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マッキンリーを振り返って
服部 寛之

 私が初めてマッキンリーを眺めたのは、1975年6月の下旬だった。マッキンリーが見えるとの機長のアナウンスに左側の窓をのぞくと、広漠たる雲海の彼方に白い孤峰が聳えていた。
 2度目は1987年8月、ヨーロッパ・アルプスへ向かう途上、翼下に見た。
 いずれの時も遥かな山であった。登るなど夢想だにしなかった山であった。その山のピークに自分が立ったとは、何という運命の巡り合わせか、今だに信じ難い思いである。
 今回の遠征に際しては、経済的精神的に様々な支援を与え気持ち良く送りだしてくれた三峰会員の皆さんに、まずお礼を申上げたい。歓送会を開いて戴いたのみならず大勢の方々がわざわざ成田まで見送りに来てくださったときには、本当に感激した。三峰という母体があったからこそ実現できた山であった。
 そして何よりも、私と一緒に登ってくれた7人の仲間一人ひとりに感謝したい。ABC入りの際低体温症で動けなくなった時、停滞のテントで足に火傷を負った時、アタックから戻って具合が悪くなった時、述べてくれた皆の手の温かさは忘れられない。殊に、入下山に際してザイルを分かち、同じテントで甲斐甲斐しく動いてくれた吉江君には大変感謝している。
 登山前、マッキンリー山、またの名を土地の先住民の言葉で"デナリ"-『高き者』は、我々の前に多難な前途を覚悟させる巨人峰として聳えていた。今日この山には20を超える登頂ルートが開かれているが、その中でも最も一般的で容易とされるウェスト・バットレス・ルートを登ってみたところでは、人並みの体力があり高度順化がうまく行きさえすれば誰にでも登れる山だ、という感想を我々全員が抱いたのではないかと思う。私も下山後しばらくの間そう考えていた。
 技術的には確かにそうだ。ウェスト・バットレスは特に難しい登攀技術を要求されるルートではない。日本の冬の3千メートルを登れるなら、技能的には充分だと言える。だが、そうした感想は結果論であることを忘れてはならないだろう。
 今回の遠征で私が痛感したことは、登山の成否の半分は『運』であるということと、現代の登山装備と交通手段に生かされている科学技術の至便さ、そして円に反映されている日本の経済力のありがたさであった。
 入山中悪天候にもデナリ名物の強風にも殆ど悩ませられず雪崩やクレバス事故にも遭遇しなかったのは、単に我々の『運』が良かったためだ。強風にテントを持って行かれたスウェーデンのパーティー、頂上を目前にしてガスに視界を閉ざされたレインジャー・パーティー、どちらも技量的には我々を上回っていた。入山者の約50パーセントという平均登頂率も、その大きな部分は天候にまつわる『運』が占めているに違いないと思う。
 装備の面でも恩恵は大きかった。軽く居住性に優れ強風に耐えるテント、軽量でメインテナンスの容易なプラブーツ、暖かく蒸れないウェア。ヒマラヤで実証済みのこれら装備が大した資金も要せず全て東京で手に入るのである。
 そして、広大なタイガや長大な氷河を僅か半時間で越えてしまうセスナによるアプローチ。夏期ルートの中核となる台地にレインジャーが常駐しイザとなればヘリが飛ぶ救助体制は、我々登山者の心理に大きな安心感を与えてくれるものだった。
 さらには、経済的物質的に豊かになった現代の日本に生まれ育ったという幸運。一介のサラリーマンや学生にすぎない我々が生活に大した犠牲も払わず何千キロもの海の彼方の大陸の山に遊びに行けたのも、偏に日本の経済力のお陰である。一昔前の日本であったなら、教育でさえ満足に行届かない東南アジアやアフリカ、中南米の国々であったなら、こんな遊びは全く不可能に近いことであったろう。
 我々のマッキンリーには、こうしたことが全て重なっていた。こういう巡り合わせを『幸運』と呼ばずして何と呼んだら良いのだろう。参加したメンバー一人ひとりの人生にとってエポック・メーキングとなったであろうこの経験が、この先自分にはどのような意味を持ってくるのか? その答は将来、この登山を振り返る折々に出ていることであろう。楽しみであり、そしてまた怖いことでもある。


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