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丹沢中川川〈悪沢〉遡行日記
井上 博之

山行日 1990年7月8日
メンバー (L)山本(信)、今村、今井、荒川、斎藤、飯塚、井上(博)

 1990年7月7日
 今日はあいにくの雨だ。天気予報によると明日迄はもつ筈であったが、新松田駅に着く頃になってポチポチと始まり、全員集まった頃にはザーッと来た。ローンで車を買ったので、支払いが済むまでの山行は、何が何でもこれに乗って行くのだと強い意志を表明している今村さんは、今回も愛車スバルを駆してやって来た。7人も乗るのは無理なので、私をふくめて4人はタクシーで行くことにした。雨の日の登山客に同情してか、タクシーの運転手がいろいろと話しかけて来るが、この天気では話が弾まず、そのうちに皆無口になってしまって、せわしく動くワイパーの音だけが、やけに大きく聞こえる。
 今夜は割沢橋付近で幕営する予定であったが、急遽すこし手前にある中小企業従業員厚生センターに泊まることになる。
 とはいっても勿論畳やベッドの上で寝るわけではなく、いつものように無人の建物に無断で入り込み、ホールらしき場所のコンクリートのフロアーにマットを敷いて、シュラフにもぐり込むわけだ。
 それはよく整備された敷地のなかに建てられたきちんとした平屋の建造物で、窓はアルミサッシときている。これならどのような暴風雨がきても平気だ。われら<やまのぼりにん>にとってはまさに<黄金の御殿>である。テント泊を<野宿>と称し、私が駅構内で寝ることを嫌う女房に<今夜は橋の下だ>と言ったときに見せたいやな顔をふと思い出す。

 7月8日
 昨夜遅くというより今朝早くまでわれわれが大いに愉快に酒盛りをしていたとき、隣で寝苦しそうにごろごろしていた連中のせわしげに動く気配に目を覚まされ、シュラフから寝ぼけまなこを少し出して、薄目にそっと外を見ると、なんと曇り空に晴れ間が見えているではないか! われらが仲間の中にも既に起き上がり座っている者もいる。慌てて寝袋から這い出す。
 昨日<雨女>などという濡衣を着せられていた飯塚さんの顔もこころなしか晴れやかだ。
 めざす沢まではローンの車で運んでもらい、各自黙々と身仕度を始める。斎藤さんはワラジだ。岩でも氷でも同じだが、出発前のこのすこし緊張するひとときは、ささやかながら山に来た幸せを感じる時でもある。
 前回の金山沢では水が少なく、シューズの裏以外どこも濡れなかった、という非常に特殊な沢登りであったが、今度は水量もあり、いわゆる<渓流遡行>が楽しめそうだ。
 トップを行くゲンさんがわざわざ腰までの深みにとびこむ。傾斜のすくないナメ状の小さな滝では、苔があって滑りやすく、微妙なバランスを要求される。ひさしぶりに斎藤さんの<キャアー>が聞かれる。何人かは足を取られて、這腹後方滑降をはじめる。ここは比較的明るくて、ごく普通の沢のように思えたが、なるほど、これが<悪沢>と呼ばれている由縁であろうか。
 25mの滝では殆どのひとは右に巻いたが、私はあえて中央部を登ることにした。頭からしっかりとシャワーを浴びながら途中で左にトラバースする。ずぶぬれの快感に酔い、英雄にでもなかったかのような気分で滝の左側の岩に取り付いたが、さあ困った。手掛かりが全く無いではないか!
 今井さんが後から来て直径わずか3~4mmほどしかない灌木にヒョイとぶらさがり、いともたやすく上にぬけてゆく。私も、と早速その細い枝を掴んではみたが、これがなんとも頼りない。下をみると硬そうな岩が待ちうけている。落ちれば只ではすまないだろう。体重差約20Kgが凶とでるかもしれないのだ。
 今井さんのシュリングかザイルを期待して伸びあがってみたが、彼はすでにそこには無く、皆の後を追って先を急いでいる。しばしひとりで悩んでいたが、南無八幡、なるべく衡撃をあたえないように恐る恐るその小枝にからだを預けながらせりあがってゆく。
 沢を抜けて頂上あるいは稜線へつめる時多くの場合薮こぎになる。そこはまた傾斜が急なことも多い。夏の暑い日などは沢の水で涼しかった後だけに、天国から一転して地獄を味わうことになる。ここもその例外では無く、尾根道へ出るまでは、立木から立木へと抱きつき、ブッシュをかきわけながらの汗と泥のアルバイトとなる。
 <この藪こぎがこたえられない>とのたまう人もいるようだが、私などごく正常な神経の持ち主にとってはありがたくない世界だ。
 かえりには満場一致で温泉ゆきとなった。今村さんだけが先にかえる。徒歩で約10分、中川温泉のちいさな露天風呂には5、6人の先客がありにぎやかであった。なんとか割り込むと、とっぷりとあごまで湯につかり、吸いこまれるように高い空と、そこに浮かぶ白雲に放心の目をやる。
 一日の汗とよごれを温泉の湯でさっぱりと流し、壮快な気分でそとへ出ると、山々の木はいちだんとその<みどり>をふかめ、みちばたに咲くあじさいの花の<むらさき>はしたたりおちんばかりのあざやかさであった。
 次の便を待つ間、ザックを横に、バス停わきの道路にぺったんこと座りこむ。山村に吹く風は爽やかで、キビタキやコルリなど野鳥のさえずりをバックに、刻々とあたりの様相を変えてゆく日暮れ時の華麗な色のドラマは誰しをも詩人にしてしまう。突然一羽のからすが谷を越えて、悲鳴にも似た声をあとに、むこうの森へ飛んでいった。秋はそう遠くないのかもしれない。

〈コースタイム〉
割沢橋(8:20) → 25mの滝(8:50) → 尾根(12:40) → びょうぶ岩山頂(13:25) → 大滝峠入り口、車道(15:30) → 割沢橋(15:45)


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