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集中山行・谷川岳
その7 谷川岳赤谷川渡渉行遭難事故記録
井上 博之

山行日 1992年7月25日~29日
メンバー (L)井上(博)、飯塚、澁谷

 リーダーである私が至らなかったために予定日までに下山出来ず、そのために16人もの会員の皆さんに仕事を休んでまでも現地に来て頂くことになってしまいました。誠に申し訳けなく深くお詫びいたします。
 それにしても、大勢の仲間にはやばやと救助に来てもらった時には、本当にうれしく思いました。有り難うございました。
 通常のルートをはずれて、しかも多くは藪の中を行動したために、後日地図を追って調べても、巡行路程につき不明な点が多く、正確さに欠けた登攀記録となってしまいました。不十分なものですが他山の石として頂ければ幸いです。
 今回の遭難騒ぎの責任はあきらかに私にあるのですが、男性の私にとっても苦しい山行であったにもかかわらず、ザイルワークを覚えたばかりという澁谷さんをはじめ、ふたりの同行者から泣き言を聞かされることは一切ありませんでした。それどころか終始私はいたわりと思いやりのある態度に支えられ、おかげで事故もなく余裕ある行動がとれたと思います。この機会にふたりに対しても感謝の気持ちを述べさせていただきたいと思います。

7月15日
 ルームで夏の集中山行参加者の希望者を募ったときに、飯塚さんと澁谷さんと私の3人が、赤谷川遡行のコースに参加する意思があることを知る。当日リーダーである今井さんが欠席していたので、3人で話し合い、沢登りのために必要な通常のギヤの他にハーネス、エイト環など岩の用意もすることと、共同装備としてザイルやテント、コッヘルを持って行く者および食当について決め、24日夜上野発のJRを利用することにする。
 帰宅後今井さんに電話連絡をとったところ、ご本人は都合で参加出来なくなったと言う。菅原委員長にその旨通知すると、『井上が代わりにリーダーで行ったらどうか』とのアドバイスがある。
 私としてははじめての沢なので、資料を調べてみたところ『難易度は3級下、ルートの取り方によってはザイル不要』とのことであった。これなら自分でもやれそうだと思い、急遽私がリーダーで行くことを委員長および同行の2人に通知する。
 ザイルは私が持って行くことになっていたが、易しそうな沢であることとアプローチが長いことを考慮に入れて軽量化のために直径9ミリ長さ25メートルのものを選ぶ。(45メートルのザイルを持つべきであった)
24日
22時51分 上野発
25日
1時45分 沼田着 駅で仮眠をとる
6時55分 タクシーにて沼田駅発
8時05分 川古温泉着
8時30分 川古温泉より徒歩にて出発
9時30分 赤谷川橋着
9時45分 同発
10時17分 渡渉点着
 特に問題なく沢登りを楽しむ。だが途中の滝で困難な岩のルートをとってしまい、易しいルートヘと変更したために1時間ほどロスをする。
17時00分 睡眠不足のうえに長時間行動したせいか、特に飯塚さんの顔色が悪く疲労している様子であったし、このコースのハイライトともいえる裏越ノセンの滝にこれから取り付いて日没前に登り切ることはむずかしいと思われたので、滝の手前約1キロの地点の適当な場所にテントをはることにする。
26日
4時30分 起床
6時15分 休養と睡眠が十分にとれたので全員元気に出発する。
7時30分 白山書房刊『関東周辺の沢』によれば、釜の右手にある滝の裏を登るのと、その釜の左側からルンゼ(急な岩溝)に取り付くのとふたつのルートがあるとのこと。いずれを選ぶべきか迷ったが、結局早朝から滝で濡れるのを避けて後者をとることにする。
 釜の左をへつって行くと、そこには見るからに手強そうな、手掛かりの少ない滑め岩の溝のルートがあった。錆びついた古いピンが2本残置されてあったが、そのうちの1本にはカラビナが直接には通らず、細めのシュリンゲを無理やりに押し込んでビレイをとった。(あとで群馬県警に言われて分かったのだが、ここは釜の左手のルンゼを登るのでなくて、釜の中央部にある雪渓を行くのが正しいのだという、これを知らなかったのが間違いの第一歩であった)
11時00分 苦労してなんとか上へ抜ける。
(3級の下どころか、ザイルを必要とするルートであったので、ここでは頑張らないで、他の易しいルートを探すべきであった)
 ルート図によれば『裏越ノセンのルンゼは、登りきったらすぐに右(南)ヘ下降するとよい』とある。それらしい踏み跡をたどって行ったが、最近使われていないらしく、途中で消えて分からなくなってしまった。やむをえず磁石を頼りに方向を定め、薮こぎを強行してようやく展望のきく尾根に出る。そこから本流まで下らなくても、その尾根の東側を流れる沢のむこう側にある尾根を越えれば、ドウドウセンの上流に出れるものと判断して、最短距離である東側斜面を降りようとしたが、そこは200メートルほどもある傾斜のきついスラブ状の岩壁である上に、生えているものは笹や草が主体であって懸垂下降用のビレイがとれそうな樹木は少なかった。
 当然のことながら下降する際には持ってきた25メートルザイルはその長さの半分、すなはち約10メートルほどしか延ばせないために、その限られた短い範囲内にビレイ点を見付けることは困難であり、懸垂下降をすることは危険であると思われたので、安全策として、遠回りにはなるが比較的に勾配の緩やかな南方向にのびる尾根づたいにルートをとって、ひとまず赤谷川本流まで下りることにした。
16時22分 折りからの猛暑のための喉の乾きに苦しみ、石楠花を主体とするしつこい薮こぎにてこずったが、ようやく沢に出た。
 全員歓声をあげて飛び込み頭から水を浴びた。
 2万5千分の1の地図には日向窪ほどの小さな沢は記載されておらず、従って近くの地形から同沢の位置を確認することはむずかしかった。やむをえずルート図から推定して、現在地を日向窪と赤谷川本流との出合いであると特定した。(これが間違いであった)
 ドウドウセンを捲くにはその地点、すなわち(間違った)日向窪の東側にあって、南北に走る尾根を越える必要があると理解していたが、踏み跡がどうしても見付からなかった。その時ふと誰からか『ドウドウセンは遡ることは出来る』と言われたような気がしたので、いたずらに時間を費やすよりはと思い、ふたたび藪をこぎやっとの思いで尾根を越えて、ドウドウセンと思われる雪渓に覆われた沢に出た。『雪渓の経験が少ないので恐ろしくて渉る自信がない』という2人の意見であったし、事故はなんとしても避けねばならない状況にあったことから、雪渓を捲くべく、空身で上流を偵察に行ったところ、川幅5~6メートル、両岸の壁の高さ20~30メートルもあるゴルジュ帯があった。それは水量が豊富で流速が非常にはやい、それこそドウドウたる沢であって、とても渡渉出来るような所ではなかった。(ゴルジュ帯と雪渓との間の静かな窪みには岩魚と思われる数10匹の魚群が二か所で悠々と泳いでいるのが見えた)
 ドウドウセン全体を捲くには東側の尾根を越える必要があるのだが、やはり踏み跡がどうしても見付からず、やむなくうんざりするような藪こぎを続行した。
19時00分 全員の意気軒昂、夜を徹してでも強行突被すベしとの意見もあったが、暗がりでの行動は危険なので、たまたま見付けることができた3人がなんとか腰を掛けられる程度の棚状の場所にビバークすることにした。そこではパン、レーズン、菓子などみんなの手持ちの非常食をあわせるとあと1日~2日分はあることが分かった。水は無いがささやかな夕食をとる。
20時30分 ザイルでハーネスを固定して滑落を防ぎ、フライを被って眠る。
虫除けスプレーを使ったが、蚊やぶよなどの虫に悩まされる。
27日
4時30分 起きる。
5時20分 出発。
 ドウドウセン(と自分では思っていたが正確には不明である)突破は不可能であり、またこのまま藪こぎを続けてドウドウセンの沢ぞいに遡ることは困難なので、ふたたび日向窪にもどって出直すことにする。
 前日の苦い経験から、『岩石の多い沢筋を行ったのでは、踏み跡が見付からない可能性がある』また『踏み跡を使わずに1500メートル峰のある尾根を本流から直接取り付くことは見るからにむずかしそうだ』一方『日向窪の沢と1500メートル峰のある稜線との間にある裏沢(とその時は思っていたが実はこれが日向窪の沢であった)の西側にある比較的攀じり易そうな尾根を登れば、その尾根のさらに西側にある日向窪(と誤認していた)から出ているドウドウセンを高捲く登山道に出会える可能性が大きい』それに『その裏沢(実は日向窪の沢であった)の出合いでの水量が少ないことから、万一その登山道が見付からなくても尾根ぞいに高度を上げて行けば沢は無くなり、両方の尾根は上部で合体して、沢を渡ることなく、1500メートル峰を有する尾根に尾根づたいに出れるかもしれない』という判断からザイルを多用して西側の尾根を攀る。(時間はかかるが、安全を考えて緩傾斜でもほとんどザイルを使った)
 しかし高度があがっても、裏沢(と思っていた)は消えず、逆にその谷はますます深く傾斜が急になり、それまでの判断が間違っていたことにようやく気付く。
 展望が開けるにしたがって、『錐形をした1500メートル峰のある尾根へこちらの尾根づたいに渡ることは不可能では無いが、その距離と途中の藪の状態からみて、むこうへ行き着くのに何日かかるか分からない』ように思われた。
 また、この炎天下に、はっきりしたルートが分からないまま、これ以上無理な行動をとることの危険性を思い、ここに至っては体力の消耗を避けて救助を待つのが最善策であろうと思った。
19時00分 大きな岩の影にわずかながらも水のしたたり落ちるくぼみがあり、その岩の前には3人が横になって寝れるほどのスペースがある比較的涼しい場所が見付かったので、そこをビパークの場所とした。
 テントをはるだけのスペースはなく、ザイルでビレイをとってのビバークではあったが、ぐっすり寝ることができた。
28日
 『はたして救助に来てくれるだろうか』という声もあったが、私は間違いなく今日は来てくれるとの確信を持っていた。
『日曜日中に帰宅せず、何の連絡もないので、東京では大騒ぎになったに違いない。多分月曜日(27日)には救助隊を編成して、夜行で出発してくれるだろう。とすると今日中(火曜日)には沼田か後閑を経由して裏越ノセンを越え、日向窪の出合いまで来てくれるかもしれない。その時、ここ1500メートルの高みにいたのでは救助に手間どるから、少しでも降りていたほうがよかろう』と思って、赤谷川本流めざして下ることにした。
 昨日登って来た通りに下りようとしたのだが、ここでもまたルートファインディングにてこずって右往左往することになってしまった。急斜面を3人で慎重に降りようとすると、思ったより時間をくい、なんと1ピッチ約10メートルに平均して1時間ちかくもかかってしまった。相変わらず暑くて喉が乾く。たまらなくなって草の葉をチュウインガムのように噛み潰して、わずかの水分をもとめた。
 昼ごろになり、このままでは危険だ、やはり岩陰にもどろうと思っていた矢先、植村さんの声が開局していた携帯無線機に飛びこんできた。なんという早さだ。(あとで知ったのだが、天神平を経由して、上流から来たとのことであった)
 ふたりのパートナーの顔がぱっと明るくなった。
 まもなくヘリコプターが飛んで来た。広い範囲を長時間旋回し、何度もわれわれの目の前まで接近してきて、乗っている人の顔まではっきり見えるほどになったので、こちらはタオルや帽子などを一生懸命振りつづけたが、結局われわれを発見出来ないまま去ってしまった。(それは群馬県警のヘリで、署にお礼に伺った時搭乗していた県警署員は『下の沢ばかりを捜していて、山の中腹までは見なかった』と話してくれた。へりからの捜索はむずかしいもののようだ)
 そのうちに下の沢からモートーの声が聞こえてきた。われわれも声のかぎりに応答した。(裏沢と思っていた沢からの声に初めはとまどった)植村さんとの頻繁な交信で、なんとかわれわれの所在地を確認してもらい、われわれは炎天地獄を逃れて、もとの岩陰にもどって、救助隊を侍つことにした。
 対岸の山の中腹に人が見えた。菅原さんらしい。間もなく山本、植村、勝部さんが登って来てくれた。助かったことを実感する。彼等の担いで来てくれた水のおいしかったこと!
 50メートルザイル2本を使っての懸垂下降は早かった。あっというまに、沢に降りたような気がした。その日は本物の日向窪の出合いで久しぶりにテントで寝た。
29日
ドウドウセン高捲きのルートは出合の近くにあった。いとも簡単だ。ルンルン気分で尾根を越えると、ひらけておだやかな沢に出た。そこにもわれわれの救助に来てくれた人が数人待っていてくれた。わたしが動けなかった場合にはかついでくれるはずの人たちだ。救助隊のみなさんに対しては感謝の気持でいっぱいで、それこそ衝動的に何でもあげてしまいたいと思った。
 そこからオジカ沢の頭までの遡行は楽園を行くようであった。十分に風景と草花の美を味わう。
 オジカ沢ノ頭の避難小屋で待機していた別動隊員とも握手を交わす。すごい組織だ。
 肩の小屋から、われわれ3人だけで当所の目的であった谷川岳頂上を踏んでくる。天神平ロープウェイにも、湯桧曽の永楽荘にも救助隊員が来ていた。つくづく良い会に入ってよかったと思った。永楽荘で温泉にはいり、みんなと酌み交わしたビールが旨かったことは申すまでもない。


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