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明氏の山の歳時記(冬の採餌記の巻)
佐藤 明

 冬山を歩くこともなかなか楽しい。特に晴れた日に山の頂より彼方まで続く水墨画のような山なみをながめていると、俗界を忘れまさに仙人の気分だ。しかし、冬山での食料の採取となると事情は一転し、さながら食料難民になり下がる。初冬の山では、まれに雪をかぷったナメコを見つけることもあろうが、通常食べられそうなものはことごとく、無い。もしあったとしても、そこに暮らす動物達に先に取られてしまうのが関の山である。
 早春の晴れた日に雪山を歩くと、かん木の下などによく碁石をひとまわり大きくした茶色い実のようなものを見かける。それに何個もかたまって落ちている時もしばしばある。私は長いこと、その木から冬の間に落ちた実が雪の中からとけ出しているのだとばかり思っていた。しかしある時、異なる木の下なのに同じ様な実が落ちていることに気がついた。どこかの大木から動物が拾ってきて、あちこちで食べ散らかしたのだろうか。それにしても何の実だろう。色は濃い茶色でサクサクした感じである。やさしく指でつまんでも、すぐにポロリとくずれてしまう。山の新人達はそお-とつかんで手のひらに乗せ、明さん、これ何の実ですかねぇ、と聞かれたことが何度かあった。さあ何の実だろうねぇなどと答えると持って帰って調べてみようなどとビニール袋に入れたりする好奇心豊かな女性もいた。その後何年かして、山の達人が一体何かを教えてくれた。それは何と、ウサギのフンだと。げえ-、今までさんざん拾ったりかまったりしてきたのに。何ということだ。
 山で動物のフンを見ることはしばしばあるが、大きな動物のものはそうお目にかかれない。それは学生時代、北蔵王の連山を縦走していた時の事だった。山は深く、その行程の長さから足を踏み入れる登山者はまれである。また周辺には手つかずの原生林が広く残っていて、カモシカやツキノワグマの生息地として知られていた。北泉ヶ岳からの稜線を南にたどると、熊ノ平という広い尾根上の鞍部に出る。背丈ほどのクマザサ帯を押し分けながら進むと二坪程の広場となり、そのほぼ中央に一本の細目のフンが落ちていた。色は茶褐色で一端はツンととんがり上を向いている。その乾き具合いより、昨日位に投下されたものらしい。
 『近くにクマがいるんだ。襲われたらどうしよう』などと、心もとない事を先輩が言う。別の先輩は『これはきっとカモシカだ。クマのフンはもっと黒いんじゃないのか』。そうしたら同級生が人間のじゃないかと言う。こういったパーティーでは先輩の意見は絶対である。クマかカモシカかの議論は続き、結局私がフンの中身を開いて何を食べているかを調べて決着をつけることになった。
 ねじり折った木の枝は少し細く、ウンチをタテに割るにはちょっと力を入れにくく、また心もとない。不思議なものでこのような動作の時は、手前に引きながら開くのではなく、向こう側に押し開くものである。残り三人はそのウンチをとり囲んでそれぞれ腰を低く、顔を前方につき出していた。折った生木はあまりに弾力性に富んでいた。表面硬化の進行したその物体を押し開こうとした瞬間、ムチのようにしなったその枝はフンの一部を引きちぎりながら宙へ放った。まずいっ。私の正面で一部始終を凝視していた先輩はすぐさま危険を読み取り、とっさに身を引こうとした。が、その発射速度はあまりに速く、また顔も不必要な程近づきすぎていた。回転しながら宙を舞うその茶色の物体は、表面の乾燥した部分を自らの遠心力で脱ぎ捨て、まだ粘性に富む中心部分だけとなり飛行していった。次の瞬間、木漏れ陽の下でギラリと光ったと思うと、その飛行速度をゆるめる事なく先輩のほおにベトリと付着してしまった。本人も含め皆あっけにとられたものの、すぐに周囲は大笑いである。
 『アーこの野郎、クマのクソを飛ばしやがって』と言いながらすぐさまその右ほおの粘着物を落とそうとした。しかし、ぬぐい取ろうとしたもののあまりに柔らかく、さらにウンが悪いことに、その動作が逆に付着物を線状に延ばしてしまう事になったのだった。そしてその線は口もとまで届かんばかりである。ウンチでひげを描いた本人の怒りがあまりに激しかったため、まだ付いているとは誰も言えなかった。そのため先輩はウンチヒゲに自ら気が付くことなく、その後の山行日程をこなし、帰宅したのだった。
 さて、ウンチの観察は更に続けられた。皆が遠巻きながらも注目する中で、どんどん中身を開いていくと、黒っぽいのや、赤紫色の部分が随所に見うけられる。また黄色いとうもろこしのかけらのようなものもあるが、何だか良く分からない。もっとも我々にはクマやカモシカの食性がどう違うのかさえも知らなかったので、フンを見て判断するのはそもそも無理だったのだ。
 そんな時同級生が大声で『おい、これ見ろよ』と叫んだ。ナ、ナントちょっと離れた草かげに使用済みのキジ紙が落ちているではないか。その大キジはクマやカモシカのではなく誰か人間の陰謀だったのだ。よく自然愛好家は動物のフンを持ち帰って調べたりするが、今回はそんな事を試みなくて本当に良かった、と思った。しかし、この時の先輩とはこの山行以来交際がとだえてしまった事が残念である。
 もしかするとあなたの大キジも動物のものと間違ってかまった人がいるかも知れない。ぜひ人間のものと分かるように処理しておきたいものである。
 あまりに長々と食えない拾得物の話に脱線してしまった。気分を一新させ改めて早春の野山で食べられるものを探してみよう。山へ行けば雪の消えた地面から顔をもたげているフキノトウがすぐ見つかり、採取しやすい。あまりトウのたっていない、ツボミの少しだけ開きかけたものを指先でポキンと折りキープする。近所のスーパーでは5個パックで300円なり。時期がよければ、3千円相当の収穫にもそう時間はかからない。空揚げでも、フキみそでも、そばの薬味としてでも悪くない。出来るだけ採りたてのアクの少ないうちに食べてみよう。
 また、わざわざ山へいかなくても、近くの土手に生えるノビルも手軽に楽しめる早春の味覚だ。移植ゴテを持って気軽に出かけてみよう。現地でみそをつけながらガリガリかじり、冷や酒をキュッとやるのもなかなか粋なものである。たまに夜露の消えている時間なのに手が濡れる事がある。それは犬のオシッコなので、そのノビルは食べないように注意されたい。


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