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六十年と会名の由来
宮坂 和秀

 皆さん、60周年おめでとう。早いものでいつの間にかもう60年も経ったのかと、感慨にふけっている男がここにいます。ここでこの男の紹介をしておきましょう。
 今から60年前に会創立の当時の初代会長(当時は代表者と称しておった)蒹委員長をお引受けしたこの男が、私宮坂でございます。
 会を創立したのが、昭和8年の10月で18才の時でしたから、私の年齢もいつの間にか78になってしまいました。近年気管支炎(それもびまん性汎細気管支炎という指定難病)を患ってからは往時の元気はどこへやら、すっかりハレーすい星の如く山がどんどん遠くへ走り去って行くようです。
 先日、雲取山集中と三峰神社参拝の案内状を受取りましたが、それに依ると会名の由来について、諸説ありますがそのうちの有力候補として語り継がれているのが云々とありましたが、正にその通りです。
 ここで会名の由来の正確な事をお伝えしておこうと思う。それが三峰山岳会の開設者として名付け親としての私の責務であろうと思うからです。
 私と高木真次郎君とNHKアナウンサーになった森瀬茂君と3名でよく山へ行って居ったが、たまたま秩父三峰の縦走をしようではないかという訳で東京を夜出発した。その当時ケーブルカーは当然無かったものと記憶しているが、熊谷廻りで秩父鉄道の三峰口(夜8時頃)から歩き始めて三峰神社迄登った。もう夜中で、小説「大菩薩峠」の一場面を思い出しつつ夜明けを待った。
 夜が明け切らぬうちに歩き出したが、今と違って山径が細い(勿論、現在のように自動車道が入っていないし、駐車場がある訳がない)ので一つ細い小径があったが、これは白岩、雲取方面ではなく大血川方面へ越える径であろうと思って見送り、右側の大洞川方面奥へと引込まれてしまい、気がついて小沢を登りつめてお経平へ出る事が出来た。これにより沢歩きに興味を持つようになった。
 帰りは雲取から七ッ石を経由、氷川駅(今の奥多摩駅)から青梅線に乗ったが、3人で話合いした際、一つ会でも作って同志を集め盛んに行こうではないか。そして登山技術の研究とその練磨向上を計り、今日のような失敗のないようにしなければならないと話合った。
 会名の事だが、三峰の縦走をしたことでもあるし、我々3名を一つ一つの峰にたとえて三峰山岳ではどうか。賛成!という訳で、いとも単純に決めてしまい、最初は同級生から勧誘して太田晃君、長久鶴雄君等に入会して貰った。大いに活躍してくれた高木君、長久君は今は故人となり、淋しい限りだが、私なども近い将来、幽明鏡を異にするかも知れないが、皆さん方の様な優秀な後継者が沢山居って安心しています。
 最後に当会の特殊コールの「モートー」の事であるが、私の勤め先でつくっていた猛登会という会(会員数5名)を解散するに当たって当会のコールとして譲り受けたものである事を付加しておく。


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