシュ帯はさしずめ槍平に相当しよう。或いは、白馬大雪渓に対する清水尾根と言っても良い。しかし、先の漢字試案でも草冠として示した様に、キャベツ・ブッシュ帯はカツカレーの不可欠の一部分なのである。山地・河川・平野都市部の自然のサイクルの中で森林緑地帯の果たす役割が現在改めて見直されつつあるように、カツカレーのお食事もエコロジー的観点から考察すれば、キャベツ・ブッシュ帯の果たす役割も自ずと見えてこよう。
 もし人がカツカレーのお食事に際し、まずカツのみの摂取に専念し、次にごはんのみ、次にカレーのみといったノミ行為に及ぶのであれば、その人はカツカレーを愚弄するものである。カツカレーの場合も、ノミ行為は禁止されている。カツカレーの醍醐味は、何と言ってもカツとカレーライスの同時摂取である。ごはんの軟らかな舌ざわり、咀嚼時のカツ肉の反発感、口蓋にコロモが接触する時のザラつき感、ピリリとくるカレーの刺激と息を抜く時に広がるカレーの風味、口中にカツとカレーライスの同時存在を実現した時の悦楽は人生の喜びである。「生きてて良かった!」と誰しもが思う。だがしかし、人は刺激が連続すると次第に飽きがくるものである。継続する刺激から得られる快楽は暫時的減少傾向を示すからである。ちょっと摂取を一時中断したいなと思った時が、頃良いキャベツ・タイムである。そうなったらすかさずキャベツを口中に投入し、疲労した味覚器官の感度回復を図ろう。シンプルなキャベツの味は意外な程甘く感じられるであろう。カツカレーに於けるキャベツ・ブッシュ帯の存在は、このように摂取者に対し憩いを提供するものなのである。辛いカレーと油っこいカツに対し、さっぱりとしたキャベツは、摂取者が正しい態度で臨むならば、味覚の危機的局面に於いて実に頼もしい救護者となるのである。従って、キャベツにビチャビチャソースをかけるのは、カツカレーの場合、誤りである。キャベツ・ブッシュ帯の存在意味と瑞牆山に於ける樹林帯の持つ存在意味とを考え合わせる時、我々は緑の果たす役割の広さ多様さに今更ながら瞠目を禁じ得ないのである。

*    *    *

 5月13日、瑞牆山荘前の駐車場で仮眠から目覚めた時は日は既に高かった。いつの間に来たのか、昨夜3~4台だった車が十数台に増えている。林道もここまで舗装されたので、瑞牆山を訪ねる人も増えたのかもしれない。腹をこしらえて出発する。急登に息を切らし、ハイカーやファミリーキャンプでかなりの賑わいを見せる富士見平小屋を過ぎると、じきに瑞牆山が木立の間から良く見えるようになった。ここから見上げる瑞牆山は重心を下に集め、気品ある落ち着いた姿を見せている。りゅうとしたその秀麗さを褒めぬ者はいまい。
 天鳥川の渡りで一本取る。以前来た時、下りの道で足首を捻挫し、腫れた足をこの沢で冷やしたことを思い出した。その時の履き物はジョギングシューズであったが、以来私は山では足首まである深い靴を履くことにしている。実は今回この山行を企画したのも、この山を初めて訪れたその時に岩登りにかまけて逃してしまった頂上をどうしても踏みたかったからである。
 頂上までは、そこから途中で一本立てても1時間の距離であった。頂上に至る少し手前で北に回り込んだ所は、この季節でもまだ冬将軍の置き土産が凍結していて我々を驚かせた。
 頂上の大岩の上では、2~3のパーティがとかげを決め込んでいた。我々も腰をおろし、食料を出す。ここは非常に展望が良好で、気持ちが良い。下を覗くと切れ立った絶壁で、ザイルをつけていないと思わず尻込みしてしまう。上から眺めたこの山は正に緑の中から岩峰が生え出たかのようで、一風変わった風景はこった盆栽を想わせる。左手には金峰の稜線が大きく視界を遮り、地図に五丈岩と記された岩もポツンと見えている。いずれあの山にも登らねばならない。右手遠方には八ヶ岳が見えている。権現岳の手前に小さく頭を見せているのは飯盛山であろうか。地図と照らし合わせて山座同定を試みるが、どれがどれなのか、なかなか難しい。八ヶ岳が見えるならば南アルプスも見える筈だと目をこらすと、微かに細い稜線が空の高みに浮かんで見えた。あれが昨夏歩いた白峰の稜線だろうかと思いを廻らせる。
 気がつくと、もう1時間が過ぎていた。いつの間にか登山者の数も増えて、頂上は楽しそうな喧騒に包まれている。
「さて、風呂に入って帰ろうか」
と、私は仲間に声を掛けた。
 下りる前にもう一度緑に囲まれた岩峰群を見下した。瑞牆山は秋の景色も素晴らしいと本にあったことを思い出した。確かにそれはその通りのように思われた。そして雪を冠した岩峰の立つ白い森のむこうに南アルプスが高く稜線を引く風景もまた美しいに違いないと思った。
「また来よう、今度はもっと寒い時に」
季節を問わぬ良さを持つこの山を、どうやら私は好きになったようであった。季節を問わぬ美味しさを持つ、あのカツカレーのように。

〈コースタイム〉
瑞牆山荘(7:35) → 天鳥川(8:27~35) → 頂上(9:35~10:37) → 天鳥川(11:15~25) → 瑞牆山荘(12:06)

参考文献
日本百名山 深田久弥著 朝日新聞社(文庫)
日本200名山 深田クラブ著 昭文社
山と高原地図27 奥秩父2 昭文社
コンサイス日本山名辞典 三省堂


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