トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ282号目次

春山合宿・剱岳
その4 未経験者の経験
小林 偉城
山行日 1993年5月2日~5月5日
メンバー (L)大久保、山本(信)、高木、谷川、市川、福間、澁谷、石塚、田代、森本、小林(偉)

 誰しもが一度は経験したニガイ山行感想文であり山行記録ではない。又、この種の経験を繰り返しながら本格的冬山登山のトリコになった人も数多くいるものと思う。
 私は、未だ態度を決めかねている一人である。
 初心者は未熟者、未経験者、不慣者、ウブであり、自然に足が重くなる。特に山骨を露にして峻険な山容を見せる豪壮な山、冬山登山については、登山届出条例がある、熟練者の指導なくして入山出来ない等の剱岳に参加出来ることは誠にこの年齢にて不思議であった。当然これを受け入れた会に対して感謝の念を禁じ得ない。出発前に家内には、無理はしないよ、恐らく山頂に立つことは無い、ベースキャンプまで、ただ行った記録を残すだけ、それでも満足であると伝え出発した。
 体調は決して悪くなかった。車中ビール2本だけの飲食にも拘らず身支度した黒部ダムからの出発間際頃から急に倦怠感を覚え始めた。歩行を開始するとますますこの気だるさは増長し始めた。又、今まで経験したことの無い程、異常と言えるほど発汗し、足を前に出そうとしても出ない状況になった。三斗小屋以来の2回目の冬山行であらゆる面でまるで違う。団体登山である以上落伍者は皆さんに迷惑をかける。早ければ早い程よい。続行は無理である旨リーダーに伝える。未経験者にはこのようなことはよくある。団体行動を取ってもらいますよ。そのうち良くなりますよ。等等私にとってみればツレない返事であった。更に奥に進み、にっちもさっちもならない状態になったらどうなるのだろう。雨はいっこうに止みそうもない気配。不安と戦いながら前進するしかなかった。大好きな日本酒を山本ゲンさんにもって貰い、多少荷が軽くなったものの気ダルサ、不安定歩行からの黒部川への転落不安、考えれば考える程憂鬱になっていく。私のためスケジュールは大幅に遅れ、内蔵助平のテント張を内蔵助谷をやや入った地点に変更した。正に天の助けとはこのことを指すものであろう。先程の鬼リーダーがなんと人間味のある、包容力のある、頼りがいのある人に急に変身したかのように思えてならなかった。又、心ある同伴者の暖かい叱咤激励に支えられたことが今でも脳裏に焼き付いて止まない。当日は一滴も口にせず明日に備えた。
5月3日
 寝返りの出来ない、狭いテントの中でアルコール摂取なしで一度たりとて途中で目を覚まさず良く寝ることか出来た。快晴であった。恐る恐る起きてみたが昨日の気ダルサはまるで嘘のように思えるほど気がピーンと張る快さが全身を包んでくれた。念には念を入れ自重し、朝食を控えめにし出発した。程なく黒部別山や丸山に包まれて、ひっそりと静まりかえって広がる内蔵助平に到達した。いつの問にか、この雄大な大自然に溶け込み、むしろ歩くことの楽しみが出て来た。回復気運を大切に維持するため地図には目を通さなかった。前進方向を間違えたが、真垂直に滑り落ちる楽しさを噛み締めながらハシゴ谷乗越を過ぎ真砂沢に向かった。当初の目的地を目で捕らえたとき、又、同僚仲間が手を振って迎え入れてくれたとき、昨日の緊張感、不安感、恐怖感は消され大声で達成感を叫びたくなる思いがした。そんな快い疲れを感じながら合流出来た。大満足であった。明日の鋭気を養う為、お互いに酒を酌み交わし始めた。やはり明日の登頂とりわけ山頂に立つことの喜びと難しさが中心的話題であった。私は始めから山頂に立つことはあきらめていた。登る登らないは自由であり、ベースキャンプまで戻るのであれば此処で待っていても迷惑をかけない。此処までくれば大満足であると主張したが、この主張はまたしても受け入れられなかった。各人は思い思いの気持ちで話し合っているのを構目で聞きながら、何処に酒が入ったのか、分からないまま気を重くして寝た。
5月4日
 快晴。全員で出発。さしたる不安感はなくなっていた。テントからは剱岳は見えない。荷物は一段と軽くなったこともあり、わりと歩き易かった。長次郎谷もあまり苦にならなかった。不思議でもあった。視界に剱岳を捕らえたとき、格段の嬉しさと不安感が交差し何とも言えない何かを感じとった。突風が吹きまくる尾根で休息をとった。装備装着を開始しはじめ、垂直に聳えたつ頂上を見上げ最後の覚悟を決めた。ついにアタックする順番が来た。途中までは安全ロープなしであった。アイゼンとピッケルが安全装置であった。無責任のリーダーを恨んだ。足の先端部だけがこの地上と接地し、あとは空中にある。初めての経験。この姿勢で動けないときもあった。下を見るのが怖かった。目を閉じそのまま待機する以外になかった。中間点付近でロープを手渡されたとき、生きた心地がした。それでも足の先端部だけが地上にあることには変わらなかった。必死の思いでロープを握りやっとの思いで足の全面が地上に接することができた。何と長かった時間。お互いに握手し合い、お互いに満足感を噛み締めあった。リーダーからの握手が最高に嬉しかった。本当にここまでリードしていただいたことに、改めてお礼を申し上げたい。

 投稿の依頼を受け印象新たの段階で書くつもりでいたが、つい伸び伸びになってしまい、うまく表現出来なかったことをおわび致します。


トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ282号目次