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インド・ヒマラヤ ヌン峰(6,135メートル)
登攀メモ
井上 博之

(平成3年 日本ヒマラヤ協会ヌン峰遠征隊隊員として参加)

 8月13日、登頂をあきらめてC3からClへと下るために重い足をひきずってスノープラトーを渉っている時、思いがけずに突然こみあげてきた感情の高ぶりに胸がつまってしまった。

 このうんざりするように長くて単調なスノープラトーを繰り返し何度通ったことか。そこは5,000メートルの高度にあるために、一気に駆け抜けることは出来ない。少し歩いては酸素不足に喘ぎ、しばらく息を整えることになる。体調がよくない時には荷あげの重量を軽くしてもらっても、先行の人に遅れまいと、ありったけの力を紋り出すおもいだった。

 休暇のやりくり、出発前の仕事の整理とトレーニング、現地での高度順応、荷あげ等々いろいろあってヌンヘの道は遠かった。それを象徴するかのようなこの延々と続くスノープラトーの反復横断もこれで最後だ。子供のときは虚弱体質であったし、その後特に身体を鍛えたわけではない。50才になってから山登りをはじめて7年、この年でよくここまでこれた。これは自分の力だけで出来るものではない。いろいろな人のおかげがあった。また幸運にも恵まれた。
 かつて、あれやこれやと持病の多かった非力な自分自身もよく頑張った。力の限界への挑戦に臨むことが出来た自分は幸せ者といえるのだろう。 年齢からいって、このようなハードな海外遠征はもう出来ないかもしれない。 いずれにしても、お祭りはおわったのだ。などなどと、混然とした想念がミックスして自己コントロールが出来なくなったのかもしれない。
 一方では、第三者的にこの感情の起伏を楽しんで観察している別の自分もあった。
 不思議なことに頂上が踏めなかったことへのくやしきはまるでなかった。むしろ全力を出しきったあとに残る爽やかさがあった。
 せい一杯やったのだ。
 2年前のハンテングリでは7,010メートルの山頂が踏めたのに、下山するときに感したものは充実感とはほど遠いボロボロになった自分であった。敗残兵をすら連想したものだ。大自然に対して自分だけが意気がって、キリキリ舞いしたにすぎないことを思い知らされたわけだ。
 私にとっては大きかったこの二つの山行のいずれがより有意義であったのか、比較することはむずかしい。
 登山は登頂だけが目的ではないということの一例であろうか。

 スノープラトーを渉り切るとヌンはもう見えなくなる、だがあえて振り返るまいと自分自身に言い聞かせた。
 『ヌンはもう終わったのだ、さあ次は何をすべきか考えよう』

*  *  *

 インドは以前からぜひ来たい国だった。高校時代に読んだ堀田善衛の『インドで考えたこと』の印象が強かったせいもあるが、仏教の発祥地としてのインドには興味があった。しかし、来てみてその貧しさには正直ショックをうけた。聞きしにまさるものであった。
 仕事柄少し英語をしゃべるので通訳を兼ねて、不運にも入院することになった4人の仲間と一緒に幾つかの病院へ行くことになった。
 そこでは医療施設の現状や付近に住む人たちの生活ぶりなど、直かに接することが出来た。
 軍関係の施設は別として貧しさからくる非衛生的な環境があちこちで見られた。だが、ここに勤務するお医者さんたちの多くは態度が立派だった。患者やわれわれに接する態度は自信に満ちていた。

 ベースキャンプヘの途上にある最後の村タンゴールの場合、 1年のうち9ヶ月は雪の中、冬季には零下4、50度にも外温が下がるというたいへんなこの無医村へ、奥さんを町に残して単身赴任、満足に医療器具も薬品も無い石と泥と埃の小屋の診療所で貧しい村人の診療にあたっている若いお医者さんのおだやかな表情に接した時には、お釈迦さまを産んだインドの顔の一面を見た思いがした。
 タンゴールといえば、そこにある自然の美しさは見事なものであった。背景にあるヒマラヤの山なみは神々の山とでも呼びたくなるように秀麗であり、そこに咲き競う高山の花々は可憐で、時には健気であった。
 この高山の花は高みにいくにつれて数こそは減るが、すがた種類を変えて4,500メートルのC1付近にまで咲いており、われわれの心を和ませてくれた。
 道すがら何度も立ち止まっては見とれて、時には登山遠征中であることも忘れて夢中になってシャッターを切った。

 頭に透明な朝露をいだいてC1のキジ場に咲いていたあのちいさな花の、ぼってりとした独特な姿とモスグリーンの味わい深い色は今でもはっきりと目に浮かぶ。

*  *  *

 今回C4までのルート工作は橋本さんをリーダーとする田村さん中山さん二人の強力メンバーが主体にやってくれたので、われわれはほとんどフィックスロープをユマールすればよく、体力は消耗したものの登攀に技術的なむずかしさはあまり感じられなかった。しかし、8月12日寝苦しかったアタックキャンプを未明4時半に飛びだして、頂上をめざした時には、さすがに緊張した。
 すでに前日第1次アタック隊は、高度約6,800メートルの大岩付近で登頂をあきらめて敗退していた。
 北西稜線は過去の記録に基づいて予想していたような雪山では無くて固い氷で覆われていること。しかもその稜線は幅が30センチほどしかないナイフリッヂであること。 用意してきたスノーバーが使い物にならないこと。氷での確保に必要なアイスピトンは使い切ってしまって手持ちが無くなったこと。フィックスロープも同様であること。パートナーの滑落を止めるには反対側急斜面に飛び込むほか無いが、これは実際問題として非常に困難であること。制約された時間内で頂上から下山することはむずかしかろう。といったことなどが敗退の理由としてあげられていた。
 大岩から上は同じ条件でアタックせねばならないわれわれ第2次隊が登頂に成功する可能性は極めて少ないであろうことは当然予測された。
 稜線をめざして西側斜面をトラバースする時1次隊の報告が誇張でないことがよく分かった。そこはそれなりに傾斜があり、氷が固くてピッケルの効きが悪く、砕けやすい。スノーバーなど勿論使い物にならない。ザイルパートナーとなった中岡さんを確保するためにピッケルとアイスバイルを何度も何度も氷面に打ち込み直さねばならなかった。
 その日は、雲ひとつない快晴で風は無かった。だが私はGORO製のパカデカ二重山靴をはいていたのにもかかわらず、寒さで足の指先がかじかみ、感覚が失くなってきた。確保の姿勢にある時には凍傷になるのを防ぐために休みなく靴のなかで指先の屈伸運動を続けねばならなかった。
 ザイルを引いて第1次隊の最高到達地点、大岩直上の稜線にとどいていた中岡隊長、関根副隊長の二人はしばらくそこにとどまって話し合いをしていたが、やがて敗退を決定、エキスペディンョンの終焉をわれわれに告げた。
 全天を覆う深海のように濃いブルーの空の色が目にしみた。

*  *  *

 今回は大きなクレバスを渉る作業は無かったが、ヒドンクレバスには気を使った。とくにC2、C3間の緩傾斜部には、それらしきものがあちこちにみられた。一人で下っている時にルートを見失って、いやな所を通過するはめになり、それこそ薄氷を踏む思いがした。
 雪解け水が足下にトンネルをつくり、深い落とし穴になっている所もあった。あろうことか、私がそこに見事はまりこんでしまった。
 フィックスロープを付けていたので、大事には至らなかったが、そこから抜け出そうにも手掛かり足掛かりが無く、しばらくは、紐でぶらさげられたカメさんよろしく、大まじめに空間を遊泳するはめになった。

*  *  *

 登攀スケジュールを終えて、C2まで降りて来た時に、 『Clで沢田さんが大ヤケドをしてタンゴールの診療所に入院している。容態によっては井上は通訳を兼ねてカルギルまで同行するように』と中岡隊長より指示を受けた。
 予定では、われわれはこれからC1でテントの撤収作業をすることになっていた。
 それまではなんともなかった痔の具合がかなり悪くなっていた矢先であったので、沢田さんには悪いが、ひそかにこれは有り難いと思ったのは事実だ。
 なにしろカルギルまで行けばホテルにシャワーはあるし、食事が旨いのである。痛みで歩き難いのもなんのその、いっきにC2からベースキャンプまで下った。
 途中C1では沢田さんの黄色いテントが半分焼け落ちて無残な姿を残していた。
 ベースキャンプに着いたところ、リエゾンオフィサーのミスター・シンは『沢田さんは元気で、明日にはベースキャンプに戻ってくる。井上に先行してC2から下りて来た吉岡さんは既にタンゴールヘ向かった。退院の手助けは彼一人で十分であろう。井上はベースキャンプで待つほうがよい』との御宣託であった。
 明るく朝早くタンゴールから吉岡さんがベースキャンプに戻ってきたが、彼の報告はミスター・シンの話とは大分異っていた。
 『診療所の環境は非常に悪く、彼女は心身共にすっかり参っている』ということであった。
 海外からの登山者のための旅行代理店から、われわれ遠征隊に派遣されて来ている随伴員クマール氏と二人で早速沢田さん救出に向かう。

 高みからは地上の楽園とも見えた村落は、中に入ると、およそ近代文明からとり残された感じの石と泥土の世界で、厳しい現実生活の匂いがたちこめていた。地べたに座って、もの珍しげにわれわれを見つめていた下着を付けていない少女の内股が皮膚病でただれているのが見えて痛々しかった。
 診療所はほかの家と変わりない作りの小さな家で、沢田さんはそこの三階の狭くてうす暗い診療室の土の床の上に一人マットを敷いて寝ていた。それはなんとも侘しい光景であった。電灯が無く、小さな窓からのわずかな明かりだけではヤケドの状況はおろか、どのような医療設備があるのか、床や壁は清潔なのかどうかすら見きわめることがむずかしかった。
 ローソクとヘッドライトが頼りだ。
 夜になると天井から何やら虫が落ちてきて刺すのだと聞いて、よく一人で5日間もこのような環境に我慢出来たものだと感心した。
 ヤケドは沢田さんの顔の皮膚を変色させていたが、体調はそれほど悪く無いようにうかがえたので、気分転換のために一緒に近くを散策することにした。
 夕暮れ近くの村落の向こうには、溜め息をつきたくなるような神々しいカシミールの山並みが映えていた。

 翌16日、タンゴールの診療所では十分な治療が受けられないので、沢田さん、クマール氏と私の二人は乗り合いバスに乗ってカルギルヘ向かった。
 ゆけどもゆけども続く同じような茶褐色の眺めにあきて、睡魔に襲われるのだが、悪路と堅いスプリングのせいで、車の振動が激しく、操り返しいやと言うほど頭を前の座席に打ちつけては目を覚ました。
 約4時間かかってカルギルのホテルに着き、久しぶりにシャワーを浴びてから飲んだビールの旨かったこと。
 忘れられない思い出の一つだ。
 三人は早速軍の病院へ行ったが、軍医が生憎不在とのことで、沢田さんは医療兵から仮に治療を受け、改めて翌日診てもらうことにした。病院での折衝に当たってくれたクマール氏はその足でベースキャンプヘ戻って行った。
 明くる日クマール氏に言われた通りに、何の疑いもなく当然のように病院へやって来たのだが、意外な事態になってあわててしまった。まるで話が通っていなかったのだ。
 『誰が無断で一般人の治療を許可したのか。昨日勝手に治療を施した不届き者は誰か』という騒ぎになった。
 それでも当日の担当軍医は話の分かる人で、結局われわれの希望は聞き入れられて、大分待たされはしたが特別に治療をしてもらえることになった。
 待たされたのは忙しいせいかと思ったがそうでもないらしく、治療は実に丁寧にたっぷりと時間を掛けてやってくれた。
 変色して固くなった死んだ皮膚を濡れた脱脂綿で湿らせて柔らかくしてからピンセットでゆっくりと剥いでゆく根気のいる作業だった。無理をすると沢田さんが痛がるし、患部は顔面に一杯だ。軍医は『死んだ皮膚をきれいに取り除かないと、ヤケドの跡が残るのだ』と言っていた。
 日本でもこのようにゆっくりと治療をやってくれるのだろうか。
 軍隊にヤケドはつきものだと言って、軍医は自信満々であり、てきぱきとした軍人らしい態度には好感が持てた。
 治療の最中にヒンズー教の僧侶がわがもの顔に治療室に入って来た。ここの軍人は、よく彼の説教を受けているらしい。インド人にはめずらしく、きれいな英語を話す感じの良い人であったので、しばらくは楽しく宗教論を交わすことが出来た。

*  *  *

 日本からの海外遠征で、 12人パーテイーのうち4人も大量入院することになったのはめずらしいのだそうだが、今回肝心の治療そのものについては、結果的には、おおむね適切な処置を受けることが出来たのではないかと思う。
 この事に関してはインドの関係者に深く感謝せねばなるまい。特に治療にあたられたお医者さん方には誠意を持って一所懸命にやっていただいたし、クマール氏もあのような劣悪な条件の下で、最後まで手抜きをしないで任務遂行のために努力をしてくれた。
 日本では、インド人の勤労モラルについて必ずしも良い認識を持っていない人が多いが、今回の経験で私の認識も大分改められた。

*  *  *

 私は少年時代に終戦を満州で迎え、そこでソ連兵からひどい仕打ちを受けた経験がある。そのために、ソ連人に対して拭っても拭い切れない怨念を長年持ち続けてきた。しかしソ連領ハンテングリを登った際には立派なソ連の人たちに会う機会を得て、おかげで、つき物が落ちたようにその怨念がさっぱりと消えてしまい、自分自身の心が洗われたような気持ちになった。
 それまでにも多くの善良なソ連の人に会ってはいるのだが、 ハンテングリ峰が私を救ってくれたのかもしれない。
 登山ではこうした『人間」や、 『想念』や、 『山川草木の心』を含めて思いがけない『もの』に巡り合うことがある。
 それは自分が生きていることを実感する時でもある。
 書斎では得られない『もの』が行動を伴った世界には存在しているようだ。
 これからも出来るだけ長く額に汗をしてそうした『もの』にもっと遭遇したいものだ。


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