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キツネと赤トンボとアリの未丈ガ岳
服部寛之

山行日 1990年8月19日
メンバー (L)服部、井上(博)、秋場、阿部、吉田

消えた六号トンネル
 小出インターを降りると、深い闇がたれこめていた。後部座席の三人は、すっかり眠り込んでいる。
 ルルルルルルルル・・・・・・・・・
「あの突き当りを右じゃないですかねえ」
 ニュートラルのエンジン音を遮るように、助手席の井上博之氏が言った。
 右手の闇の中に一対の光が現われ、みるみる近づいてきて停止した。農道の交差点で走るべき方向を決めかねている我々の車を訝るように、その車はゆっくりと前を横切ると、静かに左の闇の中へ吸い込まれて行った。遠ざかるテールランプを目で追いながら、ギヤを入れる。
 井上氏は正しかった。『右折 奥只見シルバーライン』の標識がライトの中に浮かび上った。
 国道352号線は、闇の底で静かに眠っていた。時折沿道に現われる集落は、どの家も堅く雨戸を閉ざし、物の動く気配は全くない。全てが押し黙りじっと動かぬ中、我々の車だけが闇の底を切り裂いて進んでいた。重くのしかかる巨大な海綿のような闇に、ライトの光がむなしく吸い込まれていく。集落を外れると、周りの様子は皆目わからない。
 ポツンと黄色い街路灯に照らされてシルバーラインの人口が見えた。ギアを落とし、スピードを緩める。ハンドルを左に切ると、コンクリート製の小さな料金所が正面にあった。ライトを反射したガラス窓の中は、ガランとして、誰もいない。道は狭い切り通しの上り坂で、コンクリート壁の上には黒い灌木が、漆黒の闇の淵をさまよう亡霊達のように、立ち並んでいるのが見えた。この道に通過すべきでない時刻があるならば、それは湿った闇の底に重く沈んだような今に違いない。闇は一段と深さを増し、我々が人里離れた山の世界への入口にいることを明瞭に告げていた。
 (キツネが出てきてもおかしくはないな)
 理解を超越したものへの漠然とした恐怖感を振り切るように、私はアクセルを踏み込んだ。
 最初の右カーブを回ると、すぐにトンネルがあった。素早く入口の番号を確認する。 一号トンネルだ。そのトンネルは短く、続く二号卜ンネルもまた短かった。
 「入口の上に番号が打ってありますね」
 私はやや安堵して井上氏にそう言った。未丈ガ岳へは、六号トンネルの途中にある扉を開け外へ出たところの駐車スペースに車を停め、そこから登ると案内書にあった。だから六号トンネルを確認したらスピードを落とし、外へ出る扉を見落とさないように行けば良い筈だった。
 五号トンネルはやや長かった。全体に上り坂で、途中で逆くの字形に左に折れていた。出口を出るとすぐ次の卜ンネルがあった。チラッと入口の数字を確認する。
 「あっ!!」
 その瞬間、私は急ブレーキを踏んだ。確認した数字は〔7〕だったのだ!
 「今のトンネル、途中で切れてませんでしたよね」
 「そんなことはないようでしたがねえ」
 「これ、七号トンネルです」
 「えっ?!」
 車をバックさせて入口の数字をもう一度確認する。 やはり〔7〕だ。
 (六号トンネルがない!)
 ルンルンルンルンと高いピッチのエンジン音が、息を荒げた犬のように、小刻みに辺りの夜気を震わせている。ライトのむこうで息をひそませる闇。頭の血が逆流し、気が動転し始める。
 (気付かぬうちに時空の歪みに入り込んで六号トンネルの先に出てしまったのか?)
 一瞬、ニヤッとあざ笑うかのようなキノネの顔が脳裏をよぎった。
 (そんな馬鹿なことが・・・・・)
 車をさらにパックさせて、五号トンネルを入口まで戻ってみる。対向車が一台「ゴーッ」という音を響かせて素早く脇を通り抜けて行った。その音は妙な現実感を伴って私の耳を打った。入口の番号は、やはり〔5〕だった。
 (おかしい。六号トンネルはどこに消えちまったんだ?)
 キツネに化かされるとはこういうことを言うのだろうか。納得できぬままに、とにかく先へ行くしかない。
 七号卜ンネルはどこまでも続いていた。今までのトンネルとは違い、見るからに旧いトンネルで、点々と灯る黄色い裸電球の光の中に堀ったままの天井の岩盤とひどく傷んだコンタリートの路面が、地下水に濡れて山の胎内深く延びていた。
 (もしこのトンネルが戻ることのできない別世界へ続いているとしたら・・・・・)
 子供の頃読んだ漫画の記憶が目の前の風景と交錯する。荒れた路面を跳ねるタイヤの音が、もう止めようもなく勢いづいてしまった我々の運命の行方を暗示するかのように、トンネル内に低くこだまする。
「どうもこのトンネルかもしれませんねえ。ひどく長いトンネルだったように記憶してますから」
以前、川釣りの講習会でそのトンネルの途中の出口を利用したことがあるという井上氏の意外な言葉は私を驚かせたが、同時に少し安心感も与えた。
 「あっ、ここじゃないですかねえ」
 緩く右へ折れている突き当りの壁の奥に、観音開きの大きな木の扉があった。ちょっと見て来ますと言って、井上氏が偵察に出た。乾いた金属的な音を立ててドアが閉まる。その音に、うしろの三人が目を覚ました。
 「どこなの?」
 「トンネルの中」
 「もう着いたんですか?」
 「かもしれません。わからない」
 カイデンを持って、秋場氏も偵察に出て行った。暫くしてカイデンが振られ、私は開かれた扉の方へゆっくりと車を進ませた。エンジンの反響音が消えた扉の外には、周囲を木に囲まれた幾ばくかの空地が冷えた闇の中に静かに広がっていた。

*    *    *

赤トンボ
 「どうも誰もいないと思ったら、こんな所にいたんだ」
 若い男の声がして、二人連れが枕元の砂利を踏みつけながら遠ざかって行った。テントから顔を出すと、明るい陽の光の中に青空が広がっている。今日も暑くなりそうだ。ひと足先に起きて様子を見に行った井上氏が戻って来て、昨夜は暗くてよくわからなかったが登山口はここで良いようだと教えてくれた。闇の支配から解放された広場はすっかり陽気さを取り戻し、小鳥のさえずりやせせらぎの音がさわやかな山の朝を告げていた。車の後部ドアを開けて、阿部さんと吉田さんを起こす。食事をして、テントを撤収し、出発。
 その広場の奥にはさらに大きな広場が広がっていた。隅の小高い所に山菜取りの小屋があった。下草にズボンを濡らしながら、鉄パイプを組んだ板橋を幾つか渡り、最後に深い黒又川に架かる鉄製の永久橋を渡る。その少し先で道は上りとなり、1~2分登ると展望が開けた。どうやら尾根の末端にかかったようだ。この先水場はなさそうなので、水筒に水を汲みに沢まで少し戻る。登山道のつけられた尾根の下部は、やせた灌木の尾根で、風の通りは良い筈なのだが今日は生憎風がなく、暑い。次第に増してくる傾斜に汗を流しながら尚も登って行くと、大きな松の木が目立つようになった。
 それにしても暑い。風が欲しい。尾根にかかってから1時間位して、秋場氏が音をあげた。自分は少し休んで後からマイペースで行くので先に行ってくれと言う。しっかりした尾根の一本道なので迷うことはないと思い、彼氏には悪いが四人で先に行くことにした。道は次第に背の高い木の間を行くようになり、さらにきつさを増して尾根を左に捲くと、急に緩やかになって頂上に着いた。三角点の頂上(1553m)は一段高くなった狭い六畳程の所で、ぐるりと周囲が見渡せたが、大気の見通しはあまり良くなかった。しかし素晴らしいことに、頂上の東側には緩斜面の草地が大きく開けていた。実に快適そうな緑の絨毯であった。
 四人でその絨毯の中を、平らな所まで下りて行った。事実、そこは誠に快適な山上の別天地だった。色あせたキスグが一輪、二輪、夏の終わりを告げていた。草地の南北は背の高いササで仕切られているが、東側はよく開けていて、端まで歩いて行くと、下にダムで塞き止められて少し太った只見川が見えた。皆で腰を下ろしてナシをかじる。ゆるやかに草を撫でて行く風には、もう秋の気配があった。
 秋場氏がなかなかやって来ないので、私は頂上の反対側へ様子を見に行った。モトコールをかけても返事がない。あきらめて草地ヘ戻ると、三人は気持ち良さそうに寝ころんで午睡を貧っていた。いつの間に来たのか、赤卜ンボの群れが辺りを飛び回っている。私も腰を下ろし、傍らにころがっていた水筒を開け、一口含む。目の前の石にとまったトンボが尾っぽをぐっと反らせてしゃっちょこ立ちをした。街の卜ンボとは違って山に育ったトンボは人を恐れないのか、寝ているみんなの腕や足の上で静かに羽を休めている。空から一匹私の腕にも降りて来て、私の顔を見てキトキト眼玉を動かした。
 寝ころぶと、青い空にトンボのシルエットが高く低くいくつも浮かんで見えた。うとうとと、いつの間にか私も寝入ってしまった。

*    *    *

アリ、襲撃す
 秋場氏は、永久橋の少し手前でウロウロしていた。
 「あれっ、どうしちゃったの? 上で待ってたのに」
 「いやぁ、途中で水が切れちゃってさ、下りてきちゃったんだよ」
 「そうかあ、頂上は草原で気持ち良かったのに、残念だったなあ」
 永久橋の少し先に、一箇所飛び石伝いに渡渉する地点があって、そこで顔と腕を洗い、洗面を済ませた。実は今日は起きてからまだ顔を洗ってなかったのでありますね。
 ここで突然文体が変わってしまうけど、なあに、かまうものか。書く日が違えば気分も違うから仕方ないのだ。 それにこれから下山後の温泉に向かって突き進んで行くところなので、話の気分としてもどうしても浮き足立ってしまうのでありますね。しかしその前に、もうひと騒動あったのだ。
 実は、テントを撤収して出発する前に、車を木影に移動しておいた。暑い時のオープン・カーは気分イイけど、オーブン・カーは最悪だけんね。だから窓のカーテンもキッチリ閉め、フロントガラスに銀マットまで貼りつけて徹底しておいた。こうしておけば、クーラーの効きの良ろしくない旧中沢号改め新HATTARI号でも、帰 って来てから可及的速やかに温泉に向け出発できる筈だったのであります。
 無事車まで戻って、中はそれほど暑くなってないだろうなシメシメと思って後ろのドアを開けると
 「ウワッ!! 何だこりゃ!!」
 車の中はアリンコだらけ。黒粒のアリンコがウジャウジャゴミゴミうごめいているのである。
 「アリッ? 俺、アリに何か悪いことしたかな??」
 小学三年の夏休み、うちのテラスを這い回っていたアリンコを虫メガネで焼き殺したことを想い出したが、いくら何でもありゃもう時効だ。他に咄嗟に思い当たるフシはなかった。
 「何だてめえらアリンコのくせに他人の車に勝手に上がりやがって、こんちくしょう」
 よく観察すると、アリどもは後部ドアの右隅の隙間から侵入し、車の右側に沿って運転席までメインルートを構築し(左側通行)、そこから各自自由にカーペット原野を越えて獲物探索の旅に出ているようであった。しかしいつまでもやつらの秩序立った組織行動に感心している訳にもいかないので、俺はやつらの排除行動に出ることを決意したのである。
 旧中沢号のお世話になった人はたくさんいるのでみんな良く知っていると思うが、この車の客間(貨物室)の構造は、まず一番下に板の台があり、その上にグレーのカーペットが敷かれ、その上から折りたたみ式のベンチシートが一脚取り付けてある。荷物を全部出したあと、俺は汗だくになりながらそれらを全部その逆の順序で取り外して行った。アリンコは荷物の下にも集団で固まっており、荷物を出したカーペットの上には無数の黒粒がザワザワうごめいて、さすがにその光景にはゾッとした。板の台も取り外すと、アリンコはその下にまで入り込んで、実に始末が悪い。小箒で床の排除作業に当たった阿部さんは、
 「あーキモチわるい、あーキモチわるい」
 を連発しながらこまめに箒を動かしていた。
 アリどもの襲撃の原因は、吉田さんが丹念な観察で突き止めた。実は車を移動して木影に駐車した時、右後輪がアリの巣穴の上にかかってしまったのでありますね。アリンコ達にしてみれば、突然見慣れない図体のでかいのがやって来て自分達の家の出入口にのさばり出してケシカラン、ひと 斥候を出して美味そうな所があったらみんなでワッと行って食っちゃおう、などと決議して着々と解体摂取に取り組んでおったのに違いないのだ。だから俺は実際アリどもに悪いことをしていたのであったが、それにしても来る時はキツネに化かされるは、来てからはアリに襲われるは、いったい何てとこだここは!

*    *    *

キツネのシッポ
 温泉は、井上氏の提案で、大湯の共同浴場に行くことになった。再び木の扉を開けて車をトンネルの中に入れる。今日は日曜のためか、車がよく通る。トンネルの中は昨夜と同じく、黄色い電球の光が古びた内部を照らしていたが、さすがに昨夜のガランとして底知れぬ気味悪さはなかった。
 さて、キツネの問題がまだ残っていた。この七号トンネルを抜けて次の五号トンネルとの間に、昨夜はなかった「六号トンネル」がもしあるならば、それは本当に恐ろしいことになり、「キツネが化かす」のは単なる冗談ではなくなる。長いトンネルを抜け、明るい出口に出たところで車を止める。昨夜車をバックさせてひとつ抜けた番号に頭が混乱した所だ。振り返って、トンネルの番号を確認する。やはり〔7〕だ。すぐ目の前にある次のトンネルの上を見ると、キツネのシッポはそこに隠されていたのでありますね、ちゃんと〔6〕と書いてあったのであります。その〔六号トンネル〕は外ならぬ昨夜の五号トンネルで、反対側の入り口の上には、昨夜確認したとおり、〔5〕と書いてありました。つまり、何故そうなったのかはわからないけど、五号トンネルと六号卜ンネルが途中でくっついていて、地図上の六号トンネルは七号トンネルに番号が変わっていたのでありますね。昨夜は気が動転して五号トンネルの出口側の番号を確認することまで頭が回らなかったけど、分かってみればそういうことで、「キツネに化かされる」とは案外そんなことなのかも知れんね、コンコン、とつくづく思ったのでした。


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