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私のお気に入り
斉藤 芳弘

 何度行っても再度行きたくなる温泉に奥鬼怒が在る。開発の手がまだ入らない事に良さを感じていたが今は開発が行われつつある。奥鬼怒よ御前もか!と言いたくなる。
 人間は何かを失い、何かを手に入れて来た。だが今の世には一度失うと再び得られない物が数多く在る事を心に留置かないと、人生そのものが空しくなるような気がしてならない。野天風呂にしても古い物は大衆から嫌われてしまう。見た目に汚く写るからである。しかし石の間に生きる苔や雑草に生命観を感じる心が在れば、それは何にもまして風流である。
 本当に長い時間かかって出来た野天風呂には心にしみ入るなつかしさが涌いて来る。数年後温泉に行くと古い野天風呂の横に目新しい石作りの野天風呂が出来ていると、何故と言いたくなる思いがする。そして、その場所に茂っていたススキが秋に見られない事に淋しさを感じてしまうのである。
 豊かな感性を失って行く現代人、金銭感覚だけが研ぎ澄まされて人の顔色で判断し、人間の持つ柔らかさが隅に追われてしまう。
 満点の星空を見ながら入る温泉は内湯には無い、野に咲く花を眺めて入る良さも、雪が舞い降る中に入る風情も、鳥達と友になる事も無い。
 みんな囲いを作るからだ。せめて自然の中では囲いは取り払いたい。それが私の希望だ。こんな話をすると笑われるか変人あつかいをされる。そしていなぬ偏見を受ける。
 西洋人は自然から自分達を隔離したが、日本人、あるいは東洋人は自然を隔てる事はしなかった。共生観が在ったからだ。
 5月の鬼怒沼は雪の中、スニーカーでは無理と言われたが天候も良いので散歩がてら行ってみる事にした。雪の表面が凍っているのでスリップさえ注意すれば雪に潜らずに歩ける。展望台をへて林の道に入る。静寂だ。何もかも春の訪れを待ちこがれて、じいっと息を潜めているようだ、動いているのは自分だけのような錯覚を覚える。でもどこかでウサギちゃんが耳をそばだてているんじゃないかな、そう思いながら木の間を静かに歩いて行く。鬼怒沼湿原は雪の下、白い大地の向こうに尾瀬の山並が見える。こんな時、私は風の音に耳を澄まし何も考えず、ただ目前の山と対峙している。こうした時が山での一番好きな過ごし方である。そして、いつでもそうだが現実の時に引き戻されてトボトボと帰路に就く。
 八丁の湯に帰ると例によって冷えた体を湯船の中で暖める。すると御夫婦が入って来る。正面に奥さんが気持ちよさそうに入っていると私は出るに出られず、オドオドしていると、旦那が笑いながら奥さんに、それとなく話す。奥さんは一度、此方を見て旦那の方へ身をよせる。私が湯から出ようとすると旦那が、写真を一枚写してほしいと言う。ファインダーを覗くと楽しそうな御夫婦が肩を寄せ合っているカットだ。なるほど温泉は入浴するのではなく自然の恵を味わう世界なのだ。これだから野天風呂はやめられない。
 色々の温泉、野天風呂に入って来たが、本当に良い温泉には、なつかしさが在る。今は有名な温泉を避け、だれも居ない大自然の中で独り川底を掘って自分の野天風呂に浸っている。


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