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平成四年正月合宿 爺ヶ岳集中
その4 南尾根隊
服部 寛之

山行日 1991年12月30日~1992年1月1日
メンバー (L)服部、大泉、佐藤(明)、井上(博)、阿部、石山、澁谷、武石、安斎、上木、朝岡

 南尾根隊は総勢11名(男8名、女3名)、今回の合宿では最多人数のパーティであり、内5名が最近入会した人達で、5名とも本格的な冬山は初めてというメンベー構成であった。
 入山前日12月29日の夜は、いつもの様に眠れぬ夜行で行くよりはと、新宿18時発の特急あずさ27号で早めに信濃大町に着き(21時45分着)、大人数で少々ずうずうしいが(東尾根隊も一緒であった)駅待合室で存分仮眠を取らせてもらうことにした。待合室はストーブもついたままでヌクヌクといい具合であったが、だが一番列車が入る4時頃には駅員にたたき起こされてしまい、もう少しゆっくり寝ているという訳にはいかず残念だったが、少なくとも全員夜行列車に揺られて来るよりは休めたのではないかと思う。
 30日6時、小雪の舞う中、前夜頼んでおいた駅前のアルプス・タクシー3台に分乗して大町ルートの冬期ゲートまで行く。ゲートには入山者のものらしき車が数台駐車してあった。新雪でくるぶし位まで埋まったまっさらな道をサブ・リーダーの大泉氏を先頭に懐電を点けて出発。30分弱で薄明るくなり、やがてジープが1台我々を追い越していくと、その後からラッセル車がやって来てずいぶんと歩き易くなった。
 2時間強で扇沢出合に着くと、前夜この辺りで幕営したのか、数パーティがたむろしていた。登山道(柏原新道)入口は膝位までの新雪がまっさら。どうやら各パーティともラッセルに付いて行く頃合を見計らっているらしい。我々も休憩を兼ねて様子をみる。 10分位すると、うまい具合に7~8名のパーティがついに意を決して(エライッ!!)出発し、我々も5分程置いて出発する。テントを撤収しつつ頃合を見計らっていたパーティは出合の少し上にも2~3いて、意を決したパーティの後ろはあっという間に大行列となった。樹林帯の中のジグザグを延々と繰り返して行く道はかなりのラッセルで、大行列は遅遅とした進軍ぶりである。 1時間程して我々がラッセルを交替する。大泉氏から順番に先頭を替わって行くが皆汗をかきつつもけっこうラッセルを楽しんでいるようだ。
 他のパーティと抜きつ抜かれつ行くと、やがて樹林が切れて雪に埋め尽くされたトラバース地点にでた。我々の前にいた二人組は胸から頭までのラッセルにへばっており、我々もスコップを出して替わるが、低木を埋めている軟雪ではなかなか埒があかない。アドバイザーの明氏の言うごとく、ここはどうやら夏道が種池に向けて尾根のトラバースを開始する地点のようで、だとすると冬ルートはここから真っすぐ尾根沿いに上がって行く筈である。30分程皆に頑張ってもらった雪掘りを放棄し、先に明氏の進言に従って尾根に取り付いていた後続パーティの後を追って行くと、果たして赤テープが出てきて正しく冬ルートに入ったことが分かった。ベテランの勘と判断はさすがでありました。
 ところで我が隊列の行進ぶりであるが、リーダーの私が雪に不慣れな新人達の歩調をなかなか把握できないためか、何度かメンバーの順番を入れ替えてみてもなかなか足並みが揃わず、どうしても隊列が大きく途切れてしまう。高度を上げるにつれ低く薄くなってくる樹林の尾根には、吹き付ける風雪も次第に激しさを増してくる。だいぶ厳しくなって来た頃、極端に歩調が遅くなったメンバーが二人でたので装備を分散し直し、明氏と私が彼らに付き添い、残りは大泉氏に任せて先に行って幕営の準備に取り掛かってもらうことにした。
 幕営場所はジャンクション・ピークの端に風を避けられるいい所があった。ジャンボと4~5人用の2幕を張り、あらかじめ決めていた通り7人―4人に別れて潜り込み、やっと一息ついた。
 31日、天候は回復し、大糸線を狭んだ東側の山々は見えているが、こちら側の稜線にはガスがかかり山は見えない。予定では今日は爺ヶ岳を越えて冷池山荘まで行くことになっているが、昨日のメンバー達の歩きぶりと残りの者達の構成を考えると、5人の新人に不慣れなアイゼンを付けさせて雪混じりの烈風吹きすさぶ(ように見える)稜線を重装備を担いで安全に縦走して行くには、いささか自信が無い。大泉氏と相談した結果、ここはやはり慎重に判断して頂上までのピストンとすることにした。
 7時半出発。ジャンクション・ピークの先はしばらく緩やかな尾根が続き、低木が這松と交代し爺ヶ岳南峰に向けて斜度を増す辺りにさしかかると、急速にガスが取れて行く手に伸び上がる白い爺の雪稜と、その左手には剱岳が純白の衣をまとった秀麗な姿を現わした。思わず皆足を止めて見惚れてしまう。腰の辺りに薄雲をからめたその美しさには、秀麗という言葉さえ陳腐に響く。
 南峰着10時7分。頂上はさすがに風が強い。だが今はすっかり天気は回復し、真っ青な空の下、360度の白銀の大パノラマをしばし堪能する。誰が持って来たのか『展望の山旅』のコピーが出てきて、皆で山座同定を楽しんだ。主峰がわけの無い近さなのでそっちにも足を延ばし、ピークの東側に風を避けながら、東尾根をこちらにぞくぞくと登ってくるパーティを眺めていると、もしかしてもしかするかなと思った通り、飯島氏らの東尾根隊が上がって来た。集中山行ならではの嬉しい瞬間である。意外にもパーティの数は南尾根より東尾根の方がずっと多く、ラッセルもなくここまで楽々来れたという。彼らは当然冷池の方へ行くつもりでいたのであったが、我々の予定変更と、(この合流の2時間程前に我々と白沢天狗尾根の大久保隊との間でやっと取れた無線交信で分かったことだが、)大久保隊が苦戦の末現在敗退中であるという状況をうけて、長い協議の末、我々と共に南尾根を下りることとなった。あれ程晴れていた天気は、飯島隊がピークに到着した直後からにわかに悪化し、下山を始める頃には濃いガスに包まれてしまった。その原因は、ここでは敢えて深く追求しないでおこう。
 北西からやや南西に廻りこんできた強風に背中を押されるように下山し、帰幕12時20分。飯島隊は我々のすぐ下、昨夜例の最初にラッセルの意を決したパーティが張っていた場所に2張り設営し、我々は昨夜象足で大キジを踏んでしまうという、象足の持主には誠にショッキング極まった事件への反省から、上木氏に頑張ってもらってトイレを製作したのであった。午后の定時の交信では、今日高千穂平に入るという植村隊と大久保隊の双方と連絡が取れた。大久保隊は今夜は大町ルートの冬期ゲート付近に幕営し、明朝我々と合流の予定となる。その夜は2隊入り乱れての交歓となった。
 翌朝元旦、降雪の中、我々は飯島隊より一足早く7時20分下山開始。順調に下って9時頃高度差にして扇沢出合の100m位上で大久保隊と交信が取れた。当初の見通しよりだいぶ遅れており、大久保隊は待ちきれず先に薬師の湯へ行くこととなる。扇沢出合に着く頃には飯島隊も追い付き、そこから冬期ゲートまでも意外と早く到着した。昨夜けっこう酒が出たにもかかわらず、ザックに空間があればどんな微細な隙間にも酒を収納できる技術を持つ明氏は、気付かれぬよう何気ない態度で密かに飲酒に及んでいたが、そうは問屋が卸さず、あっという間に皆に飲まれてしまったのであった。冬期ゲートから薬師の湯までは結構距離があるように感じられ、くたびれ果てて薬師の湯に着き、大久保隊と感激の合流となった。大久保隊は一足先に帰京することとなり、我々2隊は入浴し、下山後ここへ寄ることになっている植村隊にメモを残し、タクシーで信濃大町駅へ出、食事をして臨時の特急で帰京した。
 去年の正月合宿以来、私のパーティは何かとピークを踏めないことが多かったが、今回予定の変更はあったものの絶好の条件でピークを踏めて溜飲をさげることができ、冬山初めてのメンバーも冬山の楽しさ素晴らしさを味わうことができた。合宿全体として見た場合、予定変更についてはいろいろと意見があろうし、それは今後の検討課題であるが、今回我がパーティは、反省点も多かったがそれなりに満足のいく合宿であったと思う。皆さんご苦労さまでした。

〈コースタイム〉
30日 冬期ゲート(6:25) → 扇沢出合(8:30~8:45) → ジャンクション・ピーク幕場(15:00)
31日 幕場(7:30) → 爺ヶ岳南峰(10:07~10:20) → 主峰(10:30~11:10) → 幕場(12:20)
1日 幕場(7:20) → 夏道出合(8:30) → 扇沢出合(9:15~9:25) → 冬期ゲート(10:30~10:40) → 薬師の湯(11:35)

※爺ヶ岳の三角点は、2万5千図では中央峰に2669.8mの数字と共に記載されているが、実際に行ってみると、その標高が入った爺ヶ岳の標識はなぜか南峰に立てられていた。


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