トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ278号目次

インド・ヒマラヤ ヌン峰(6,135メートル)
登攀記録(レーからベースキヤンプまで)
井上 博之

7月19日 レー到着

 ホコリと汗と高度障害の長旅を終えてホテルでシャワーを浴びると夏場の山行には馴れているはずのわれわれでも、さすがにホッとした気分になる。
 シャワーは水だけでお湯が出ないとか、 一晩中ホテルの電灯がつかないとかと文句を言うのは、ここでは贅沢というものなのだろう。
 バスでの移動中に身体の不調を訴えて酸素吸入を受けていた吉岡さんと滝口さんの二人を病院に連れていく。

 レーでは唯一といえる公立総合病院の、その日の夜の担当医は小声でボソボソと話す、なんとも頼りない若いお医者さんであった。
 『二人とも軽い高度障害であって、心配はない、似たような患者はよく来る』ということで、特に治療も受けずにホテルヘ戻る。高地をひかえた場所柄、こうした診断には馴れているのであろうと推測する。

7月20日

7時00分 起床、 8時00分 朝食、 9時00分 体調の良い者はGOMPAとSHEY PALACE見物へとバスで出発。
 GOMPAは町からかなり離れた山中にあるラマ教のお寺だ。砂漠と岩山の彼方の不便なところに、よくもこれだけの物を建てたものだ。
 これと言った文化遺産の少ないこの地方では貴重な共有財産であるのに違いあるまい。
 厳しい自然環境の中では、泥土で作られた仏塔も、建物も、どんどん風化していくので、あとからあとから作り替えなくてはならないようだ。
 財政的な余裕がそれほどあるとは思えない彼等にとってけっして容易な事業ではあるまいが、ここGOMPAのみならず、各所で補修または新築された多くの仏塔や寺院を目にすることが出来る。チべット人がいかにラマ教を愛し、誇りとし、かつ心の支えとしているかがうかがいしれる。

 ラマ教のシンボルとしてのダライ・ラマの写真は、バスのなか、タクシーのなか、茶店のなか、民家のなかなど、いたるところでおめにかかれる。われわれには理解できないほどの尊敬と敬慕の念を受けているらしい。いまは祖国を追われているので、よけいに人々の信仰を集めているのかもしれない。
 SHEY PALACEは、池を前にした小山に建てられた、かつての宮殿というが、既にたい半は泥土と石の廃墟と化している。現在一部が修復されてラマ教の寺院として機能しており、参拝者を集めている。そこでは、子供のラマ僧達が拝観の案内をしていた。彼等は一生結婚はしないのだそうだ。日本にも居るような元気で明るい普通の子供達だ。拝観料の集金は10才ぐらいの年長の子が慣れた様子で、無料で入り込む不届き者が一人もいないように、しっかりと集金をやっていた。多数の経典が納められている部屋では、その子がきちんと包んである厚い布の包みを開いて丁寧に書かれてある経文を取り出し、得意げに読んで聞かせてくれた。勿論われわれにはチンプンカンプンでさっぱり分からないのだが、わけの分からない文字のうえを指でなぞり、子供ながら、もっともらしく唱読してくれると、なんだか感心してしまう。

13時30分 ホテルで昼食
 スパイスとニンニクがよく効いた野菜スープがでる。

 森山さんの調子が悪いと言うので、病院へ一緒に行くことにする。今度は院長風のしっかりしたお医者さんと美人の女医の二人だ。
 ニューデリーの旅行代理店から派遣されて、われわれに同行しているクマール氏が、まずいろいろと医者に私見をまくしたてたところ、院長風から『診断は医者がするものだ。君が診断するのなら、病院に来てもらう必要はない。ひきとってもらって結構だ。診断を受けるつもりなら医者の質問に対してのみ答えてもらいたい』ときめつけられる。ごもっともである。
 昨日の見立てとは違って、即入院となる。肺水腫とのこと。
 絶対安静、トイレに行くことさえも禁止される。勿論酸素マスクは外せない。信頼出来そうなお医者さんなので、吉岡さんと滝口さんの病状と昨日の医師の見立てについて話し、二人をもう一度診てもらいたいと頼む。
 早速二人にホテルから来てもらう。
 滝口さんにはチアノーゼ反応があり、爪の色は白っぽく、顔色も真っ青だ。手首にも相当な腫れがある。
 レントゲンの結果は、いずれも肺水腫で、滝口、森山、吉岡さんの順で症状が悪いと言う。
 吉岡さんの場合は初期の段階で本人が異常を訴え、早めに酸素吸入の処置を受けたのがよかったらしい。

 私たちが廊下でおしゃべりをしていたところ、絶対安静のはずの吉岡さんが突然寝たままの姿で廊下に飛び出してきた。
 ベッドの上でコキジをうっていたところ、し瓶に付着していた消毒液が彼の局部の先端に着いてしまったという。
 強烈な痛みであったらしい。
 本人は勿論だが、こちらもびっくりした。
 水で直接局部を洗うのが一番だとは思ったが、州都一番の大病院なのにバスもシャワーもない。やむを得ずバケツに水を汲んできてもらい、たまたま私が持っていたタオルを水に浸して自分で拭いてもらうことにした。
 吉岡さんは何度も何度も痛みを訴える。真剣だ。
 担当の美人女医は『アレルギーだからそれ用の注射をするのが一番だ』という。強い薬品による皮膚の炎症が注射で直るとは信じ難かったが、注射を打たれるご本人は必死になってそれを拒む。
 注射は非衛生的な取扱いが原因で二次感染の恐れもあるのだ。
 女医はくすりの効果に疑問を持たれたと勘違いしたのか、あるいは医者の誇りを傷付けられたと思ったのか、凄い剣幕で、執劫に注射を打つと言ってきかない。
 吉岡さんに言わせると、患部を見もしないで、どうして診断できるのかということだが、美人女医はなぜか、もう診たと言い張って、診察しようとはしない。いろいろなやりとりの末、なんとか注射だけはかんべんしてもらったが、炎症に対する治療は受けられなかった。患部はかなり変色してしまったという。後遺症がなければよいが。

 医師によれば『病院には1.5リットルの酸素ボンベが3本しかなく、しかもそれには酸素が十分に入っていない。常時使用を必要とする患者が3人も出たのでは、酸素が無くなるのは時間の問題だ。レーでは酸素が手には入らないので、よその町から取り寄せることにする』と言う。経費を度外視してでも緊急に手配をしてもらうように強く要請する。
 われわれの隊が日本から持って来てた3リットルボンベ6本のうち4本は既に空になってしまっており、あと2本しか残っていない。これから先の山行を思うと不安が残る。われわれの空ボンベ2本にも一緒に充填してもらうように依頼する。なんとしてでも、酸素だけは是非手配してもらいたいと、祈りたい気持だ。
 三人の容態が相当に悪い場合には、医者とのコミュニケーションを助ける人が必要であろうから、その時には登山をあきらめて病院に残るようにとクマール氏から要請を受ける。
 観念して院長風に申し出たところ、 『生命に別条はなく、今後病状は悪化しないだろう。井上が居なくても診療に支障はない、先ヘ行きなさい』と言われる。
 三人の身の回りの世話をするために、キッチンボーイのパション・シェルパ君だけはレーに残ってもらうことにする。
 森山さんから重ねて『どうしても登山を続けたい。お医者さんにくれぐれもこの事を訴えてほしい』と頼まれ、その旨伝えたが『彼の症状は外見以上に悪く、高度への挑戦は自殺行為である。帰国後も日本の医者の診断を受ける必要があると思う』と逆に説得される。

 中岡隊長は『入院中の三人は、今後登山を続ける場合も、中止する場合にも常に一緒に行動すること。1週間以内に医者の承諾が得られれば、三人は一緒にベースキャンプまで追って来ること。1週間経っても許可がおりないようならデリーに戻ること。10日経っても回復しない場合は帰国すること』との指示を与える。
 交通の便が悪いこと、バラバラに行動された場合隊は個々に対する目配りが困難であること、予算が限られていること、などを考えると、隊長としては立場上つらいが、やむをえぬ決断であったと思う。

7月21日

0時30分 就床
5時00分 起床
7時30分 ホテル発
19時10分 カルギル着

 延々とつづいた茶褐色の世界のなかに緑のオアシスが現われるとそこはカルギルだ。おおきな川に面したベランダ風廊下のある三階建てのホテルでゆっくりとくつろぐと、リゾートの保養地にでも来たような気分になる。何よりも食事がうまい。コック長を食堂に呼び出して皆で拍手をおくる。

7月22日

 早朝クマール氏が規定によりカルギル警察署に登山許可申請書を提出したところ、最近その記載方法および必要添付書類についての変更があった、とのことで書類は受理されず再提出を要求されたという。
 急拠あらためて書類を作成することになった。

 おおあわてでやっと書類を作りあげたところ『今日はイスラムの休日』とのことでタクシーが無く、やむなくクマール氏は歩きで遠く警察署まで行くことになる。(なぜわれわれのバスを使わなかったのかは不明)

11時00分出発のところ結局15時30分となる。

18時30分 通行許可書確認のため、軍が設置した、いつものチェックポイントで停車中、左後輪のボルト3本が折れていることが発見された。これではもう走れないという。
 山道で何度も何度も車を止めては振動で緩んだボルトを締めていたから、とうとう力で捩じ切ったのかもしれない。不用意にも、予備のボルトを持って来ておらず、近くにパーツショップも無い。ボルトを手に入れるにはレーまで行かねばならないという。これまで度々の故障続きでいらいらさせてくれたポンコツ車は、とうとう使い物にならなくなってしまったのだ。やむなく今日はタンゴール行きをあきらめて、近くの宿泊所に泊まることにする。

 月明りの村道をヘッドランプをつけて30分ほど歩く。

20時30分 パニカ着

 そこはベッドが2台ずつ置いてある部屋がいくつかある比較的きちんとした平屋の宿舎だ。公務員用の宿だという。ただ無人のために電灯がつかずヘッドランプが頼りだ。 1部屋に二人ずつ寝ることにする。
 夕食は外部から用意するとのことで、すきっ腹を我慢して遅くまで待ちに待つ。
 テントでのヘッドランプ生活は、むしろアットホームな気になれるが、広いホテルは言うに及ばず、この程度のこじんまりした宿舎でも、闇の空間が多い建物の中では気がはずまない。皆でテーブルを囲んでも話はと切れがちだ。

7月23日

6時00分 起床
7時45分 パニカ発
9時00分 タンゴール着

 個人の荷物は各自、共同装備はポーターがベースキャンプまで運ぶことになる。
 バスで行くはずのところ、タンゴールまでの車道を荷物を担いで歩かされるはめになり、損をしたような気分になる。
 それでも、ひさしぶりに歩くわけで、習性により、だんだんと足に弾みがついてくる。
 ヌンはもう遠くない。体調も良い。

 パニカの村はずれにはめずらしい花が咲き競っていた。
 タンゴールで集結。『いざベースキヤンプヘ!』と張り切っていたところ、突然クマール氏が『今日はイスラムの休日だからポーターが集まらない。したがってベースキャンプヘは行けない。今日はタンゴール泊まりだ』と言い出す。
 これまでに自動車のトラブル、登山許可申請書の作り直し、病院での不手際等々腹に据え兼ねる問題がいろいろとあった後だけに、わたしもつい激昂して 『イスラムの休日など事前に分かっていたはずだし、ポーターとの交渉などもあらかじめ済ませておくべきだ。帰国の日程が動かせないことから、登山の行動期間は限られており、1日の遅れが隊の登山目的の成否に係わる可能性があることは、登山隊への協力斡旋を業務とするシカール社は、当然承知している筈だ。今更ポーターがあつまりませんで済むと思うのか』と言葉荒く大声でなじってしまった。
 あとで冷静になってみると『クマール氏はこれまでわれわれのために出来るだけの努力をしてくれた。これは認めなくてはいけない。インドで日本流に物事を進めるように要求することは無理難題を言っていることになるのかもしれない』と反省して、言い過ぎたことは謝った。
 しかし、その時はなんともやり切れない気持ちになっていたことは事実である。
 はやばやとタンゴールにテントをはる。

 いろいろあったが停滞してみるとタンゴールは悪くなかった。
 ここは高山の花の楽園だ。クン峰がみえる。神々の山とでも呼びたくなるような秀麗なヒマラヤの山々が姿を見せる。
 時間があったので、自然のお花畑に飛び込み、花の上にかがみこんだり、手前で寝転んだりして、夢中になってシャッターを切る。
 皆と囲碁、将棋、トランプなどに打ち興じ、夜は降るような星と明るい月光の下で合唱を楽しみ、ハモニカをふく。

20時00分 クマール氏がパニカから戻ってきた。明日のポーターの手配がやっと出来たという。本当によかった。

7月24日

6時00分 起床
7時30分 朝食

 朝、起床時には目覚ましのために、それぞれのテントまでキッチンボーイが暖かい紅茶を持って来てくれる。リッチな気分になる。

 パニカからは既に荷物がポーター達によって運ばれてきていた。ところが、わがクマール氏がポーターの代表と現地の言葉で盛んに口論しているではないか。聞くと、何でもポーターが15キロしか担がないと主張していて、パラポールなどそれぞれの梱包の重量が重過ぎるので、小さくして欲しいと要求しているという。
 さてはポーター代を値切ったのかと勘ぐったが、この際議論を続けて時間をロスするよりはと、みんなで梱包をし直すことにした。

 普通ポーターは25キロから50キロは担ぐものだという判断にもとずいて、日本で梱包して来たのだから、これは問題である。今後の海外遠征の参考にして欲しいと思う。

 秤が無いのにどのようにして重量を計るのかと案じていたら、これは簡単で、おおよその重量調整をした荷物をクマール氏が持ち上げて、 『よし』と言って一人ずつに手渡せばよいのだ。
 ザックを含めて荷物に直接マジックで番号をふり、ノー卜にポーターの名前と、この番号を記入していく。番号通りの荷物がベースキャンプに運ばれたのを確認してから、ポーターに代金を支払うというシステムになっている。

 15キロの梱包が出来た者から逐次出発するので、楽しみにしていた堂々たる隊伍を組んだいわゆるキャラバン隊とは異なって、三三五五とまとまりの無い行列になってしまった。
 ローティーンの子供ポーターも混じっている。
 日本人隊員もいくつかのグループに別れて出発する。

 わたしは彼のウインクに誘われて、リエゾンオフィサー シン氏と行くことにする。ここは、荷物を持たずに手ブラで行けるので楽だ。登山道もしっかりしている。しかるにシン先生は『近道がある』と言って、登山道を離れてさっさと稜線に向かった。あわててあとを追う。結局はとんでもない所へ出てしまい、急斜面を恐る恐る降りるようなことになってしまった。苦労してなんとか登山道へ戻る。

 シン氏は登山学校の教師をしている山のベテランと聞くが、今回はついにベースキャンプより上には登ろうとしなかったし、ベースキャンプヘのこの楽な登山でもゼーゼーと言って休んでばかりいた。本当にクライマーなのかと首をかしげたくなる。

 途中振り返ると、眼下に遠くタンゴールが緑と花の桃源郷のように見える。とても、そこにあの貧しい生活があるとは思えない。あたり一面には、紫、エンジ、白、黄色などの花で一杯だ。エーデルワイスも咲いている。

 羊の群れを追っている子供が手を振って送ってくれる。

10時00分 タンゴール発
15時10分 コル
15時20分 ベースキャンプ到着

 大分遅れてコルヘ到る。ここからはベースキャンプ、氷河、そのむこうには白い氷雪の山脈が展望出来る。

 ついにヒマラヤの末端に到達したとの実感が沸く。
 コルからベースキャンプヘと一気に下る。


トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ278号目次