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行動記録
文頭の【 】は執筆者を示す
ルート図 行動表

6月19日(土) 東京・曇り
 成田 → アンカレッジ
【服部】
 朝9時にJR御茶ノ水駅の聖橋口に集合する。朝早いにも拘わらず大勢が見送りにきてくれる。感謝感激である。田原会長、中村氏、吉岡氏、大泉氏、播磨氏の車に分乗して成田へ向かう。
 意外とすんなりチェックインが済み、出発まで皆で雑談したりブラブラしたりレストランで昼食を摂ったりして時間をつぶす。ノースウェスト航空008便で15時45分定刻通りシアトルへ向け出発する。
 時差の関係で、同日の朝8時30分にシアトル着。どんよりとした曇り空。皆四苦八苦しながら入国審査を済ませたと思ったら、税関で食料の包みを全部開けさせられ、豚肉の持ち込みは一切禁止だとのことでアタック食として用意したジフィーズを没収されてしまう。税関職員のおねえちゃんは豚という漢字をマスターしていたのだ。通関後乗継便を確認して荷物を流す。シアトル市内を見物するほどの時間はないので、次の便まで空港内で過ごす。レストランで昼食を摂ったが、旨くなかった。
 14時50分、定刻通りノースウェスト581便でアンカレッジへ発つ。約3時間の飛行ののち予定通り17時19分アンカレッジ着。アンカレッジは晴れ。時差はこちらの方がシアトルより1時間遅い。
 空港でジムという老ガイドの出迎えを受ける。確かに流したはずのスキー1包み(4人分の板・ストック・ピッケル)が着いていない。そのクレームを済ませ、ジムの車とタクシーに分乗してインレット・インという安ホテルへ。18時30分チェックイン。白夜のためまだ真昼のように明るいんで何だか変なかんじだ。ホテル近くを皆で少し散歩し、熊五郎という日本食レストランで熊五郎ステーキを食べる。分厚く存在感のあるステーキであった。一緒に注文したキリン一番搾りはカナダ産だった。
 その夜0時半頃、行方不明だったスキーの包みがホテルに届く。これでまずは一安心。

6月20日(日) 晴れ
 アンカレッジで買物 → タルキートナ
【服部】
 朝食はマクドナルドへ行く。バーガーの大きさに唖然。バーガでかい。
 乗用車とワンボックスの合いの子のようなでっかい赤いフォードでリンダというおばちゃんが助手のオッサンと共にホテルに迎えに来る。荷物を全部積み込み、10時頃ホテルからまずは食料の買出しにスーパーマーケットへ行く。少し時間があるので郊外のチューガチ・ステート・パークというところまで少々ドライブ。アラスカ鉄道の昔の大きな蒸気ラッセル機関車が展示してあった。その後REIというアウトドアの店へ行く。山からカヌー、チャリンコまで何でも揃っており、衣類、バーナー類等日本の半値なので驚く。そのすぐ近くのレストランで昼食後、一路タルキートナへ向かう。
 タルキートナはアンカレッジから車で114マイル、180km強の距離にある。夏休み中なので道路にはアメリカ各州からやってきたキャンピングカーが多い。途中セブンイレブンに寄ったり、マッキンリーが見えるという湖にも寄ってみるが、ガスのためフォーレイカーしか見えなかった。
 タルキートナに着き、まず飛行場にあるK2エイヴィエーションへ行き、明日のフライトの打ち合せをし、K2社のバンクハウスに泊らせてもらうことにする。バンクハウスというのは山屋用の宿泊小屋だ。一人1泊12ドル。リンダに支払いをし、ありがとう、さようなら。バンクハウスは300メートルほど続くタルキートナの町のただ1本のメインストリートを抜けた端っこにあった。メインストリートの真中あたりにレインジャー・ステーションがあるが、誰もいなかった。荷物を車で小屋まで運んでもらい、明日のフライトでの入山に備え仕分けをする。A隊(植村、鈴木、別当、飯塚)、B隊(金子、菅原、服部、吉江)それぞれの共同装備の他に個人装備がある。梱包を解いてみてその量の多さに改めて驚く。その後レストランで夕食。

6月21日(月) 雨後晴れ無風
 タルキートナ → LP(2200m)
【金子】
 6時起床。いよいよ今日は入山日だ。朝レインジャーステーションに行く。簡単に済むものと思っていたが、前もって提出しておいた登山届けが見つからず改めてその場で書いて出すことになった。その後ビデオを見せられレインジャーから色々とアドバイスを受ける。予定の時間より遅れてK2の事務所へ行くと、今日は天候が悪いのでいつ飛ぶかわからないという。日本へのハガキなど書いたりして時間を潰すがなかなか飛ぶ気配がない。昼食から戻ってしばらくしていよいよ飛ぶと言うのでセスナに乗り込んで待つがまたも急に雨が降ってきて中止。結局先発が飛んだのは午後3時ごろだった。先発として2機に分かれて菅原、別当、飯塚、吉江、金子が飛び立った。その後また天候が悪化し後発がなかなか出発できず、全員がランディングポイントに揃ったのは午後10時を過ぎていた。

6月22日(火) 朝のうち曇のち晴れ 山はガス
 LP → RC1(2360m)
【金子】
 LPはかなり賑わっているがほとんど下山するパーティーでこれから登るパーティーは少ない。荷物の整理にかなりの時間を費やしたので出発は11時になった。帰りの食料、燃料を雪の中に埋めてデポし、残りは各自1台のソリに分散して引いていく。LPはカヒルトナ氷河の支流の南東フォーク・カヒルトナ氷河上にあるので一旦本流のカヒルトナ氷河までスキーで下る。ソリを引いてのスキーなので快適な滑走など望むべきもない。本流に下りると平坦になり広い氷河のど真中をひたすら上流へと歩き続ける。太陽が顔を出すとものすごく暑くて日本の春山以上だ。慣れないスキーのせいか午後になると疲れがピークに達し、あと少しで今日のキャンプ地というところで動けなくなってしまう。皆に1時間ほど遅れてRC1に着く。
LP 11:00→RC1 18:00
【別当】
 各人に装備を分配し、「これあげる」、「これ誰かもって」とワイワイガヤガヤとパッキングを行なう。下山時の食糧等を穴をほってデポし、いよいよ出発となる。各人、ザックに10kg、ソリに20kg程となる。カヒルトナ氷河本流まで滑り降り、出合で二人ずつアンザイレンする。天気も良くなり、行動中はTシャツでもいい位だ。北東フォーク出合の手前でテントを張る。

6月23日(水) 曇、ガス濃し、無風、のち晴れ
 RC1 → RC2(2900m)
【金子】
 今日は朝からガスが濃く視界が悪い。出発してすぐに急登となる。ソリを引いてスキーで登るのはかなりきつい。登りきった所でLPで知り合いになったアメリカ人のパーティーに会う。今日はこの場所で停滞するそうだ。以後彼らとは前後しながら下山まで一緒だった。我々は先へ進むことにする。さっきほどではないが長い登りをトレールを頼りに登りつめていくとやがて広い雪原に出る。今日のキャンプ予定地だ。テント設営跡を整地してテントを張る。今日は行動時間が短かったので楽だった。やがて晴れ間も覗くようになり、外で食事を作りのんびり昼寝などする。
RC1 8:10→2700m 10:30→RC2 13:35
【別当】
 今日もまた、犬ぞりの犬のようにもくもくとソリを引っぱる。昨日よりも傾斜があり、引き綱が体に喰い込みハラワタがちぎれそうだ。2900m地点をRC2とする。

6月24日(木) 快晴、無風
 RC2 → BC(3300m)
【金子】
 今日は快晴で風もなくとても暑い。スキーでの歩行もだいぶ慣れてきた。カヒルトナパスまでは緩やかな登りでどうということもない。カヒルトナパスからBCまでは急で途中スキーを外して登る。入山以来まずまずの天候でここまでは予定通りの行動だ。
 BCに着いた当初はかなり息苦しさを感じたがしばらくするとそれも治まった。
 今日は先発隊4人(菅原、服部、吉江、金子)でABCまで荷上げの予定であったが、明日にまわして今日は休養することにする。
 通常BCは4300mに置くのだが我々は3300mをBCとし、様子を見てABCをベースとして行動することにしていた。
RC2 9:30→BC 13:20
【別当】
 天気が良すぎてジリジリと焼けるようだ。一段と傾斜が強くなり、大きく左へ回りこむと3300mのBCである。

6月25日(金) 曇、無風
A隊 = BC → 4000mデポ → BC
B隊 = BC → ABC(4300m)デポ → BC
【別当】
 A隊は4000mまで荷上げ、B隊は4300mのABCまで荷上げを行なう。BCより急な雪面を登り尾根にでると、風が強く、気温もさがり、やっと山登りらしくなる。ウィンディコーナーは風の通り道で非常に風が強く寒い。トラバースではソリがずり落ちて苦労させられる。
【金子】
 今日は全員でABCまでの荷上げを行う。菅原、吉江、服部、金子が先行して出発。ここから上はスキーが使えないのでソリに荷物を乗せて引いて登る。最初からかなりの急登が続く。傾斜が少し緩くなりしばらく行くとウィンディコーナーに達する。今日は風がないので苦労はないが、風が強い時にここを越えるのは大変だと容易に想像できる。ウィンディコーナーから先はしばらくトラバースが続く。ソリを引いてのトラバースはなかなかやっかいだ。ABCにはまだ沢山のパーティーがおり、ウェストバットレスへと続くヘッドウォールには蟻のように沢山の人が取り付いている。運んできた荷物をABCにデポし往路を戻る。後発組は4000m付近にデポしBCへ戻る。夕方から雪が降ってきた。このまま悪天候が続くのではないかと気がかりだ。
BC 6:15 → ウィンディコーナー 9:00 → ABC 11:00 → BC 14:25
【服部】
 3時起床の予定が睡眠不足で4時起床。夜暑かった。我々B隊は今日BCよりABCへ荷上げ、デポ後BCへ下山の予定。
 6時15分出発。BCから上は傾斜がきつくなるのでスキーは使えない。荷物をザックとソリに分け、アイゼンを履きアンザイレンしゼルバンに付けたソリを引いて登る。BCからすぐに急斜面。狭いクレバスがその基部を横切っている。急斜面を登り終えると右に90度向きを変えてさらに急斜面が続く。その急斜面を登り切ると、広いだらだらの尾根。ウィンディー・コーナーまで緩やかに右曲がりのカーブを描きながら次第に傾斜を上げて行く。
 ウィンディー・コーナー9時着。一本立てるが、その名の通りここは風の抜け道らしく雪面に岩が出ている。ウィンディー・コーナーを廻り込むと大きなクレバス帯。トレースはクレバスを避けて左の山側についている。
 11時40分、4300mABCの台地につく。ここはカヒルトナ氷河のどん詰まり地点である。雪囲いされたテント場が多数あり、人も多くパーティー数にして10隊以上は居そうだ。放棄されたテント場のひとつを確保し、隅にスノーソウで穴を切りデポ品を入れてソリを被せ隊名を記した赤旗を立てる。
 12時40分ABCを発ち、アンザイレンせずに下る。私は調子が悪く、金子、吉江両氏から大きく引き離される。途中ウィンディー・コーナーを廻ったところで、荷上げのA隊と行き遇った。最後の急斜面を下りてゆくと、クレバスの手前で先に行った3名が待っていてくれて有難かった。BC帰幕14時25分。夕方、エドとジェフを交えA隊のテント前で全員で交歓会を持った。
 今日私は4000メートル付近から頭痛が始まり、ABCから下る時には調子が悪く、ウィンディー・コーナーまで下った時点で先頭の金子氏とは1500メートル位の開きができていた。頭痛の他に顕著だったことは、スムーズに登ろうとすると両足のふくらはぎがすぐに疲労し息が切れたことだ。次の足を出す前に1テンポ置かないと登高を続けられない。高山病の影響か? 頭痛は寝不足で高山病にやられたのではないかと思いBCまで下れば治まるだろうと期待したが、なかなか治まらないので16時50分セデスを飲む。そしたらしばらくして頭痛は取れた。

6月26日(土) 曇、ガス濃し、のち雪、風強し
A隊 = BC → 4000mデポ地(RC3)
B隊 = BC → ABC(4300m)
【別当】
 A隊はBCより4000mデポ地まで移動。4000m地点はブロックの囲いのついた幕場が3~4個あり、誰もいないので一番りっぱなのにテントを張る。
 B隊はABC入りする。
【金子】
 今日はBCを撤収してABCへ移動。帰りのための食料と燃料を少し、それとスキーをデポして昼過ぎに出発する。風が強くとても寒い。昨日の降雪で踏跡が消えておりルートを外すとかなり潜るので歩きづらい。ウィンディコーナーは名前からもわかるように風の通り道となっているためかなりつらい。4000mを越えたあたりから服部のペースがかなり落ちてきた。高度順化がうまくいっていないようだ。ABCに着いてもかなり苦しそうで、とりあえず薬を飲んで様子を見ることにする。回復しないようなら4000m付近に植村たちのキャンプがあるのでそこまで下ろすことも考えたが幸い一晩寝たら回復した。他の3人は元気だ。
BC 12:30 → ウィンディコーナー 16:00 → ABC 19:20
【服部】
 9時起床。よく寝た。今日B隊はABC入りの予定。
 朝食後、撤収。この先不要となるスキー、帰路用の燃料・食料、その他を幕場横に埋め、目印の赤旗を立てる。12時25分出発。
 今日はウィンディー・コーナーまでは順調だった。実は、ウィンディー・コーナーで冷たい風に吹かれ、私が調子を崩して皆に迷惑をかけた。寒風に吹かれ私がどうなったか、経過とともに記しておきたい。
 この日、ウィンディー・コーナー(以下WC)は秒速10m前後の風に降雪が混じり、コンスタントな地吹雪の中、時折地表面の雪塊を伴う強烈なブローが来る、といった状況だった。私は出発当初それほど寒さを感じなかったので、毛の目出帽を被っただけでオーバーミトンも高所帽もザックに入れたまま登って来てそうした状況に遭遇したのだった。当然WCで小休止した時はものすごい寒さを覚えた。
 WCを抜け、4000メートルで再度休んだころから私は胃がむかつき吐き気を覚えるようになり、以後登高スピードがぐっと落ち、そのうち全身の震えが始まった。私はとうとう歩けなくなり、ザックを投げ出しその上に座り込んでしまった。私とザイルを組んでいた吉江君はつき合って待ってくれたが、金子=菅原組には先に行ってもらう。この時私の呼吸数は1分間30回に上がっていた。
 その後亀の歩みでABCの手前100メートル程まで来たところで金子氏と菅原氏が引き返してザックを持ってくれる。テント場に着いても私は何も手伝えない。頭痛は無かったが、全身が震え、吐き気がし、バランス感覚が悪くなっていた。アイゼンを外し、かかと-爪先歩行検査をしてみたところOKなので少々安心する(前に出した足のかかとを後足の爪先につけて真直ぐに歩く。これがうまくできないと運動失調のある証拠で、最悪の場合脳浮腫を疑う必要がある。)3人が張ってくれたテントの中に転がり込み、横になったまま震えていた。身体を少しでも動かすと強い吐き気が襲ってきて何もできない。金子氏にスパッツを外してもらい、シュラフやシュラフカバーも出してもらう。シュラフに入って尚も震えていると、そのうち徐々に全身の震えは弱まってきたが、寒気はなかなか取れない。外に出て溜まっていたコキジを撃つと幾分気分が良くなった。やがて皆の食事の準備が始まると、シュラフの中で炊事のにおいが気持ち悪くて弱ったが、そのうち眠ってしまった。
 午前3時過ぎ目が覚める。胃が少々気持ち悪いが頭痛はない。呼吸数も分当り17回に落着いていた。
 私見では、原因は着衣不充分のままWCで吹かれたため低体温症となり、低酸素症のため普段から弱い胃がやられたのではないかと思う。バランス感覚の悪化もその相乗作用だったと思われる。頭痛がなかったのは、前日の順化のお陰だろう。いずれにせよ、この日は3人に迷惑をかけてしまい申し訳なかった。3人の温かい対応には大変感謝しています。

6月27日(日) ピーカン
A隊 = RC3(4000m)にて休養
B隊 = ABC(4300m)にて休養
【菅原】
 昨日まで毎日行動していたので今日は休養日とするが、外は素晴らしい天気で停滞には少々もったいない。囲いがない雪面にイスだけのキジ場で、素晴らしい展望を見ながらの豪快な大キジを行った。
 ここABCは、広い雪原状になっていて高度は4300mあり、展望はすこぶるよく右にMt.フォーレイカー、左にMt.ハンターが見え、背後にはヘッドウォールと5200mに続く稜線がしっかりと望める。またここには、シーズン中はレインジャーが常駐している。
 初めて富士山より高い所へ登った為か、軽い高度障害が現われた。でも今日は一日中のんびりして明日の荷上げに備えておく。夕方になっても頭痛、身体のだるさがとれないのでダイアモックスを飲んだら、寝るころには良くなってきたが、副作用が少々不安だ。
起床 11:30 → 就床 20:30

6月28日(月) 朝のうち雪、午後晴
A隊 = RC3 → (ダブルボッカ)ABC → 4700m(デポ) → ABC
B隊 = ABC → 4900m(デポ) → ABC
【別当】
 A隊はABCへ移動。あっという間に着いてしまう。
 午後荷上げと高度順化の為少し登るが、カッタルイのですぐ下る。
【菅原】
 やはり薬の副作用があらわれたようで、トイレは近くなるし、手足が少々しびれる。でも昨夜はよく寝れた。早く起きたわりには、水作りや、天気の様子をみたり、植村隊が登ってくるのを待っていたりしたので出発が13時と遅くなってしまった。でも天気が良ければ白夜なので夜になっても行動はできる。
 今日は、高度順化と荷上げの為に4900mのコルまでピストンしてくる。ルートは広い斜面を直登しトレースに従って蛇行しフィックスロープに達する。ヘッドウォールの登りは所々青氷で急ではあるが、ユマーリングで登るので別に問題はない。コルは狭いが、4~5張テントが設営されまた数人が入れる雪洞もあった。天気は良いのだが冷たい風が吹き抜けるので結構冷える。早々に荷上げ品をデポして同じルートを下降する。前方にはMt.フォーレイカー、Mt.ハンターを眺めながらのダイナミックな下りだった。
起床 7:30 → ABC 13:05 → 4900m 16:30~17:00 → ABC 18:40

6月29日(火) 快晴
A隊(植村、飯塚) = ABC → AC(5200m) → ABC
A隊(別当) = ABC → 4700mデポ回収 → 5000m → ABC
A隊(鈴木) = ABC → 4800m → ABC
B隊 = ABC → 4900mデポ回収 → AC(5200m) → ABC
【飯塚】
 この日は高度順化と荷上げを兼ねて、ACキャンプにはいって荷物をデポし、またこのABCに戻ってくるという予定だ。きのうからいくつかのパーティーが連なり登っていくのを、凄いなあと眺めていたあのヘッドウォールを、今日は自分達が登り、ウェストバットレスを越えて行くのだ。今日は、あっこさん・私・植村さんの順にザイルをつなぎ出発する。ヘッドウォールは、上り、下り用のフィックスロープががっちりセットしてあり、この心臓が飛び出しそうな急斜面を、とにかく一歩一歩慎重に、ユマールをセットしながら登っていくのだ。所々の雪面は、ブルーアイス状態になっていて非常に固い。そして、登っていくにつれだんだん頭が重く感じられ、また息苦しさも加わって、とにかくのろのろとした足どりで登高を続けていき、4900mのコルに着いたのがABCを出発してから4時間半後。(ヘッドウォールの中間地点で調子の悪いあっこさんが下山)当然、先行のB隊と別当さんの5人の姿はなく、この地点から一緒に荷上げするはずの共同装備を、負担させてしまった形となる。
 そして私は、この先ACキャンプまで辿り着く自信がなかったのだが、この日の天気は快晴で風もほとんどないといったベストコンディションの上、植村Lと相談の結果、高度順化の為にも行ける所まで行こうということになった。とりあえず一本入れて、ほとんどききめのなかった!?日焼け止めクリームを塗っていたつもりだったのだが、やけにベタベタするなあと思ってよく見たら、それはコンデンスミルクだった。周りにいた外人も驚く位植村Lと大爆笑してしまったが、今思えばこれも高度障害の一つだったのだと思う??。
 さて、この高度障害にもめげずにいざウェストバットレスへと足を踏みこんでいくが、ここからの細い稜線の登りは非常に非常につらかった。登る気力はあるのだが、一歩一歩が非常に重く、どうにもこうにも体が金縛り状態で上がらないのである。(別当さんが急に調子が悪くなり、ウェストバットレスの途中で下山していく)この登りでは高所登山の厳しさを十分に味わわせてもらったと思う。天気がよかったのが本当にラッキーであった。天気が悪かったらおそらく登れなかったであろう。後ろを歩く植村Lが、ずっと掛け声をかけてくれてそれで足を運んでいたといえる位、頭はボンヤリと意識は朦朧としたままだったように思える。途中、何度もここまででもう進めないとあきらめかけたり、「あと少しもう少し・・・・・・」と言われてもなかなか着かないACキャンプを恨めしく思いながらもそれでもどうにかこうにか、ふらふらになりながらあのACキャンプに到着。4900mのコルから約3時間半の登りだったが、何10時間も歩き続けた後のような疲労だった。この日のACキャンプは予想以上に各国のパーティーで賑わっていた。B隊の皆は、既に私達が途中で戻ってしまったと思っていて、デポも終え丁度ABCに帰る所であった。ここにいる皆が、なんでこんなに元気でいられるのだろうと不思議な気持ちだった。そして、ここから遥か遠くに感じられるガスのたなびく寒々しいデナリパスを見て、「まだまだ先は長く遠い!!」を痛切に実感する。
 ここからは、皆で一緒にABCに下山を開始したが、登る時は全然目に入らなかった、輝くばかりの白さのアラスカの山々と雲海のダイナミックなパノラマの景色が見渡せてやっと幸せな気分を味わえた。ABCのテントに到着したのが21時。私にとって皆に助けられての長く苦しい1回目のACキャンプへの道のりだった。
【鈴木】
 高度調整のために登ったが、体調が悪く、一人だけ下山。ダイアモックスを飲むが、あまり効果なく、手足に痺れを残す。
【菅原】
 少々くたびれた体にムチ打って、今日も高度順化と荷上げをする為に5200mまで登る。天気は上々、ひさびさ8人で行動をする。昨日のルートを4900m地点まで登り、デポ品を掘り起こしてザックに詰めこむ。コルより上は稜線となり、雪面はクラストしているのでアイゼンがしっかりと食いこむ。途中フィクスロープが張ってある岩稜となり先行パーティーが登っている為、冷こむ中待機する。いざ登ってみるとたいしたことはないが、高度があるので息が切れる。右下を見るとテント村がある4300m地点の雪原が広がっている。少々息苦しさを感じるころ5200mのACキャンプに達する。目の前は広い斜面になっておりこの上にマッキンリー山頂がそびえたっていると思うと寒さも忘れる。ここには10張近くのテントが設営され各パーティーは夕げタイムのようだ。
 吹きだまりに穴を掘りデポ品を埋め、体も冷えてきたので急いで下山をする。4900mまで下るととても暖かく感じられ、夜20時というのに天気は晴れ上がり、素晴らしい雲海の景色にしばし見とれる。日影になったヘッドウォールを慎重に下降し、ABCに着くころには足が棒になってしまった。
起床(8:00) ABC(11:45) → 4900m(14:45~15:40) → 5200m(18:00~18:45) → 4900m(19:35~20:00) → ABC(21:15) 就床(23:45)

6月30日(水) 曇のち雪
A・B両隊共ABCにて休養
【菅原】
 今日は休養日なので11時頃までシュラフの中でゴロゴロし焼そばを食べてからまたゴロゴロとする。このころになると会話も少なくなり、各自本を読んだり、水作りしたり、寝ていたりして過ごす。

7月1日(木) 晴のち曇のち雪
A・B両隊共ABCにて停滞
【鈴木】
 8時に起きて仕たくをするが、レンジャーが来て、前線が来るとの事。停滞。ブロックを高くする。
 上部は、悪天だろうか。かなりの人が下山してくる。テントサイトは、久々に混む。トイレの順番が大変。
 夜、11時頃からとても寒くなる。初めての寒さ。
【菅原】
 やはり今日も雪が降っている。レインジャーの情報によると2~3日は前線の通過で天気が悪化し風が強くなるとの事。我々も強風にそなえてブロック等を高くつみ、テント回りを補強した。
 明日もおそらく停滞かもしれないので、この際充分休養をとっておこうと思う。ハイキャンプからはぞくぞくと各パーティーが下ってきたので国際的なキャンプ村と化した。
起床(8:00) → 就床(23:15)

7月2日(金) 降雪
A・B両隊共ABCにて停滞
【鈴木】
 停滞。飯塚さんと二人で、レンジャーの所へ遊びに行く。彼らは、明日仲間5人と登ると言う。我々も、明日の午後には出発すると思う。でも天気はあまり良くない。マッキンリーはもう、秋風の季節との事。
【鈴木】
 今日はガスがかかり、視界はほとんどない。また雪もふっているが暖かいのが気になる。11時頃までシュラフにもぐりゴロゴロとし腹がへったので朝昼兼用の食事を作る。みんな無口である。日数が減ってきたので少々天気が悪くても、明日は5200mへ向かうと隊長より指示があり、またここ2~3日の降雪でラッセルも加わるので今日はゆっくり寛ぎながら英気を養っておく。
起床(11:00) → 就床(22:00)

7月3日(土) ガス/降雪 風やや強
ABC(4300m) → AC(5200m)
【飯塚】
 高度順化と荷上げの為に、ACキャンプ入りしてから4日後、いよいよアタック体勢にはいる為に再びACキャンプに向けて出発する日だ。この3日間レンジャーから「BAD WEATHER」を告げられて、何も行動できない停滞の生活にうんざりしかけていたので、隊員全員の逸る気持ちも大きくなっていたと思う。天気はガスっていて小雪まじりであったが、いつもの様にB隊が先行し、我々A隊も後に続く。この日は、ヘッドウォールを先行する外人パーティーの登高が非常に遅く、随分と待機させられたのだが、B隊はフィックスロープに取り付きながらの待機だったので、皆は手が凍傷になりそうだったとのこと。こうして待つ間にも、ACキャンプからの下山パーティーが、かなり多く通り過ぎていき、大半はピークを踏んだ人達らしく私達も「コングラチュレーション」の言葉をかけたり、「グッドラック」と言葉をかけられたり・・・。おそろいのウェアを着用した女性20人位の大パーティーやら、下りのヘッドウォールを雄叫びの様な声を発しながら、下降していく外人のおじさんやら、様々な人達がいた。そんな人々を見送りながら、我々A隊もゆっくりではあるが、4人共4900mのコルに着き、ウェストバットレスへと進んでいった。4900mのコルからは、この間の天気とはうって変わり、ガスっていた上に風も強く大変寒かったが、調子は皆割に良く、4人で歩調を合わせて登っていった。私も4日前に比べて体がさほど重く感じられなくなり、一歩一歩が出やすくなって、少しずつ高度順化うまくいっているような状態であった。途中、やはり明日ピークを目指すというレンジャー隊に抜かれたが、(彼らは驚く程速いペースで登る)A・B隊全員が、無事にACキャンプに入ることができた。ACキャンプに着いて早速テント設営にとりかかったのだが、なんとデポしておいたポールのゴムが、この異常な寒さの為伸びきってしまっていて、組み立てることができないのだ。結局、MSRの火力でその1本1本を暖めながら、ポールを組むことができたのだが、日本製(ICI)のテントでもこの寒さには対処できないのか・・・。それ程に、このACキャンプ(5200m)は寒いのだ。この日はテントの中でも皆羽毛服を着こみ、なぜかそれが嬉しくて写真などを撮りあったりする。そして簡単に食事を済ませ明日に備えて早めに就寝となった。
【鈴木】
 10時出発。雪。他のテントの連中も出発。ヘッドウォールのフィックスザイルは、大変な混み様。最後を別当、私、飯塚、植村の順でゆっくり登る。アイゼンはよくきくが、傾斜がきつい。下山者も結構いる。彼らは、山頂に立てたらしい。
 稜線に着いたのが、2時(?)頃だったかしら。時間は矢のように過ぎていくが、暗くならないため実感がない。
 ここまでスムーズだった私も、ここから先、リズムを崩し、悪戦苦闘。別当さん、飯塚さんには、見捨てられ、植村さんだけが付き合ってくれた。が、彼もかなり疲れている様子。私は、ゴーグルは曇るし、急に登りがつらくなる。イヤ気がさしてきた。
 視界が悪かったため、高度感はなかった。道は日本の岩稜帯と同じ。急な所にはフィックスザイルも有る。
 途中で、レンジャーたちが追い越していった。やはり、彼らは速い。
 4時頃ACに着く。すでにテントは、張ってあった。やはり、若さには勝てないね。
 夜、寒くてダウンジャケットを着る。まんまるの陽子チャンが、かわいい。いつも悪態をつく別当さんが静か? 植村さん一人が喋っている。
 明日、皆、山頂へ行けるといいね。 【菅原】
 毎朝恒例の大キジを行いに外へ出ると、天気は曇りぎみではあるが、なんとか登れそうである。しかし急いては事を為損じるのでしっかり天候判断をして昼すぎに出発する。私達より先に10数人のパーティーが登っていき、心配したラッセルもトレースが付いて楽に進めた。でもフィックスロープが張ってあるヘッドウォールの登りに不安がよぎった。
 案の定、先行パーティーの一人が動かなくなり、1時間30分も張り付けとなりおまけに風が吹きおろしてきた為寒いやら足が疲れるやらでコルに上がった時には、体中冷えきっていた。気を取り戻して風の中、スローペースで大きく深呼吸しながら稜線を上って行く。5200mに到着したのは19時すぎなのに明るい。出発が遅れても、白夜なので夜中でも心配なく歩けるので助かる。寒いので早くテントを設営しようと思うが高度が高い為息が切れる。またポールをつなげたゴムが凍って伸びきってしまいジョイントされない。バーナーで暖めてからポールをジョイントした。なんだかんだとシュラフに入ったのが0時を過ぎていた。息苦しさの為何度も目を覚ました。
起床(8:00) ABC(12:40) → 4900m(17:00~17:30) → 5200m(19:30) 就床(0:40)

7月4日(日) 晴のちガス デナリパス上部はガス/雪
5名 AC(5200m) → 頂上(6194m) → AC
1名 AC停滞
2名 AC → ABC(4300m)
【吉江】
 午前8時に起床。天気は晴れ。標高5200mもあるので、昨夜はかなり息苦しかった。高山病予防のために飲んだダイアモックスの副作用か、手足がジンジンとうずいて変な感覚である。
 体調のいい、金子・吉江と、植村・服部・飯塚でパーティーを組むことになり、10時40分に準備完了。出発。デナリパス(5550m)を目指し、急な雪壁をトラバースぎみに左上方に上がっていく。息がすぐに上がって動けなくなるので、肺が破裂しそうなぐらい大きく何度も吸う。
 デナリパスからは雪稜になり、広い雪原になる。だんだん天気が悪くなり、周りはガスがかかって何も見えなくなる。風も強くなり、とても寒い。
 赤い布が付いたポールが、だいたい30m間隔で立っており、それを目印に先へ進む。5人組みの外人パーティーと一緒になる。彼らも苦しそうである。
 午後4時50分、これ以上高い所がなくなった。とうとう頂上である。外人パーティーが嬉しそうに記念撮影をしている。我々も写真を撮る。あまりに寒いので、植村パーティーを待ってられないのですぐ下山をする。
 下山中に植村パーティーとすれ違う。かなり苦しそうである。
 7時20分にACに到着。長い長い一日であった。
【飯塚】
 今日は、いよいよマッキンリーの頂上にアタックの日。天気は割に良い方だ。朝から気持ちだけは高揚しているが、動作は鈍くなりなんとなくぎこちない。見上げるデナリパス上空の雲の動きが速い。きっと風が強いのだろう。
 (AM10:50)今日は、服部・飯塚・植村の順でザイルを組みACキャンプを出発。既に先行している金子・吉江の両隊員が、デナリパスへのトラバースにとりかかっているのが見える。太陽に近付いているせいか?とても眩しく感じられるあのデナリパスへと続く急斜面のトラバースを、我々もとにかく慎重に登っていく。しかし出だしの約300mの斜面は、かなり息苦しく息を大きく吸ったりはいたりしながらも、この息苦しさがとれることはなく、これからもずっと続くのであった。
 (PM1:50)デナリパス着。風はやっぱり強かった。そしてここからは岩稜帯のミックスされた稜線が続く。ここから先私は例の意識ボンヤリの状態が襲ってきて、トロトロした足取りになりながらも、だけどこの道のりは頂上へ続いているんだといい聞かせながらただひたすらに足を運んでいるといった状態。途中で、レンジャー3人組がまたもや追い越していくが、同じ日に同じピークを目指しているので、とても心強く感じる。しかし、4300mで長期に渡り生活している人間の、高度においての強さを見せつけられたように思う。時間が経ち、高度も確実に稼いではいるが、周りはガスに包まれ視界もきかなくなり、風も更に強くなってきた。途中、植村LがACキャンプの菅原隊員と交信。「頑張ってください」の言葉に励まされる。金子隊員との交信では、頂上付近でルートを迷っているらしいとのことで、植村Lは「後にスイス隊が続いているので、合流したらどうか」との指示を与えていた。先行している金子・吉江隊員のペースの速さに驚き、二人の状況が気になりつつ、我々三人もこのあまりにも広い雪原の道のりを、ただ黙々・・・黙々・・・と登っていく。とにかくマッキンリー登山は、風と寒さに負けずにただひたすらに登り続けるのみといった感じである。そして、唯一の目印になるアーチディコンズタワーという岩峰の辺りで、なんとあのレンジャー隊が引き返してきたのだ。「Are You Summit?」と聞くと「No」という返事。「ヒューヒュー」と、とても寒いという事を身振り手振りで教えてくれた。どうも天気があまり良くないので戻るらしいが、この地点でレンジャーが引き返していくなんて、不安がよぎる。この時点での、時間切れの事や天気の状況を植村Lも心配していた様だが、レンジャーの「頂上まであと500m」という言葉と「雪さえ降らなければぜったい行ける」との判断で、我々三人は再び意気揚々頑張りだした。そして、アーチディコンズタワーを回りこみ、ガスの切れたその一瞬の青空に写し出された、マッキンリー南峰の稜線上に、金子・吉江隊員、スイス人4人パーティーの姿が見えた時、なんていうかとても感動した。私もあの場所に立ちたいと思ったし、私達三人もきっと立てると思った。そして再びガスに包まれてしまったマッキンリーの手前6000m付近の広大な大雪原を進み、最後の雪壁の登り口で金子・吉江隊員に会う。二人共元気で、頂上を踏んできたとの事だが、この雪壁のラッセルがかなりきつかったらしく、ここからACキャンプに向けてすぐに引き返すとのこと。こんな所で別れるのは寂しいなあと思いながらも、下山していく二人の姿を見送る。なる程最後の200mの登りは、高度が低かったら問題ない程の膝下のラッセルなのだが、さすがに標高6000mでのこのラッセルはきつかった。ますます呼吸は乱れるし、風・寒さは一段と身に応えてくるし、ガスで何も見えない中、何歩か登ってはピッケルに縋って休む・・・そんなことを繰り返しながら登り続けた。この登りでは、途中から調子の悪い服部さんのペースもぐっと落ちてしまい、本当に具合が悪そうだったが、登る気力は凄かった。どれ位の時間が経ったのか、時計はほとんど見なかったし、時間の感覚もなかった。植村Lの「着いたぞー!」の声も消されてしまう位風は強かったが、その声で気づくとその場所が頂上だった。何も見えなくて、そこが頂上だという実感がすぐには涌かなかった。だけど、風が吹きすさび真白なガスに包まれたそこは、ずーと登りたいと願っていたマッキンリーの頂上だった。
 (PM6:50、気温マイナス23C)もうこれ以上登るところはない。植村L・飯塚・服部さんと続き、三人揃ってピークに立つことができたのだ。だけどやっぱり、あっこさん・菅原さん・別当さんとも一緒にこの山頂に立ちたかった。そんな思いも涌いてきて、三人の名前を雪面に記してみたりする。ほんの数分で風は増々強くなるばかりで、じっと立っていると体が凍ってしまいそうになる。三峰山岳会と日本の旗を持っての記念撮影を、本の写真で見るような頂上に立ちましたポーズをばっちり決め三人交代で行ない、この風に追いたてられる様に頂上を後にした。
 その後、噂通りのマッキンリーの冷たい風に打たれ続けながら、約3時間かけて、私はほとんどフラフラ状態でACキャンプに帰り着く。(PM9:40)
 とてつもなく長く長く感じられる一日ではあったが、こんな日はそしてこんな気持ちは、一生で何度も味わえないだろう。この遠い道のりを歩いてきてよかったと今、心から思う。三峰山岳会8人の隊員の仲間と、それを支えてくださった会員の皆さんに、深く感謝しています。
【服部】
 8時起床。天気は晴れ、デナリパスが左手上方によく見える。いよいよアタックである。天候待ちの巡り合わせで、アメリカ合衆国第217回目の独立記念日にこの国の最高峰に登ることになった。
 朝食はラーメン。まず10時過ぎ、金子=吉江組が一足先に出発する。続いて10時50分、服部=飯塚=植村のオーダーで出発する。
 結局、アタックは5名となり、3名はテントに残ることとなった。菅原氏は昨日から持病の通風が足の甲に出始めてしまい、この先酸素が平地の半分以下の高度(5500mで平地の半分)での長時間行動に症状悪化の懸念があるため、今朝自らテントキーパーを申し出た。アッコさんは体力の限界、別当君は高度順化がならず吐き気がひどい。三人とも「ここまで来たのに」という断腸の思いだろう。三人の無念な気持ちを思うとアタックする方としても複雑な心境だが、今はそんなことをしんみり考えている余裕などとても無く、何が何でも自分のために我武者羅に登るぞ!と思うだけだ。
 この5200mのキャンプ地から頂上(サウス・ピーク)までは標高差1000m、往復に要する行動時間は一般に約10時間と言われている。キャンプ地からデナリパスまでは高度差約350m。雪の急斜面をパスまで斜上する。本によると、このトラバースの下りでコケて事故るケースが多いそうだ。急斜面の下には大きなクレバスが口を開けている。
 少しでも急ぐと息が切れるので、リズムを保ちながらゆっくりと行く。トレースを忠実にたどりしばらくして振り返ると、見慣れない4人組が追ってきている。途中で休んでいると、彼らが追いついてきた。30代後半から40代くらいのスイスのオッサンパーティーで、4人とも両手にストックを突き、ものすごいパワーと速さだ。聞くと、なんと今朝早く4300mのベースキャンプから登ってきて、登頂してベースに戻るつもりだと言う。もっと低いところから2000mの標高差を一気に往復するというなら分かる話だが、4300mからとなると、これはもう舌を巻くしかない。全員の足並みから見て、山岳ガイドのようなプロ集団ではないかと思った。
 13時15分、デナリパスに到着。パスには東から西に風が吹き抜けており、風下に風を避けて行動食を摂っていると、レインジャーの二人パーティーが追いついてきた。彼らは岩陰でオオキジを撃つと、ノース・ピーク目指して登って行った。この行動食を摂った直後から、困ったことに、私は胃がむかつき気分が悪くなった。すぐさま、昨日食べたテリヤキビーフを思い出した。これはシアトルの税関で、持ち込みご法度の豚肉が混入しているという理由で取り上げられたジフィーズの中華丼の埋め合わせとしてアンカレッジで買ったものだが、食べてみると地球人の食物とは思えないような毒々しい有害化学合成攪拌ひねくりまわし味で、むりやり飲み込んで胃に収めたのであった。その直後就寝となったが、低酸素のうえに私は頭が幾分下がって寝たためか消化不良を起こしたらしく、夜中に胃がむかついて目が覚め、寝る向きを変えたのだった。この時はそれが原因だと思っていたが、後日考えるとそれも低酸素ゆえの高度障害で、元来胃が丈夫な方ではないのと睡眠不足、疲労の蓄積等が重なって起きたのではないかと思うようになった。ともかくこの時は「長丁場なのにこれは幸先悪くなったな」と思ったが、何が何でも登ってやるぞという気持ちは衰えなかった。14時、再び同じオーダーでアンザイレンし、パスを出発。
 デナリパスを境にして、天候は全く違っていた。パスの上は、幾分希釈されたようなガスが強い向かい風に乗って大きくうねり、流れていた。地形は、地図から想像していたよりもかなり急な斜面がまだまだ続いているようで、ちょっとうんざりする。見上げると、これまでの青い空から一転して白と灰色の空間のなかに、先程のスイスの4人組の後ろ姿と、その遥か先に先行する金子=吉江組と思しき影が、小さく見え隠れしていた。パスから少し登ると、パスの東側の低地に大きな最終アタック・キャンプの跡地が見下ろせた。しばらく誰も使っていないらしく、雪にすっかり均された跡地に、崩れて角がとれた防風壁が四方形に浮き出ていた。いつか死海のほとりで見た2千年前のローマ軍の駐屯地跡の土塁を、なぜか思い出す。やがてフィックスのある短い急斜面をあえぎ上ると、日本山岳会が設置し直したばかりの風力計を左に見る。入山のとき飛行機の離着陸地点であった人たちが作ったのがこれだろう。その先、アーチディコンズタワーと思しき岩峰が霞んで見えてきたあたりで、別のレインジャーの3人パーティーに追い越された。どうやらレインジャーたちは独立記念日のこの日、二手に分かれて南北両ピークに登るつもりらしい。彼らも息を大きくはずませているが、亀の歩みの我々に比べると狸のように速い。ところどころに立てられた目印のポールをつないで線路のように延びるトレースを伝って、彼らはみるみる間にアーチディコンズタワーの上りにかかっていった。本には、デナリ上部は大勢の登山者によって踏み固められたトレースが溝になっていると書いてあったが、それほどではない。顕著な目標のない広くひらけたところなので、ポールがなければ吹雪いている時は方向を見失いそうだ。
 ほんの100メートルが遥かな距離に感じられるような速度で、アーチディコンズタワーを上って行く。畳の大きさほどの岩が露出しているところの傍で、3人でツェルトを被って一本取る。こんなビニールで1枚でも、冷たい強風が遮られると暖かく感じる。飯塚さんと植村さんは行動食を口にするが、私は気分がむかついて全く受けつけず、テルモスの紅茶を何とか流し込む。シーバーを持っていた植村さんがどの辺りで先行の二人と連絡を取ったのか覚えていないが、この時既に彼らは頂上の稜線に達したと思われるもののガスの中で頂上が分からず迷っている状態で、後から追っているスイス隊を待って行動するよう植村さんが指示を出したように記憶している。
 暴れるツェルトをザックに収め出発するとすぐ、雪のマウンドを乗っ越してさっきのレインジャーたちが姿を現わした。頂上まではあと500メートル位だろうが、この先全く視界がないので引き返してきたと言う。「グッド・ラック」の言葉を残して、彼らはそのまま下山して行った。その『グッド・ラック』が効いたのだろうか、我々がその雪のマウンドを越えて下りにかかると、濃さを増していたガスが一瞬切れ、広い雪原の向こうに立ち上がったピークの稜線とその右肩の上に乗る何人かの人影が見えたのである。これで目指すべき方向が判った。そして幸いにも、間隔を置いて立てられているポールがガスの中でもうっすらと見えるようになったのである。まさにこのガスと風の気紛れな一瞬が、我々の『ラック』を決定したのだ。
 勢いづいた我々は、やや深くなった雪に足の取られるのももどかしく、灰色の風の中からぼんやりと姿を現わしてくるポールを頼りに雪原を直進して行った。そしてピークへの最後の上りの下に辿り着いたところで、駆け下りるように下山してきた吉江君と金子氏に行き遇った。「これを登ればもう頂上だ、頑張れ」と励ましてくれる二人の元気な足取りに驚かされる。
 この最後の上りは私にとって、これまでのどの頂上への上りよりも辛かった。未だに続く吐き気、食べられないことから来るバテ、体重をかける毎にずり下がる柔らかい足元の雪、切れる息。そして、行動食とテルモスとツェルトぐらいしか入っていないのにどうしようもなく重いザック。「もうこれ以上身体を上に持ち上げようとするのは止めにしよう」と誘惑する自分に、もうひとりの自分が「ここで音をあげたら男じゃない、止まるな、這ってでも登れ」と叱咤する。最初私は先頭で登っていたが、途中で順番を変わってもらって、二人のつけてくれた足跡を『何としてもピークに立つ』という一念で辿って行った。この上りにどの位時間がかかったかのか覚えていない。記憶にあるのは、ただ辛く、長く、殆ど気力だけで登ったということだけである。植村さんの「着いた!」という言葉を聞いて、最後は殆どザイルを引っ張られるようにして辿り着いた。特に深い感動はなかった。涙も出なかった。あったのは、『ようやく目的地に着いた』という坦々とした思いだけだった。これは自分でも意外だった。3人で握手を交わした。固い握手だった。時計の針は18時50分を指していた。
 頂上はガスって何も見えなかった。吹き抜ける強風が恐ろしく寒かった。植村さんのフィールドシスコムはマイナス23Cを表示していたが、気温×風力表で見れば体感温度はマイナス40C位だったろう。3人で交代で写真を撮った。シャッターを押すためにアンダーグローブだけになった手は、直ぐさま感覚がなくなった。
 19時、寒いだけの頂上は、早々に辞退する。今朝までは、全ての山を見下ろして陽の当たる頂上でゆっくりしたいなどと考えていたが、そんな夢は消え失せた。ま、現実はこんなもんだ、と思うしかない。帰りは植村=飯塚=服部のオーダーで下る。下りは速かった。上りの遅さが嘘のようにどんどん足が前に出る。重力は全く有り難い、としみじみ思った。アーチディコンズタワーまでの雪原は、往きよりも幾分視界がきいた。再び行く手にぼうっと現われてくるポールの列を伝いながら行くと、向こうからエドとジェフの二人がやって来た。思わぬ嬉しい出会いに、テルモスの烏龍茶チョコを振舞う。頂上まではあと数百メートルの距離だと告げ、「グッド・ラック」と言って別れた。
 アーチディコンズタワーを過ぎると、時折ガスが切れてデナリパスの北側の山が見えた。日本山岳会の風力計の写真を撮りたいと植村さんが言うので、風力計のところで一本取る。組んだ金属の支柱に何本もワイヤーを張ってがっちり作ってある。凄まじい風に計測の部品が吹き飛ばされてしまうため毎年作り直しているという話だったが、ここに来てみればさもありなんと思える。
 デナリパスまで下りて小休憩ののち20時45分、トラバースの下りにかかる。ここでコケたら悪くするとクレバスに飲み込まれてしまわないとも限らないので、緊張する。何とか無事トラバースをクリアして安全なところに下り立ち、ホッとする。そこからテントまでの緩やかな上りは、長かった。テント帰着21時40分。約11時間の行動だった。
 テントに戻ってみると、別当君の状態が悪化したのでアッコさんが付き添って一足先に下りたとのことで、B隊のテントの中で菅原氏と先に帰った金子氏、吉江君の3名がお茶を沸かして待っていてくれた。帰路は殆ど気力で下ってきたような私は、疲れと吐き気で何をするのももどかしく、テントの外でお茶を一口飲んで、そのままA隊のテントに倒れこんだ。そして直ぐさま吐き気を覚え、テントから這いずり出て吐いた。胃は殆ど空で、胃液と消化しきれていなかったチョコ等で雪が汚れた。私は心配してくれる皆の好意に甘え、そのままA隊のテントで少し暖まってから、向こうのテントから持ってきてもらったシュラフに入って寝た。飯塚さんと植村さんが元気に作る夕食のにおいが鼻について弱ったが、そのうちに眠ってしまった。
【鈴木】
 別当さんと私、二人だけ下降。
 昨夜は寒かった。山に入ってから初めての寒さだった。
 今朝は、少し頭痛がするくらいで、食欲もある。でも、別当さんは元気がない。高山病が出たらしい。昨日、私が随分迷惑かけたから、申し訳ない気がする。
 これから先行けそうな気がするが、10時間行程は、今の私には辛い。皆が帰って来るまで、一人で散策に出かけようと、12時頃?彼らを見送った。
 結局残ったのは、痛風の菅原さんと別当さんと、私。
 菅原さんは、ひたすら寝ていた。
 2時頃、別当さんが「下りたい」と言うので、菅原さんがラーメンとお茶を作ってくれている間にパッキングを済ませ、私と菅原さんでラーメンを食べる。別当さんは、本当に気分が悪そう。
 3時の交信後、二人で下山する。視界が悪く、道に迷ったりしたが、ABCに6時半に着いた。
 軽く食事を取ったが、彼はもどしてしまった。体調は悪そうだ。

7月5日(月) ガス/雪
6名AC(5200m) → ABC(4300m)
2名ABCにて停滞
【吉江】
 午前9時起床。しっかり飯を食い、ゆっくり準備をして、午後1時にACを出発する。重い重い荷物を背負って、何度も往復した雪稜を下山する。4時にABCに到着。別当氏と鈴木(章)さんが待っていてくれた。雪も降っているので今日はここまでとする。
【服部】
 9時起床。すっきりとは晴れていないが、キャンプ地の周辺は視界がきいた。私の吐き気は昨夜と全く変わらず、何も口に入らない。再び胃の腑を吐き出したくなるような吐き気を覚え、防風壁の外で吐く。当然何も出ない。撤収前に幕場裏の雪の斜面を少し上って、アタックキャンプを写真に収める。
 13時10分、撤収を終え出発。金子=吉江=菅原、植村=飯塚=服部のオーダーで行く。エドとジェフは無事に戻っており、テントの外で食事をしていた。彼らはあれからピークを踏んですぐに引き返したが、デナリパスからの下りのトラバースにかかる頃にはすっかり薄暗くなってしまい、目の悪いエドは濃い度付きサングラスをしていたため足元がよく見えず、ジェフにゆっくりリードしてもらいながらひやひやもんで帰幕したと語っていた。
 天気は下るに従ってガスと雪が混じるようになった。私はきのうデナリパスに上がって以来何も食べていないのでパワーが出ず、やっとの思いで4900メートルのヘッドウォール上部まで下った。金子=吉江=菅原組はその時点でもうフィックスを下り切っているのが見えた。大休止を取り、気を引き締めてフィックスの下りにかかる。ここでコケたらやばいと思いつつフィックスにカラビナを掛けた。何とか無事フィックスを下りきり、大きく口を開けたクレバスを捲いてつけられたトラバースの途中で一本入れる。それから更に下ってABCの200メートル手前程上まで来たとき、テントが見え安全圏に入ったという安心感もあってか、私はとうとう燃料切れを起こし座りこんでしまった。ザイルを外し、飯塚さんと植村さんには先に行ってもらう。雪の斜面でABCを見下ろしながらバッテリーが回復してくるのを待って、私はゆっくりとテントに下りて行った。16時50分、ABC着。吐き気がひどく昨日先にくだっていた別当君は、もうすっかり回復していて安心する。
 テントに入ってゆっくりしてから、私はレインジャー・ステーションにドクターを訪ねた。医薬品のキットに胃痛薬は入れてなかったからである。ドクターたちは親切に迎えてくれ、まずサミッターになったことを祝福してくれたあと、血中酸素濃度を調べ詳しく症状を聞き、小さな白い錠剤をくれた。そしてまだ夕食が摂れないようならもう一度訪ねてくるように言ってくれた。その錠剤のお陰で、しばらくして私は症状が回復に向かい、夜には軽く夕食を摂れるまでに良くなった。具合が悪くなった間中ずっと心配し面倒をみてくれたみんなには大変感謝している。そして名前を聞くのは逸してしまったが、快く診断してくれたボランティアのドクターの笑顔は忘れられない。(感激したことには、翌朝ドクターは様子を見に我々のテントを訪ねてくれたのである。)
【鈴木】
 8時起床。朝食を済ませ、ひたすら登頂隊を待つ。二人共、下山の準備は完了。
 だが、彼らが来たのは16時半。本日、ここに泊。テントを張り直す。

7月6日(火) 雪/ガス
ABC(4300m) → BC(3300m)デポ回収 → RC4(2700m)
【鈴木】
 ABC~BCまでの下山は、苦痛だった。
 視界10メートル、雪。別当、私、飯塚、植村の順で出発。微かに見えるポールをたよりに、ラッセル。別当さんの膝までのラッセル。私は、とても辛かった。それにRC3あたりは、様子が登りの時とはまったく変わっていた。登りに通った所は全てクレバスになっていて、別当さんと私は、小さなクレバスに落ちてしまった。ウィンディーコーナーに入ってからは、ソリが暴走。私と飯塚さんは、泣きたくなっていた。唯一人、ソリを引いていない植村さんが、最後部でうるさい。それなら代りに引いてくれればいいのに!
 BCでデポ品とスキーを回収。テントが6張あった。彼らは上に行くと言う。
 ここで菅原隊(B隊)を待つ。雪もかなり降ってきた。
 別当と私、植村と飯塚のコンビで出発。
 これから先、なぜか、別当さんと私のコンビは調子が良い。
 視界は悪いけど、なぜかポールの見えるアキチャン。スキーはヘタだけど、力で進む別チャン。ザイルの重さが苦痛だけれど、下山のスピードはどんどん上がって行く。
 他の仲間が、どんどん小さくなって行く。私は、帰れるのがうれしかった。
 RC1の少し手前で幕を張る。ここまで来ると、雪もやみトレースもはっきりして視界も良い。夕方、8時頃だったと思う。
 外気が冷たく感じた。
【吉江】
 午前8時起床。11時20分下山。雪が降っておりクレバスも雪で隠れてしまっている。重い荷物を積んだソリを腰で引っ張る。BCに午後1時20分に到着。スキーとデポした食糧、ガソリンを掘り出す。
 雪はシンシン降っており、アンザイレンしながら、ソリを腰に付けてスキーで下山。ソリに衝突され、転び、ザイルに絡み、転び、全然快適ではなかった。
 午後8時、みんな疲れたので2700m地点で設営。

7月7日(水) ピーカン
RC4(2700m) → LP(2200m) → タルキートナ
【鈴木】
 快晴、10時出発。今日は、私と別当さんの順で出発。雪が、朝日にキラキラ輝いて、御伽噺の世界にいるみたい。
 我々二人は、快調に下山。少しの滑りを楽しみ、クレバスのブルーに感激して、キラキラ輝く太陽が熱くて熱くて、別当さんは、かりん糖より黒い。
 最後の登りは、お互いザイルをはずし、自由行動。私は、セスナに向かって頑張る。王様のイス(LPにあるトイレ、ここのトイレが一番高いのですが)が、近づいてくる。
 私は、ブッチギリでゴール。別当さんを待つ事、20分。ゴールにテープがなかったのが残念。
 LPには、一般登山者のテントは一張りもなかった。無線小屋も、明日で終わりとの事。
 菅原さんたちを待つ事、3時間。デポしておいた、厚さセンチ、長さ17センチのステーキも食べあきていた。
 この日のうちに、全員、セスナでタルキートナへ帰る事が出来た。
【吉江】
 ようやく天気も良くなって快晴。8時起床、11時20分出発。スキーで転げ回っているうちに傾斜もなくなり楽になる。黙々と歩いて午後5時30分、LPに到着。ビールとステーキで下山を祝う。午後9時、セスナ機でタルキートナの町に戻る。

7月8日(木) ピーカン
タルキートナ滞在/K2社バンクハウス泊
【服部】
 昨夜はみんな久しぶりでシャワーを浴びてさっぱりし、今朝はゆっくりと寝ている。私は8時に起き外に出ると、すばらしく晴れ上がった青空だ。植村さんがマッキンリーがきれいに見えてると言うので、カメラを持って一緒に河原へ行ってみる。広い流れの遥か向こう、タイガの樹海上に連なる山並から白い巨人峰が三座、紺青の空に突き出ていた。左からフォーレイカー、ハンター、マッキンリーである。やはりマッキンリーがダントツに高く、マスもでかい。
 バンクハウスに帰って朝飯を食い、午前中は装備を何もかも全部広げて干す。あまりに陽射しが暖かく気持ち良いのでついに人間も干す。私は何人かに絵ハガキを書いた。
 午後、皆でパッキング。忙しくガムテープを巻いていると、近くのモーターホーム(バスのようにでかいキャンピングカー)のおっさんがやってきて、今朝マッキンリー上空を遊覧飛行したら見渡す限り雲のない実にすばらしい景色だったと感激げに話す。こういう日は1年に何日もないらしい。今日頂上に行った奴らは運がいい。夕食は残った食料をふんだんに使って豪華にやる。
 夜、バンクハウスの食堂でうだうだしていると、メアリーとキャロルというミネソタの中学の先生がシャワーを使わせてくれとやってきた。シャワー後彼女らに誘われて吉江君、別ちゃん、陽子ちゃんと私でフェアヴューインという酒場へ行く。ここは西部劇に出てくるような古い店で、1階が酒場、2階が宿になっており、酒場にはバイク野郎やナイフ野郎、釣り野郎や山屋野郎などなぜか全面的に野郎がつく純正アメリカ田舎培養風のあんちゃんらがたむろし、ガナリ声とジューク音楽とモクの煙の隙間にワイルドな気配が濃厚に漂っているのであった。美人のメアリーとキャロルで勢いのついた我々は、気後れしてスキを見せぬようニヒル眼とビールジョッキで完全武装し、ポテトチップとピーナツをボリバリ喰らう。われわれはそこで夜を徹して国際親善に努め、ふたたび明るさが増し始めた午前3時、草木も眠らぬ白夜のカントリータウンをぷらぷらとねぐらへ引き上げたのである。

7月9日(金) 晴れ
タルキートナ → アンカレッジ
【服部】
 午前中パッキングの残りを片付ける。メアリーとキャロルと11時にロードハウスという食堂で落ち合って飯を食う約束があったので時間通り皆で出掛けるが、彼女らが来たのは12時頃だった。ちょっと腹が立ったが美人なので皆何も言わず笑って許す。外交的見地からすると良くない傾向である。日本は世界の一流国の仲間入りをしたのだから、言うべき時には言わねばならぬ。それがオトナの付合いというものだ、と新聞に書いてあった。しかし文句を言おうにも言い方が分からないという問題もある。
 午後は出発まで時間があるので、思いおもいに街を見物したり土産物屋をみてまわったりする。小さな博物館があったので入ってみると、タルキートナ開拓時代の写真やら民具などの他にマッキンリーの登山史に残る足跡を紹介する部屋もあり、その一角に冬期単独初登頂を果たしそのまま消息を絶った植村直己さんも紹介されていた。偉業を為した植村さんを同じ日本人として誇らしく思うと同時に悔しくもあり、複雑な思いであった。大きなマッキンリーの模型もあって、改めてこの巨人峰の形がよく解った。
 アンカレッジへはアラスカ鉄道で行く。この町を通る列車は1日に上り下り1本ずつ。「それしか無いの!」と驚いたら、「これは多い方よ、冬なんか週に1本よ」と謂われ言葉が出ない。5時頃来るだろうという列車に間に合うよう、えっちらおっちら停車場まで荷物を運ぶ。ホームなどという洒落たものは無く、軌道脇の地面にいきなりバス停風の覆いつきベンチがこしらえてあるだけだ。
 5時頃汽笛の音とともにディーゼル機関車2輌に牽引された列車が現われた。2階建ての展望車輌が長く連なっている。荷物を貨車の係員に渡して、我々はラッキーにも2階の展望室に入れられた。客席は満席で、2階の展望室は1階客室から交替で上がって景色を楽しむようになっている。次の人のために席を譲ってくれるようにとのステッカーがシートの前に貼ってある。真っ黒なボロボロ顔の8人がぞろぞろ入って行くと、すぐに好奇心旺盛なおじさんやおばさんに囲まれ質問攻めに合う。マッキンリーに登頂したと言うと、まるでヒーロー扱いされてしまった。欧米と日本ではアドベンチャーに対する社会的な認識や評価がまったく違うということは話には聞いていたが、これほどとは思わなかった。ヒーロー気分というのはイイもんだ。
 車よりゆっくりゆっくり3時間半くらいかけて列車の旅を楽しみ、アンカレッジに着く。駅から電話してインターナショナル・ホステルというところにベッドを確保する。タクシーで駅から5分、往に泊ったインレット・インのすぐ近くだった。宿に荷物を置き、みんなでダウンタウンのレストランでサーモン・ステーキを食す。いつも食ってる鮭の切り身の5倍~8倍はあろうかという厚さに、一同感激。

7月10日(土) 晴れ
アンカレッジ滞在
【服部】
 朝、少々遅く起きだし、待望のマクドナルドへ行く。待望の、というのは、4300mのABCで停滞中よく聴いた吉江君のラジオでマクドナルドのCMが流れていて、何でもアラスカ州のマクドナルドだけのスペシャルティー、その名もマッキンリー・マックというのがあると盛んに言っていたので、そのマッキンリーに登っている身としては下山したら是非とも喰ってみねばとヒソカに思っていたのである。このマッキンリー・マックというのはセットメニューになっていて、ポテトのL(ほんとにデカイ)とドリンクのM(日本のLよりずっと大きい)の組み合わせで5ドル何10セントかであったが、その本体というのは4重のパンの間に3重のパテが挟まっている、つまり3重の塔構造のハンバーガーであり、その商品コピーは THE TALLEST BURGER IN THE WORLD というものであった。直径約10cm、全高15~6cm。ネーミングとキャッチコピーは気に入ったが、その実態は1回喰ったら1ヶ月バーガーは見たくないという代物であった。
 朝食後午前中は各自ダウンタウンでみやげ物をさがして歩く。インターナショナル・ホステルは今日は予約で満杯なので、空港寄りのスペナード・ホステルというところへ移る。昼過ぎ、インターナショナル・ホステルの親切なおばちゃんがでかいバンで送ってくれた。スペナード・ホステルは静かな住宅地にあった。荷物を降ろし、これからREIへ行くつもりだと言うと、おばちゃんは方向違いにもかかわらず店まで乗せていってくれた。
 REIは往の買出しの時にも寄ったので2度目である。その他に『地球の歩き方』にでていたもう一軒のアウトドアの店や雑貨スーパーを物色し、ケンタッキー・フライドチキンへ行く。食事はやはり日本で見慣れたところへ足が向く。レストランへ入るとわけの分からない料理にみんな面食らってしまうし、取り次ぐ私も注文の段階で疲れてしまう。ケンタッキーではクリスピーとかいうトリ肉にアーモンド片がまぶしてある新発売の変わったのを食べた。その後再びREIへ行き、念を入れて物色を続行する。
 その後は二手に別れて別行動を取った。私は植村さん、別ちゃん、アッコさん、陽子ちゃんとダウンタウンへ行き、日本語OKという小さな旅行代理店を訪ねた。あす丸一日時間があるのでどこか適当なところでアラスカの大きな自然を楽しみたいと思ったからである。その旅行者にはアメリカ擦れした日本人のねちゃんがいて、あちこち電話した結果、スワードという港町へ行きフィヨルドのクルーズをすることに決める。その後再びおもしろいおみやげ探しに精を出す。
 スペナード・ホステルに帰り、何人かと連れ立って近くのコンビニへ行く。コンビニでは酒も売っているのだが、年令規制が厳しいのか酒の売場は入口が別で店内で仕切られている。酒もタバコも自動販売機で子供でも手に入る日本とは大違いだ。こちらでは道徳は金儲けに優先するというわけか。植村さんがコンビニ前の公衆電話から田原会長にコレクトコールを掛け、成田でのピックアップを頼む。
 就寝前、開けっ放しの窓から入り込んでいた蚊どもを念入りにたたきつぶす。タルキートナの蚊よりこちらの方が擦れていて戦いも容易ではない。

7月11日(日) ピーカン
自由行動/アンカレッジ滞在
【服部】
 9時にスティーヴというあんちゃんのガイドが迎えにきて、5名は彼の赤いアメ車でスワードへ行く。(金子氏、菅原氏、吉江君の3名の行動については私は把握していない。)スワードはアンカレッジから車で南へ3時間、半島を越えたアラスカ湾側のフィヨルドの奥にある港町だ。アラスカ鉄道の昔の起点でもある。アンカレッジ郊外では道端や山腹の至る所にファイアーウィードと呼ばれる赤い花が咲いていて印象的だった。この花は非常に役立つ植物で、昔原住民たちが薬草にするなどしていたという話だ。
 スワードで全長20メートルくらいのクルーザーに乗る。4~5人のアメリカ人客と乗り合わせた。クルーザーやヨット、漁船などがびっしり並ぶ港の中にアザラシが泳いでいたのには驚いた。処理場から出る魚屑を狙って集まってくるのだという。港の外に出ると紺碧の波間にラッコやピエロみたいな顔のパフィン(ツノメドリ)が浮いていたり、小さなシャチがクルーザーに伴走したりする。細長い(と言っても幅は何キロもあるが)フィヨルドの両側には氷河を抱く美しい山並が続き、ところどころ小さな湾にポツンと釣りのクルーザーが停泊している。1時間ほど走ってフィヨルドの入口に到着。そそり立つ島の岩礁によると、アシカの小さな群があった。怠惰なかんじに皆寝そべっている。本人たちはべつに怠惰だとは思っていなのだろうが、そう印象を与えてしまうところが誰かに似て哀しい。近寄ると我々を警戒してか、おかしな声を上げる。なぜか非常ななつかしさを覚えたと、後に陽子ちゃんは感想を語っていた。そこから反転し、再び美しい景色をポカンと眺めながら港へ帰った。
 港で魚の処理場を見、立ち食いのホットドッグをかじって再び車でアンカレッジへ戻る。途中あちこちの小さな川辺でオートキャンプをしながら魚釣りを楽しんでいる姿を見かけた。スティーヴに宿に一度寄ってもらって支払いを済ませ、その足でダウンタウンまで送ってもらう。実は今日はこれからヤマヤという海産物屋で別行動の3人と落ち合って打ち上げのカニパーティーをやるのだ。ヤマヤというのは移住して30年という元日本人のおばちゃんの店で、主に観光客相手に冷凍のカニやら鮭を売っている。どういういきさつでこの店でパーティーをやることになったのか私は詳しくは知らないが、とにかくそのおばちゃんがご飯を炊いてくれ、お手製の肉ジャガやら自分で山から採ってきたという山菜の煮付けなども出してくれ、時間に合わせて解凍しておいてくれたでかいカニや新鮮な鮭の刺身やプリプリ甘エビなどを一同おしゃべりの寸陰を惜しんでムシャブリ喰ったのであった。全員カニを腹いっぱい食らうなどという贅沢は日本に帰ったらもう一生できないだろうと思いつつ、殻を割る手に生きる悦びを実感しながら悶絶と至福のひとときをじっくりと味わいたいなと思う割りには結構せわしなく咀嚼にいそしんだのであった。

7月12日(月) 晴れ
帰国/アンカレッジ → シアトル → 成田
【服部】
 5時起床。6時に来るはずのタクシーがなかなか来ず焦る。昨日ヤマヤへ行く前に宿のおばちゃんがタクシーの手配を引き受けてくれたので安心していたのだが、彼女は忘れていたのだ。あわててタクシーを呼んで空港カウンターへ駆け込む。ノースウェスト航空の係員に文句を言われながらもギリチョンでセーフ。急いでいたので預入れ荷物に手荷物も含めてしまい、もはや変更の時間もなく超過料金を取られてしまった。
 7時5分あわただしく機上の人ビトとなり、約3時間飛んでシアトル現地時間11時15分着。この前と同じく、乗り継ぎまでの時間を空港内で過ごす。12時半頃服部は皆と別れてトロントの妹夫婦のところへ向かう。個人的には、添乗員の役割をやっと終えやれやれと思った。7人はその後なんとか昼食を食い、予定通り14時55分発のノースウェスト便で成田へ向け帰国の途についた。成田に日本時間7月13日17時着。


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