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記憶に残る山行
大久保 哲

 「三峰」に入会して、はや、8年半が経とうとしている。山行回数も回を重ねること、120回になろうとしている。この数が多いか少ないかは別にして、良く行ったものだと思う。この間、膝や腰を痛め、山から遠ざかった時期もあったが、怪我や事故も無く、ここまでこれたのも、会の諸先輩や多くの仲間のおかげだと、痛感する。入会当時は、山に関してはまったく右も左も判らず、リーダーを相当ヒヤヒヤさせたと思うが、山に誘い、適切なアドバイスをしてくれ、「三峰」の仲間になれたのも、まさに、「三峰」という山岳会のおかげだと思う。
 会創立、60周年を迎えるにあたり、私なりに三峰で過ごした8年半を振り返ってみようと思う。"楽しかった山行""苦しかった山行"そして"死ぬかと思った山行"過去120回の山行から、いまでも鮮明に記憶に残る山行を、三つに絞って振り返ってみたい。

  その一 (1985年 5月合宿 剱岳)
 先ずは、何といっても昭和60年の「5月合宿、剱岳」をあげなければ、私にとって山を語ることは出来ない。実際、この山行に参加しなければ、今の三峰にいる事は無かっただろう。入会する前はひたすら秘湯を求め、仲間4人で山をほっつき歩いていた。当時はまだ温泉ブームなど無く、どこの温泉を訪ねてもひっそりと、誠に静かな時を過ごすことが出来た。なかでも、黒磯の友人の親父さんが教えてくれた、那須の"三斗小屋温泉"に夏訪れた時は、感動ものだった。今でこそ夏なら2時間も歩けば、楽に訪れることが出来るが、当時は山の歩き方も知らず、ガンガン登っては大休止の繰り返しで、避難小屋を過ぎてからは、ほとんど人にもあわず、その先に、本当に目指す温泉があるのか不安になりながらも、緑の木立の先に赤いトタン屋根を見つけたときはホッとした。着くやいなや、早速、誰もいない浴槽につかり、生きてて良かったなどとほざきながら、黒光りした廊下に感動したり、お膳で出てくる夕食に驚きながらも、ランプの宿を十分に満喫していた。しかし、何度か季節やルートを変えて訪ねるにつれ、山歩きに不安を覚えるようになった。そんな時期、ふとしたことで、山溪で"温泉山行"の四文字を見つけ、早速、連絡を取った。
 ルームを最初に訪ねた時は、ちょうど5月合宿の打ち合せで賑わっていた。入会前だったが、成り行きで自分も参加することになってしまった。借りられる装備は借り、それ以外は買い揃え、剱岳がどこにあるのか、どんな山なのか知るよしもなく、夜行電車で眠れぬ時間を過ごした。そして正気になったのは黒部ダムに出てからだった。借物のIBSの75リットルのオリジナルザックにずっしりと詰った荷物。簡単な雪上歩行の練習の後、吸い込まれそうなダムの下を目指してみんなが下って行く。離されまいと、必死になってついて行く。しかし、恐怖感はぬぐい去れない。なんでこんな所に来てしまったのか、もう自分ではどうすることも出来ない。やっとのことで、ベースの真砂沢に着いたときは、全身の力が抜けてしまった。我々のパーティーは男性6人、女性7人で構成されていた。驚いたのは女性のパワーだ。大の男の自分がこんなにバテているのに、女性陣の余裕には驚かされる。夕食前に翌日の予定の打ち合せが行われた。先発隊も含め3パーティーに分かれ、その中で一番やさしい長次郎谷コースに参加するが、心の中では、今すぐにでも、ここから逃げ出したいと、真剣に思っていた。しかし、ここでは、本当に、自分ではどうすることも出来ないのだ。
 そして、朝がきた。朝とはいえ、辺りはまだ闇に包まれていた。食事を取っていると、先発隊は先に出発していく。出来るだけ荷物を軽くし、暗闇の中を出発する。時間が経つにつれ真っ白な世界が視界に入ってくる。かつてこのような景色は見たことがない。何とも素晴らしい。日が昇るにつれ、夏を思わせるような日差しが肌にやきつく。登るにつれ傾斜がきつく、時々、気温の上昇とともに雪崩が落ちてきてなんとも恐い。何とか長次郎のコルに出るが、多くの登山者で順番待ちとなる。その斜面を目の前にすると思わず震えが全身に走る。ザイルを張り終え、とうとう自分の番がきた。死なないように、死にたくない、そう何度も心の中で唱えながら登る。下は見ないで、ただ上だけを目指す。ザイルの端が見えてきたら、なぜか胸がつまり、涙が溢れてきた。何だろうこの涙は。今、この瞬間、こんな場所にいること自体、想像すら出来ない。そしてピークへ。360度、見渡す限り、遠く続く白い山並。素晴らしい。生きてて良かった、来て良かった。心の中で、何度もそう叫んだ!
合宿から戻り、しばらくは無事に還れただけの安心感からか、入会すら考えず、そして山など二度と行く気にさえならなかった。しかし、時が経つにつれ肉体的苦痛や、恐怖心は次第に消え去り、感動だけが残っていく。そして「三峰」に入会し、剱の感動を求めて、また、山に行く。

  その二 (1991年 5月合宿 白馬岳隊)
 その日の朝、風雪は少しおさまった。我々は下山を決断した。出発前リーダーは言った。「もし、雪崩れに巻き込まれても、俺を恨むなよな!」そして我々は、真っ白な空間に間隔をおいて踏み出した。下っているにもかかわらず、ホワイトアウトで何も見えない。雪面と空の境目も、足元もみんな真っ白。まったく距離感も平衡感覚すらつかめない。腰までの新雪。誰もが雪崩が起こらないことを願っていた。時折、一瞬に見えた山影を頼りにルートを修正し、下って行く。やっとのこと視界が開けたのは、白馬尻の手前だった。
 その年の5月合宿は、後立山連峰の集中合宿だった。我々白馬岳隊は、4泊5日の日程で白馬岳から唐松岳まで縦走する予定で入山。日程的には十分過ぎるほどだったが、これが結果として裏目に出てしまった。初日、雪にどっぷり埋まった葱平を後にした。夏の喧騒をよそに、ゴールデンウィークだというのに、ここを出発したのは我々と、途中で山スキーを楽しむ1パーティーだけだった。夏ならば、大雪渓のうえを蟻のように続く登山者で賑わうここも、数人のスキーヤーがたまに下ってくるだけだった。話によると、どうも稜線上はかなり風雪が強いようだ。登るにつれ天気が崩れ、初日の疲れもあり日程的にも十分とのことで、夏ならお花畑も過ぎ白馬山荘まであとわずかという所にテントを設営した。その場所は、雪で埋まった斜面にかなり広い岩肌を出した所だった。暗くなるにつれ天気はますます崩れ、5月だというのにドカ雪が降り止まず。夜中の2時、雪の重みで目をさまし、テントに降り積もった雪を払う。その後も、1時間ごとに交替でテントを掘り起こす。
 翌日、ますます風雪が強くなり、この日は停滞となるが、どうも雪でテントが押し潰されてるのは、我々のテントだけで、隣に張った2~3人用のエスパースは、ほとんど雪の影響を受けていない。丁度、風が岩に当たり、我々のテントに吹き溜まってしまう。全員で悪天の中、場所を移動しようとするが時すでに遅し。雪洞を掘ってみるが、新雪の下はカチンカチンに凍って歯がたたず。結局、雪掻きの回数を増やすことにし、やることがないので呑み始めるが、次第に掻いても掻いても、降り被さる雪のスピードに付いていけず、2日目の夜を迎える。これだけ新雪が降り積もると雪崩が心配になる。まして我々がいるこの場所は、急斜面で雪崩が起こりそうな場所なのだ。意を決し、その夜は、何時でも行動出来るよう登山靴を履き、スパッツをつけ、足だけシュラフに入り4人で身動きも取れずに朝を待った。
 3日目の朝、少し風雪が弱まる。辺りを見回すが、視界に入るのは、真っ白な世界。変化があるのは僅かに雪から顔を出しているテントの青だけ。昨夜から眠れずに過ごしたリーダーは、少し天気の様子を見て今日の行動予定を決めるとのこと。しかし、完全に押し潰された我々のテントの状況から判断しても、もう持ち堪えることは出来ないと判断し、下山と決断した。潰れたテントを掘り起こすのに手間どりながらも何とか掘り出すが、他に、一部装備が雪に埋まってしまったが諦める。そして、リーダーの"一言"を残し、真っ白な空間に歩を進めた。

  その三 (1992年 4月 富士山)
 高度を上げるにつれ次第に斜面はアイスバーンとなり、吹き付ける風はその強さを増し、しかも方向性も失ってきた。耐風姿勢をとっても、顔に打ち付ける氷の粒がかなり痛く感じ、足元もすくわれそうになるが、何とか持ち堪える。次第にペースが遅くなる。七合目を過ぎ、また突風がやってきた。あっと言う間もなく体が宙に舞い、3mほど飛ばされ、急なアイスバーンを頭から滑り落ちていく。一瞬、前を行く金子氏の表情がスローモーションで目に入るが、次の瞬間、樹海まで滑り落ちていく自分の姿が浮かんだ。瞬時にいろんなことが浮ぶが、なんとか止まった。なんともすごい風だ。この強風にみんな手こずり、時間ばかりが過ぎていく。結局、八合目にテントを設営するが、強風にあおられやっとのこと一張りを張り終える。そして二張り目を張ろうとした瞬間、突風にあおられ風下にいた一人が消えた。同時に、何本かのピッケルやついいましがた背負っていたザックまでが飛ばされた。飛ばされた人間は辛うじて斜面に踏み止まり、ザックはまるで滑り台のように、サーと樹海に吸い込まれていく。この突風で張り終えたテントは潰され、もう一張りはビリビリと裂けてしまった。もはや、もうここに止まることは出来ない。即、撤収し、意を決して下山する。幸運にも流されたザックは回収出来たが、その姿は悲惨なものだった。その夜は何とか過ごすことは出来たが、不運は続いた。ちょうど朝飯を食べていると、ガツンと頭に衝撃を受けた。一瞬、訳が判らずにいたが、すぐ落石だとわかる。気温の上昇とともに、周囲で小さい落石が起きていた。
 その後、7月に雪辱戦で登頂したが、富士山というと、一般的には良いイメージを思い浮かべるだろうが、私には、この悲惨なイメージが強烈に残っている。

 こうやって、過去の山行を振り返って見ると、何故か、悲惨な山行しか記憶に残っていない。楽しかったり、感動した山行も数あるが、そういった記憶というものは、時間が経つと忘れてしまうものなのだろうか。
 まだまだ、記憶に残る山行は沢山ある。笊ヶ岳のダニ山行や、ヒカラビ山行、他人には話せない山行等など。これからも、記憶に残る(できれば楽しい)山行を続けていきたい。


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