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平成三年度春山合宿 後立山連峰・五竜岳集中
その4 ベース隊(五竜岳)報告
大泉 洋

山行日 1991年5月3日~6日
メンバー (L)大泉、今井、井上(雅)、香山、田原、勝部、川森、小川、石田、(鈴木)

 『北安曇みから後立山連峰を眺めると、高さは特別ではないが、山容雄偉、岩稜峻萬、根張りのどっしりした山が眼につく。それこそ大地から生えたようにガッチリしていて、ビクとも動かないと言った感じである。これが五竜岳だ。
 後立山連峰という呼び方は、北アルプスが一般登山者に開かれてから通用しだしたものである。藩政時代の絵図にも後立山という名はあった。しかしそれは立山(りゅうざん)(立山を昔は「りゅうざん」とも呼んだ)から見て、黒部川の対岸の山を後立山(ごりゅうざん)と称したのである。
 後山がいずれの山を指すかについては、初期『山岳』誌上で盛んな論争があったが、ゴリュウが五竜に通じる点から、今の五竜岳であろうという説が勝を占めた。しかしその後いろいろ検討の末、昔の後立は今の鹿島槍に相当することが確定的になった。
 信州側では、戦国時代この地方が武田信玄の勢力範囲だったので、山の残雪の形が武田家の紋章の菱に似ているところから、御菱(ごりょう)と呼んだ。それがゴリュウに転訛したという説があるが、確かな文献はない。山麓の人々は割菱ノ頭と呼んでいた。
 ゴリュウに五竜という宛字をしたのは、この山に最も早く登った三枝威之介氏で、明治41年(1908年)7月のことだった。それ以来五竜は確固として動かなくなったが、この軽佻なところの少しもないガッチリした山に、五竜という重厚な名は全く打ってつけだと思う。』(深田久彌著:日本百名山より抜粋)
 今、合宿時の写真を眺めている。そういわれてみると確かに菱に見える。山名の由来には実に興味深い点が多い。(帰りの温泉で白馬岳の馬の形らしきものも教えてもらった。)
 さて、行動概要であるが、5月3日~5月6日(6日は予備日)の日程で大遠見山にベースを置き、参加者10名で五竜岳ピストン、スキーとそれぞれ楽しんだ。入山日の冬山並みの天候を除けば天候にも恵まれ、みな真黒に日焼けし、十分に春山気分を満喫することが出来た。下山は季節はずれの大雪の為スケジュールが狂った菅原隊を待っていた都合上5日の下山と6日の下山となった。みなさん本当にごくろう様でした。

 5月3日 雪~風雪
 大町あたりから、真白な世界となっており大変ビックリする。これじゃ先が思いやられる。テレキャビンでスキー場へ。まるで冬のスキー場に居る気分だ。前日ほとんど寝ていないのでとても眠い。何とか予定通り大遠見山で幕。この日、鹿島槍北壁主稜隊が壁の状態が悪く転進して来た。いっしょに宴会。

 5月4日 晴れ
 すばらしい登頂日和。大泉、今井、石田、井上、香山、小川、(鈴木)で五竜ピストン、田原、勝部、川森はスキーと二つに分かれそれぞれに春山気分を満喫。しかし、五竜は4、50人連なっていただろうか。先頭グループの方はさぞかしラッセルが大変だったろう。感謝、感謝。この日、白馬から服部、大久保、荒川、阿部も転進して来る。やはり大雪のため大変な目にあったらしい。交信不通だった菅原隊ともやっと連絡が取れる。

 5月5日 晴れ
 菅原隊を待って田原、勝部、今井、大泉、井上が残り、石田、香山、小川、(鈴木)に下山してもらう。3時半頃、五竜山荘で合流。無事を祝う。この日遅くまで宴会。

 5月6日 晴れ
 下山。白馬で温泉に入り帰路につく。


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