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赤谷川本谷捜索救助活動記録

1.捜索救助隊編成まで

 谷川岳集中山行に赤谷川本谷ルートで参加した(L)井上博之氏、飯塚陽子さん、澁谷聡子さんの3名は、予定の集中日時・場所〔7月26日(日)正午、谷川岳肩ノ小屋前〕に姿を見せなかった。彼らはCB無線を持って入溪し、平標山から谷川岳を目指した国境稜線隊と交信する予定だったが、25日、26日共稜線隊との定時交信は取れていなかった。(彼らがCB無線ではなくアマチュア無線を持っていたら交信は可能であったかもしれず、そうであったなら26日中に救助に向かえたはずだと考えると残念であった。やはり高性能の無線機を持つことは重要であろう。)
 下山予定時刻13時に万太郎谷の菅原隊を残し他の全パーティーは下出、菅原隊はその後14時まで待ったが井上隊は現われず、行動が遅れているものと推測しロープウェイで下山した。帰京の車中、万一の場合を考え、今後の対策・行動予定について話し合う。そして翌朝になっても自宅へ連絡のないことが判明し、怪我をしたかルートを間違えたか、とにかく何らかのアクシデントに見舞われたと判断し、東京より捜索隊を組織し現地へ向かい救助を行なうこととなった。

2.赤谷川本谷沢登り隊の行動

 本号収録の例会報告『集中山行・谷川岳 その七 赤谷川渡渉行遭難事故記録』参照のこと。

3.捜索隊の編成

 7月27日(月)午前8時頃に井上、澁谷、飯塚宅へ電話を入れてみたがまだ帰宅していないとのことで、何らかのアクシデントに見舞われたのではないかと推測し、午前中に田原、植村、山本(信)で手分けして会員諸氏に出動要請が出され、捜索隊を編成した。
 遭難対策東京本部を播磨宅に設置し、同日の13時過ぎより順次捜索隊員が集結し、作戦会議の結果赤谷川本谷適行捜索隊のメンバーを以下の5名とした。
  <<植村隆二、山本信雄、佐藤明、吉岡誠、勝部辰朗>>
 また現地本部を湯桧曽の永楽荘に置くこととし、次のメンバーを現地本部要員・連絡係とした。
  <<田原宏史、鈴木章子、阿部梨枝子、福島志乃>>
 そして天神尾根より谷川岳経由オジカ沢ノ頭から下降して捜索する者、また連絡要員や怪我をしている場合救助や搬出に人手が要ると思い、以下のメンバーを編成した。
  <<菅原康之、今井敏樹、飯島豊、朝岡隆、井上雅春、箭内忠義、服部寛之>>

4.現場へ(27日)

(1) 赤谷川本谷捜索隊
 播磨宅より群馬県警に連絡、川古温泉の林道ゲートの鍵の受渡しを依頼し、食料を買い出しして20時頃吉岡の車にて赤谷川捜索隊は現地へ向かった。猿ヶ京温泉の少し奥の派出所で鍵を受取るはずが、連絡上のトラブルがあったのか拒否されたが、交渉の結果翌朝警官がゲートを開けに来ることで話がまとまり、この日は川古温泉下の林道脇にテントを張って2時頃寝た。

(2) 現地本部隊と尾根下降捜索隊
 菅原、今井、飯島、井上(雅)、箭内、朝岡、阿部、福島は各自装備を準備し播磨宅に集合し、21時頃菅原の車で出発、湯桧曽の永楽荘に0時過ぎに到着、既に到着していた田原らと合流した。一方田原は、菅原らより先に自分の車で鈴木と共に東京を出発、途中群馬県警に寄り遭難の説明をしヘリコプターによる上空からの捜索を依頼してから永楽荘に向かった。仕事の都合で遅くなった服部も自分の車で永楽荘へ向かい、午前1時頃到着した。

5.救出作業(28日~29日)

28日(火)
(1) 赤谷川本谷捜索隊
 朝6時にパトカーが来て川古温泉ゲートを開けて貰い、車で林道終点まで入る。途中毛渡乗越を下って来たという女性2人パーティーに会ったが、不明の隊員とは会わなかったとのことだった。
 6時30分装備を分担して出発、毛渡沢出合に7時10分到着。行方不明の井上隊はCB無線を所持しており、25日~26日の集中山行時は10時の時間帯に他パーティーとの交信を試みていた筈なので、チャンネルをオープンにしていることを期待して7時10分にトランシーバーでコールをかけてみた。するとすぐに井上さんの声が入感し、全員元気な様子で日向窪の上に居り、日向窪の出合まで下降して来るとのことだった。この分だと今日中に救助して下って来れると思い、身軽にして機動力を上げるべくテント・食料等をここにデポして出発した。だがこれは少し早計だったことが後に判明する。
 7時40分頃頭上を県警のヘリコプターが井上さん達の名前を呼びながら旋回していた。オジカ沢ノ頭隊とは交信が取れず、心配しているだろうと思われた。
 井上隊とは1時間毎に交信をしながら遡行した。井上隊は少々危険な所にいるらしく、1時間に50mも下降できないと言うので、行動を止めこちらが迎えに行くまで動かぬよう指示をする。
 裏越ノセンを高捲いて日向窪到着が11時20分。コールをするが返事がない。井上隊は自分で認識している位置と実際の位置にかなりずれがあるようだ、長期戦になるかもと一寸あせる。
 日向窪出合にてシーバーで再度詳しく確認を取り、地図上でだいたいの場所の範囲をしぼった。ドウドウセンの高捲上部まで上がって、もしやと思い薮の中を登り詰めコールをすると、同じコールの肉声が聞こえてきた。シーバーを出して周りの地形等を確認して位置を特定する。
 ここで捜索隊を二手に分け、佐藤、吉岡の2人(以下、連絡隊という)は高捲き、オジカ沢ノ頭隊と交信をしに行く。植村、山本、勝部(以下、救出隊)は元来た道を下降し、対面の薮とスラブの岩尾根を登り救出に向かった。連絡隊、救出隊同士はアマチュア無線で交信を取り合い、井上隊とは救出隊がCB無線にて交信を取り合った。連絡隊から、肉眼にて想定していた通りの所に井上隊が見えるとの報告が入る。
 岩峰直下の岩小屋に居た井上隊と救出隊が合流したのが15時。救出隊と井上隊は、とりあえず日向窪出合まで下降した。スラブ状の岩壁等を40mいっぱいのアプザイレンを4回繰り返して薮に入り、出合に下りたのが17時であった。
 救出隊と井上隊は今日の行動をここで打切り、幕営することとした。救出隊はテントがないので適当にころがって寝た。
 連絡隊はドウドウセンの上部まで行き、オジカ沢ノ頭隊と14時に連絡し、上からサポート隊として装備を持って下降して来るよう指示して到着を待つ。18時にサポート隊と合流し、河原にて幕営した。

(2) 尾根下降捜索隊
 朝一番(8時50分)のロープウェイにて男性7名がテント、ザイル、登攀具、2日分の水等を担ぎ天神平へと上がった。そこから天神尾根を谷川岳へ登る。途中、後から天神平へ上がった鈴木と無線で情報交換を行なった。(谷川岳←→湯桧曽の現地本部間は無線交信できないため鈴木と阿部が天神平に上がった。)交信状態があまり良くないので、肩ノ小屋前に無線の中継のため飯島、朝岡の2人を置き、残りはオジカ沢ノ頭へ向かい、12時にオジカ沢ノ頭到着。オジカ沢ノ頭には赤谷川本谷を単独で遡行してきた男性がいたので3人のことを尋ねてみたが見なかったとのことで、ますます不安な気持ちになる。
 14時に赤谷川本谷捜索隊と連絡が取れ3人の無事発見の報せを受けホッとした。この情報は直ちに谷川岳で中継され、天神平の鈴木に伝達され、さらに永楽荘の現地本部へと流された。
 オジカ沢ノ頭までボッカした服部と箭内は仕事の関係で今日帰らねばならず、14時の吉報の直後に下山して行った。
 また連絡隊より、装備・食料を持ってドウドウセンの上部まで下降してくれとの要請を受けたので、無線連絡・サポート予備要員として飯島、朝岡が肩ノ小屋前からオジカ沢ノ頭に移動し、菅原、今井、井上(雅)の3名が下降した。だが足まわりの良くなかった井上は雪溪を安全に下降できず、途中でオジカ沢ノ頭に引き返し、飯島、朝岡に合流して侍機した。菅原、今井は順調に下降し、18時に連絡隊と合流した。

29日(水)
 救出隊と井上隊はドウドウセンの下部を5時30分に出発、ドウドウセンを高捲き、連絡隊、サポート隊と合流したのが6時30分であった。以後、赤谷川本谷を詰め、オジカ沢ノ頭を経て谷川岳天神尾根を下降し、ロープウェイを利用して下った。ロープウェイ駅に迎えに来た田原の車で湯桧曽の現地本部永楽荘に15時頃着き、ここで全員と合流した。

6.毛渡沢出合のデポ回収と帰京

 佐藤と吉岡はオジカ沢ノ頭に到着した段階で一足先に下山し、ロープウェイ駅に置いてあった菅原の車で毛渡沢出合に残したデポと吉岡の車の回収に向かった。回収後2人が永楽荘に戻ったのは17時頃であった。そして18時に永楽荘の現地本部を解散し、田原は無事救出された井上(博)、澁谷、飯塚の3名と阿部、福島を伴い事情聴取と御礼のため沼田署に寄ってから東京に帰った。残りの者は菅原、吉岡の車に分乗して帰京した。また前日下山した服部と箭内は、服部の車で帰京していた。

 尚、諸経費に付いては、11月15日現在未だ保険がおりていないため、来年4月の大集会で報告いたします。

(文責・菅原康之、服部寛之)

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