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平成四年度春山合宿・剱岳周辺
その5 赤谷尾根隊
服部 寛之

山行日 1992年5月1日~5月4日
メンバー (L)服部、勝部、野田、中沢、鈴木(章)、飯塚、別当

 赤谷と書いてアカタンと読ませるこの山は、剱岳北方稜線上にある2258メートルの1ピークである。赤谷尾根はそのピークから南西方向に馬場島へ延びている尾根で、無雪期は殆ど顧みられない。
 今回我々はこの尾根から北方稜線に上がり、南下して剣岳に登頂し真砂沢へ下るコースで計画した。メンバーは野田さん、勝部氏、中沢氏、アッコさん、飯塚さん、別チャン、それに私服部の7名である。最終的にメンバーが決定した時、リーダーは当初からこの尾根に積極的だった勝部氏が当然なるものと思われたが、ルームでの勝部氏の先手一声で私がリーダーに指名されてしまった。その瞬間、わたくしは(ウム・・・)と言葉を飲み込んだきり80003光年彼方の異次元空間にワープしてしまい、それはまさにウムを言わせぬ?決定なのであった。居並ぶ先輩適任者をさしおいてなぜわたくしにリーダーのお鉢が回ってきたのかということをゲスの勘繰り的にカングってみると、
 (1)リーダー経験の少ない服部にリーダーを経験させて育ててやるいい機会だという先輩としてのヤサシイおココロ遣い。
 (2)かあちゃんこどもから解放されたはればれ気分の山旅の中で最高の飲酒環境を整える為にはリーダーの気重さは重大な障害となる。という理由がとりあえず浮上してくるが、(1)よりも(2)の方が動機としてはダンゼン強い、というのは明確なような気がする。だがしかし、合宿前仕事の忙しさにかまけている私に代わって、装備の調達、割り振り等実質的な準備はサブリーダーの勝部氏がやってくれたので、私はただ当日現地へ行って号令をかけるだけでよく、勝部氏は事実上影のリーダーとしての影を一層色濃くしてその地位に留まったのであった。こういう事情とメンバー構成の場含、リーダーシップの執り方にはちょっと複雑な力学が働くので微妙なやりにくさが出てくるのだけれど、別ちゃんのような一見訳がわからなさそうでその実ちゃんとやるヤツがいてくれるとフッとテンションが抜けてずいぶん助かるのだ。

 5月1日、仕事無し組有り組二手に別れ、翌朝馬場島で落ち合うことにして、無し組4名は昼間、有り組3名は夜行で出発。私は有り組で、以前の剱の春山合宿の時の、敗戦後の買い出し列車の再現かと思われるような超混雑ぶりを思い出して悲壮な覚悟で上野駅についたら、列車は長い編成のきれいな車両でしかもそんなに混んでもいないので驚いた。だが、ホームの人込みの中で駅の放送よりもよく響きわたる生の地声で田原会長に名前を呼ばれた時はもっと驚いた。見送りには播磨さんも来てくださっていて、酒類及びおつまみの差し入れをたくさん載き、どうもありがとうございました。車中、勝部氏は大量の臨時取得酒類を前にして「こまったこまった」というわりにはぜんぜん困った様子もなくうれしそうに笑い、それらの体内への円滑な摂取にとくとくいそしんでいたのでありました。

 5月2日、早朝馬場島に着くと、旧山岳警備隊詰所の一階コンクリート上のテントから野田さんとアッコさんの寝不足ぎみの顔が出てきた。
 朝食を食い、共同装傭を再分配して出発。天気は薄曇り、視界は良い。すぐに早月尾根への道と別れ林道を左に入ると、やはりこちらに来るパーティーがある。メットをぶら下げているので小窓尾根かなと思っていると、やはりそうであった。資料によると、赤谷尾根の取付きは尾根右側、白萩川沿いを少し行ったところの堰堤手前にある踏跡ということだが、それらしきものは見当らない。どうやら資料が古すぎて踏跡は消えてしまっているものと思い、適当に藪を漕いで取付いた。尾根下部の雪は堆積した枯葉のうえに薄く積もり、急斜面では滑り易く、枝につかまりながら登って行くと資料にあった夏道に出た。やれやれである。夏道には2~3日前のものと思しき足跡が上にむかって続いており、それがやって来る方向を見ると、どうやら取付きは堰堤を越えたところにあるらしかった。
 展望に恵まれない樹林帯の中の夏道をずんずん行く。雪が多くなってくるといつしか夏道はトレースに変わり、ところどころラッセルとなり、やがて視界が開けてくると馬場島がもう遥か下に見えた。
 「カアーッと登ってきたからね!」
アッコさんが息を弾ませながら言う。
 「野田さん、差し入れのバーボン重いでしょ」
 「いやーぁ、酒はべつですから。だいじょうぶです」
 野田さんはいつもなぜか遠慮がちに細い声だが、だがその表情は確信に満ちている。むこうの早月尾根の白い稜線上にテントが青や黄の点となって見える。あれは伝蔵小屋の辺りか。以前あの尾根を登った時のことが壊かしく思い出される。
 1863メートルの平坦地に大きな幕場跡があった。トレースが赤谷山頂への最後の急登の基部までくっきりと延びている。急登の上部はガスの中だ。やや右に回り込んだ基部の取付きはかなり立った7~8メートルの雪壁となっており、ここでアイゼンをつける。初心者がいればザイルを出すようなところだ。その上は雪の急斜面が予想以上に延々と続いており、キックステップでひたすら登っていくうちにガスの中のラッセルとなり、やがて吹雪の頂上に着いた。視程20~30メートル。
 さっそく整地しテントを張っていると、16時の定時交信。シーバーをしまった直後、何の前触れもなくいきなり何人かの頭の上を黄色い電流が走った。飯塚さんは黄色いギザギザ光線がシュパシュパ雪面を走ったのを見た見た!!と興奮して言う。アッコさんはダブルのツムジがシングルになってしまったと大騒ぎ。全員青冷めて急いで作業を終わらせテントに入る。雷の洗礼はそれっきりだったので助かったのだが、しかしいまフト疑念に思ったのだけどアッコさんはあの時どうやって自分のツムジを見たんだろう?

 5月3日、明け方テントから出てみると、濃霧が流れて小雪がちらついている。1時間ほどキジ場を構築したり30センチ程吹き溜まったテント周りを除雪したりしてテント内に戻ると、みんなまだしぶとく寝ていた。
 天気予報では明日から荒天の周期に入る。ここを出発して今日中に剱を越えることは不可能で、途中で幕営が必要だが、この先エスケープルートはないので荒天に捕まったら逃げようがなく、停滞を余儀なくされる。ギリギリの日程で来ているので、下山の遅れが出社予定日の欠勤に即直結する。今日天気は保つだろうが、問題は明日の剱の荒れ具合だ。明日登れなければ、困ることになるメンバーが多い。勝部氏と相談した結果、やはりここはキッパリ剱を諦めた方がよかろうということになって、ブナグラ谷を馬場島へ下降することに決定。
 ゆっくり朝メシを食っていると、ガスが上がって青空のなかに剱岳が姿を現した。ここから見る剱は表情がけわしくなかなかダンディだ。さすが日本を代表する山岳だけのことはある。昨日馬場島からブナグラ谷経由で上がってきて我々の少し上に幕を張っていた4人パーティーは、先程剱へ向けて出発して行った。日光浴でもしたいような陽射しのなか、幕を撤収し皆で写真など撮っていると、迅くも赤ハゲへの上りにかかっている先程のパーティーが見えてきた。かなりのスピードで、先頭がとび出してラッセルしているのを見ていると、結構強力なパーティーのようだ。彼らは日程に余裕があるのだろう、行ける彼らが羨ましい。カレンダーと職場の都合にふりまわされるサラリーマンの悲哀を感じながら、無事で行けよと心の中で声をかけた。
 赤谷山からブナグラ乗越へ続く稜線は結構きつい斜面で、これを登って来るのはかなりしんどそう。下るのは楽だが、陽射しのせいで腐った雪がアイゼンにくっついてわずらわしい。乗越を挟んだ反対側には描又山が白いデカっ腹を陽にさらしてどてんと寝っ転がっている。交信では金子パーティーは今日中にブナグラ乗越まで下りて来れそうなので酒で釣って急がせ、我々は乗越でのんびり待つことにする。
 ブナグラ乗越の大きな幕営跡でコーヒーなど入れ賛沢に好天の雪山のひとときを楽しむのもそろそろ飽きたかなと思われる頃、金子隊が下りて来た。中沢氏と別ちゃんが懸垂の下降地点まで迎えに行く。ルートの厳しさ故か酒切れ故か、だいぶ疲れている様子。無事で何より、ご苦労さまでした。
 雪がいっぱい詰まったブナグラ谷の上部で、通信状態が悪くなる前にシーバーを出す。出本のゲンさんの声は捉えたが、朝から呼んでいる飯島隊が出てこない。彼らは昨夜は小窓に泊まると言ってきたが、夜中の強風で吹き飛ばされたかと心配する。
 ブナグラ谷は中流域から大きな流れが姿を見せ、左岸沿いに下りて行って、最後にスノーブリッジを右岸に渡る。堰堤の鉄梯子を下りると林道に出た。道の両脇の大岩に埋め込まれた幾多の遺遭難慰霊碑を眺めながら馬場島に着くと、一昨日と同じ天井付きのコンクリート床の上に宴会陣形に幕を張る。やがておもむろに始まった2パーティー合同の酒宴の夜は、今回は発作的オタケビに走るヒトもなく、ぱらぱらと更けていったのであった。

〈コースタイム〉
2日 馬場島(6:50) → 白萩川堰堤(水力取水口)(7:35) → 踏跡分からず藪に取りつく(8:05) → 夏道に出る(9:15) → 1563m地点(11:05) → 赤谷山頂(15:30)(幕営)
3日 出発(8:55) → ブナグラ乗越手前(休)(9:40~10:25) → ブナグラ乗越(10:50~13:10) → 馬場島

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