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槍ヶ岳事故報告
今井 敏樹

1. 事故当時
 11月24日、午後3時30分、私と渡辺君は、槍の肩から穂先への往復を終え、ベースのある槍沢ロッヂヘ向け下降を開始した。急がないとすぐに日が暮れてしまうと思い、安全と思われる場所ではシリセードを試みた。アイゼンを装着したまま、1回、2回と順調に滑り降りていく。途中で4人組のパーティを追いぬいていく。3回目のシリセードの後、斜面も少し緩くなり、滑らなくなった。少し歩いた後、再び傾斜があるシリセードが出来そうな斜面を見つけた。場所は殺生ヒュッテから二つ下のモレーンがある付近だと思う。時間は4時頃であろうか。先に渡辺君が滑る。ちょっと流されたようだったが無事停止する。私は彼に続いた。斜面は次第にクラスト気味になり、あっという間にものすごいスピードになった。それほど私のカッパは滑りやすいということが身にしみた。と同時にすぐ止めなければという思いが、頭の中を駆け巡った。そして直ちに滑落停止に入った。
 すぐに停止することは出来たが、右足の状態がおかしい。どうやらアイゼンの前歯を雪面に引っかけたらしい。軽い捻挫だと思ったが右足が全く前へ出ない。同行の渡辺君が近くへ寄ってくる。何とか無理しても歩けないものだろうか。怪我の当初はそのことだけしか考えられなかった。しかし、無理してもほとんど歩けない状態だった。
 そうこうしているうちに先ほど抜いていったパーティが現われ、声をかけてくれた。
 そこで搬出されることになるわけだが、その前に計画から登頂のことにも触れたいと思う。

2. 計画から槍ヶ岳登頂
 正月合宿偵察のための赤石岳から帰ってきてすぐのことだった。職場の同僚、渡辺君より、槍ヶ岳に行かないかと誘われた。彼の計画では、上高地から槍沢経由で槍ヶ岳ピストンというオーソドックスなものだったが、まだ登ったことのない私には、かなり魅力的なものに思えた。槍ヶ岳は何度か計画するたびに中止になったり目前にしながらコース変更を余儀なくされた山である。11月なら静かでしかも雪がついてスリリングな山行が楽しめよう。当初の八ヶ岳ヘ行くメンバーから外してもらい、具体的な計画をたてた。

 11月23日 小雨から雪のち晴れ
 上高地まで車が入らないため2時間以上手前の坂巻温泉からの入山となる。釜トンネルを抜けると白銀の世界だった。雪はまだしんしんと降り続いている。
 やがて上高地のバスターミナルに到着。誰もいない。休んでいると数名がやってきたが、それでもシーズン中のことを思うと嘘のように閑散としている。連休だから大勢いると思ったのに。
 明神をすぎ徳沢へ向かう付近から天候は回復し、太陽も姿を見せはじめる。徳沢園の冬期小屋は上高地以奥で、唯一営業していた。ここでビールを買うことにする。二日後、この小屋が救助連絡先になることなど全く想像もつかなかった。
 午後4時過ぎに槍沢ロッヂ到着。小屋の脇にテントを張ることにする。
〈コースタイム〉
坂巻温泉(8:20) → 釜トンネル出口(9:00~10) → 上高地(10:20~11:00) → 徳沢(12:45~13:05) → 横尾(14:00~30) → 槍沢ロッヂ(16:20)

 11月24日 快晴
 朝起きると、すっかり明るくなっていた。暗いうちに出発する予定がかなり遅くなってしまった。急いで朝食をとり、槍ヶ岳往復に必要なもの以外はテントの中に置いておくことにして出発した。
 旧槍沢小屋跡の少し先で夏の水場が出ており、ここで水筒を満たんにする。朝から陽が差し、大変暑かったので大いに助かる。
 雪は次第に多くなるが、この先も雪崩の心配はなさそうなので水俣乗越へは上がらず、そのまま槍沢をつめることにする。トレースはばっちりついていたが、すこぶる体調がよいこともあって、時折トレースの脇を歩いてみる。ラッセルは足首程度の深さであった。
 大きなモレーンを越えると槍が正面に大きい。雪がクラストして来たのでアイゼンを着けるが、軟雪のところも多く、ダンゴ状になったりして歩きにくい。
 殺生ヒュッテを右脇に見て、最後の急登を登ると槍の肩に到着した。 一服した後、冬期小屋にザックを置き、空身でピストンすることにする。尚、補助ロープ、シュリンゲ、カラビナ、ウェストベル卜は持参した。
 槍の穂先に取りついてみると鎖はあまり使用できない。ハシゴは使用できたが、よく滑る。上からベルグラの氷が時折バラバラ降ってくる。ホールドは雪や氷に覆われて十分ではないので慎重に行動する。40分程で無事山頂に到着。
 槍の山頂は予想以上に展望がよく、感激もひとしおである。何度も来ている渡辺君も同様のようだ。
 30分程休んだ後は、問題の下降である。初めからアンザイレンする。少しでも危いところはスタカットに切り換える。ザイルを持ってこなかったことが悔やまれるが7ミリ10メートルの補助ロープでまめに確保していく以外にない。ハシゴや岩角、所々打ちこまれた鉄のくいなどを支点にし、時にはシュリンゲとロープを連結したりして何とか肩まで降りることが出来た。久々の緊張であり、上りの倍以上時間がかかった。あとは歩いて下るだけ ― そんな思いだった。冬期小屋にてコーヒーを沸かしてから下山にかかった。後は冒頭で述べたとおりである。右足が動かなくなった私のところヘ4人パーティが下りてきた。

3. 搬出(その1、槍沢ロッデまで)
 「どうしたのですか」
 4人パーティの中のリーダーらしき人物が声をかけてきた。
 事情を説明し、一諸に搬出方法を考える。持参した装備と雪の斜面であることで、私自身がそりになり、前後左右で確保されながら降ろされることに決定した。私はウェストベルトを着け、ベルトの前後にカラビナをかけた。そこから持参していた補助ロープとシュリンゲで、前方の人からは引張っていただき、後方の人からは確保していただいた。途中までは広い雪の斜面で順調だった。傾斜が緩くなり、滑らなくなってくると後方の確保者が前へ出て一緒に引張ってくれた。また時折ブッシュが現われるとまっすぐ降ろせなくなり、苦労していたようだ。彼らのザックにはテント一式担いでいるのでかなり重い筈である。そのことを考えると本当に申し訳ないと思う。
 日没後も搬出作業は続けられた。雪も除々に減ってくると他の方法に切りかえることになった。いろいろためしたが、結局普通に背負っていただく(つまりおんぶ)ことに落ちついた。また他の人はテントが張れるところを捜し始めた。
 テントサイトは槍沢二俣付近に適地が見つかり、そこに二張張られた。そしてただ見ているだけの自分が大変情けなく感じられた。
 テントの中に入れていただき、初めて互いの自己紹介をしあう。4人パーティは髭の富田氏をリーダーとする飛島建設の方 ― 生津氏、徳武氏と彼らの友人 ― 船田氏(日立)とで構成されていた。4名ともかなりの経験者とみられた。話をうかがうと数々の武勇伝が出てきた。現在4名とも特定の山岳会への加入はしていないとのことであった。
 その日は若干の行動食も残ってはいたが、4人の方の好意により彼らの夕食を分けていただいた。また寝る前に応急手当として湿布(渡辺君持参)をして包帯を巻く。
〈コースタイム〉
槍沢ロッヂ(7:50) → 2400m付近(9:45~10:00) → 殺生ヒュッテ付近(11:40~50) → 槍の肩(12:30~50) → 山頂(13:30~14:00) → 槍の肩(15:00~30) → 事故現場(16:00頃) → テントサイト(19:00頃)

 11月25日 晴れのち曇夜半から雨
 きのうは寒さと緊張のためか全然眠れなかった。昨日の打ち合わせ通り、渡辺君は私のザックも持って先に私たちのベースがある槍沢ロッヂヘ戻り、そこから空身で徳沢へ向かい在京の方と連絡をとってもらうことにした。不安なのは徳沢に必ずしも電話があるとはいえないことである。
 私は少し歩けるようになるかと思ったが、全くダメなので、ベースがある槍沢ロッデまで降ろしてほしいとお願いするしかなかった。ベースに戻れば当面の食糧などは十分であり下山が少々遅れても大丈夫だからだ。彼らはいやな顔ひとつせず、OKしてくれた。こうして再び彼らに交替で背負われる身となった。出発前に振り返ると、大喰岳がバラ色に輝いていた。これがモルゲンロートだろうか。こんなに美しいものは初めてだった。色はすぐクリーム色に変わっていった。
 順調に下山が出来、思ったよりかなり早く槍沢ロッヂ到着。ここで彼らにお礼を言って別れた。このような人たちに巡りあったのは本当に不幸中の幸いだった。

4. 搬出(その2、槍沢ロッヂから)
 彼らと別れて1時間程すると渡辺君が槍沢ロッヂのテント場に戻ってきた。12時少し前のことだった。状況を尋ねると、徳沢にて在京の勝部宅と連絡がとれ、救援隊を直ちに編成してこちらへ向かうとのこと。そしてこちらに着くのは明日の昼頃だということを知る。本当に申し訳ないことだ。
 その晩は、昨夜行った湿布を取り換えるが、足首の腫れがひどくかなり痛い。そのため夜は全く眠れなかった。また夜半から降りはじめた雨が途中雪に変わり、渡辺君は除雪を行う。
〈コースタイム〉
テントサイト(6:20) → 槍沢ロッヂ(10:00)

 11月26日 雨
 朝、雪は再び雨に変わった。昼頃救助隊が来るということなのでそれまでにテントを撤収して冬期小屋に移らなければならない。とりあえずは朝食であるが、私は食欲がなく何も食べられない。
 朝食後、何か人の声がすると渡辺君が言ったので外をのぞくと田原氏であった。かなり早い到着にびっくりすると同時にうれしかった。
 すぐ小屋に移ると同時に、足首の処置(テーピング等)をしていただき、搬送の準備をしていただいた。
 東京から来ていただいたのは田原氏の他、佐藤明氏、金子氏、服部氏、大泉氏の計5名であった。忙しい中、わざわざ来ていただき、本当に感謝の言葉もない。ちなみにこんなに早く到着したのは豊科警察でゲートの鍵をもらい新村橋まで車で入れたこと、そして何より来ていただいた方の熱意によるものであろう。
 搬送方法は背負子にマットでくるんだ箱をのせ、その上に私が腰かける。交替でこれを背負っていただくことになった。雨の中、次々に交替して山道を下って行くが、背負子の箱がずれてくる。そのため腰かけではなく、立っているのと同じになり、背筋運動をしている様で苦しくなった。また背負っていただいている方々からも背負いにくいという意見が出た。そのため途中からザイルを使用したオンブにかわった。この方が両者共に楽だということになり、目的地までこの方法がとられた。
 昨日まではずっと晴天が続いていたが、今日は朝からの雨がずっと降りやまない。ぐしょぐしょになりながら横尾山荘の冬期小屋に辿り着いた。
 横尾では、ここをベースに写真を撮っている方がいて彼に薪ストーブを焚いていただき、 一同濡れたからだを乾かした。ここで軽食をとった後、新村橋へ向かう。
 雨も小降りになった頃、ようやく新村橋の田原氏の車がある所へ到着。明氏と渡辺君は連絡のお礼の為徳沢へ向かう。2人が戻ってきた後、車は豊科へ向けて出発する。
 途中沢渡にて食事をとり、在京の勝部氏に終ったことを連絡する。私は一人では何も出来ず、これからのことが思いやられる。
 豊科警察へ鍵を返しに行く時、近くに病院があるとのことでその赤十字病院へ寄っていただいた。診断の結果、骨に異常はないが右足首の靭帯が2本切れているということで早速ギプス固定の身となる。ギプスをはめるのは生まれて初めてのことである。
 後は中央自動車道を東京へ向かった。錦糸町にて解散し、私は佐藤明氏の好意でその日は彼のマンンョンに泊めていただくことになった。
〈コースタイム〉
槍沢ロッヂ(9:45) → 横尾(11:45~12:35) → 新村橋(13:30)

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 以上のように今回、大勢の方々に大変お世話になりました。特にその場にいあわせた4人パーティの、富田氏、船田氏、生田氏、徳武氏には感謝のことばもありません。また貴重な休みをとって槍沢ロッヂに来ていただいた田原会長はじめ、佐藤明氏、金子氏、服部氏、大泉氏の三峰の仲間にも大変な御足労をおかけいたしました。また勝部氏および夫人には連絡の面でいろいろ面倒をおかけいたしました。同行者の渡辺君もいろいろな意味でご面倒をおかけしました。深く御礼申しあげたいと思います。またこの他にも多くの方々に御面倒や御心配をおかけいたしました。この場を借りて合わせて御礼申しあげたいと思います。

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追記 反省点(事故原因)
 直接的には雪面へのアイゼンの引っ掛けであるが、もっと大事なことは精神状態だろう。怪我当日、私は最近これ以上ない位体調が良かった。また当日は快晴で穏やかな一日だった。また穂先ピストンという難所を越え、知らず知らずのうちに緊張が緩んでいたのだろう。そのため行動が大胆になり、慎重さを欠いていたのではないか。事故の典型例である。深く反省したいと思う。ただこのことだけにとらわれてはいけないが。とにかく最後まで気を抜かない ― 常にこのことを意識していきたいと思う。

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 尚、今回の槍沢事故については山岳保険を請求いたしました。会より救助に向かった者の日当一人一日当り8,000円及び交通費等として125,854円の保険金が下りました。豊科警察への御礼として届けた菓子折代金2,060円は保険の対象とはならず、この分については会の特別会計より支出いたしました。

(文責・服部)

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