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八ヶ岳阿弥陀南稜冬期登攀に想う
井上 博之

山行日 1992年2月8日~9日
メンバー (L)菅原、金子、安田、飯島、大泉、井上(博)

 私のはじめての山行は、2月厳冬期の阿弥陀の南稜だった。
 登山どころか、ハイキングすらめったにやったことがない。身体を動かすことといえば、たまに家族と行く夏の海水浴か、正月のスキー、それに数ヶ月に一度行くか行かないか程度のゴルフぐらいのもので、年齢ももうすぐ50才になろうとしていた。
 なぜ冬山からかといえば、理由は簡単で、山を知らなかったからだ。それに、山男であった親友の突然の死が、侍った無しに、私を山に駆り立てたのだ。
 あいつとは人里離れた、海に近い部屋を借りて一緒に受験勉強をしたこともあったし、また一緒に上京して来て近くに下宿をしていた。あいつは勉強の方でも大変な努力家であったが、中学、高校時代から山にとり憑かれていて、交通の便が悪かった当時に、福岡から阿蘇山の岩場まで、なんと50回以上も通ったという。
 『君を雪の冬山に立たせたい』とよく言っていたが、その頃の私にはまったく興味の無い話であった。
 それが、どうしたことか、あいつの死顔を見た途端、どうしても山に行かなければ、という気になってしまった。

 半可通の私がゲーテやショウペンハウエルについて語ると、彼はヒマラヤヘの夢を語っていた。昭和20年代、まだ戦後の日本ではヒマラヤヘ行くなどということは現実性の少ない、本当に夢のような話に思えた時代であった。
 社会人になり家庭を持ってからのあいつは、おそらく周囲の反対があったのだろう、山からは離れているようだった。そのせいか、たまに合った時には、かつて感じさせた牛のような追力を欠いているように思えた。
 山での滑落や落石、雪崩の危険をものともしなかったというあいつが、あろうことか、新宿駅の階段で足をすべらせて、頭を強く打って落命したのだ。

*     *     *

 ヤマケイの冬山講習会紹介の欄に初心者歓迎と書いてあったので、その気になって堀田弘司氏主催の『中高年者と女性のための冬山教室』に飛び込んだ。ピッケル、アイゼンは勿論のこと、靴からウェアーにいたるまでなにもかも、真っ更という出で立ちで参加した。無知とは恐ろしいもので、山慣れしている様子のパートナー達の後について、意気揚揚と深い新雪の山にはいって行った。その時までは、堀田氏は私が生まれて初めての登山をしようとしているなどとは思ってもいなかったという。あとで『どうしてこのような無謀な参加をしたのか』と文句を言われることになるのだが、『初心者歓迎』を鵜呑みにして来たのだから、とやかく言われるのは心外というものだ。
 それにしても、運動不足による贅肉のかたまりを抱えた初心者にとって、新雪の雪山は想像を絶する苦行となった。わずか4人のパーティーによるラッセルにあがき、立場山の登りでは、精根を使い果たした思いがした。それでも、なんとか尾根にたどりつき、これもはじめてのテントに転がり込んだ。いまにして思へば、それは冬用のテントではなくツエルトであった。その夜は好天のせいもあって、かなり冷え込み、寒暖計は零下20度を指していた。新品のシュラフにもぐりこんだものの、あまりもの寒さに一晩中まんじりとも出来なかった。もっとも翌日、堀田氏からは私はいびきをかいて良く寝ていたと言われたが、とても信じられなかった。
 阿弥陀岳南稜登攀のハイライトであるガリーは氷で覆われていた。勿論ザイルでの確保はしてもらっているのだが、アイゼンの信頼性が分からず、足下が谷底深く切り立っているように思えて、生きた心地がしなかった。頂上がどうなっていたのか、とんと記憶がない。
 皆に遅れまいと、深い雪を蹴立てて、阿弥陀のコルから行者小屋へ下る急斜面をもがいていたところ、雪に隠れていた岩にアイゼンを引っ掛けて、あっという間に頭から宙を舞ってしまった。幸いというか、さすがにガイドの堀田氏がアンザイレンしていたザイルをピッケルで見事に止めてくれたので、私は20メートルほどの滑落ですみ、事無きを得た。
 動転して、ただ手足をばたつかせていたところ、近くにいたよそのパーティーの人から大声で『はやく足元を踏み固めろ』と怒鳴られて、やっと今置かれている自分の状況が理解できた。はるか下方にある、くろぐろとした樹林帯が目にはいった。
 平坦な雪原を歩く時にも靴を踏み込む角度が悪かったせいか、何度も何度もよく転んだ。当時80キロ以上もあった自分の体重をもてあましているうえに、はじめての重いザックを背負っていたのだからたまらない、立ち上がるのにひどく体力を消耗した。
 ふらふらしている私を叱咤激励するつもりだったのだろうが、堀田氏から言われた『根性がない』とか『中高年者は甘えがあるから、いやになる』という言葉は私の胸にぐさっときた。
今までに言われたことの無い言葉だ。

 私を本気になって山登りをする気にさせてくれたのは、堀田氏のあの言葉だと、今では感謝している。
 下山して家で体重を量ったら(女房の記憶によると)9キロも痩せていた。銀マットをザックの雨蓋の上に付けていたのだが、学林からの林の中でのアプローチで、さんざん木の枝にひっかけたためにぼろぼろにしてしまった。それは今でも記念にしまっている。無我夢中になって、枝とまともに力較べをやっていたのだ。

*     *     *

 阿弥陀南稜の例会山行には喜んで参加させてもらった。
 阿弥陀南稜には7年前の鮮烈な思い出がある、あいつもそこにいるような気がする。
 ラッセルは今回も大変だったが、今度は体重は減っていなかった。

 われわれのラッセルの後ばかりをついて来ていた、よそのパーティーの連中が休んでいる横を通りかかった時、そのうちの一人が、聞こえよがしに『年寄にラッセルはこたえる』と言っていたので、思わず近付いて、『あんたは幾つだ』と聞いてやったら、『50だ』と誇らしげに答えた。
 いやみだとは思ったが、『私は57だ』と言ってやった。
 あの時の堀田氏の言葉をそのままぶつけてやりたかったが、そこまでは出来なかった。


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