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ヨーロッパ山行日記
井上 博之

期間 1987年8月2日~24日

はじめに

 1987年の夏に私は、グロスグロックナー(オーストリア)、ダハシュタイン(オーストリア)、ツーク・シュピッツェ(ドイツ)などのチロル地方の山(縦走)とトレ・チマ(イタリア・岩壁登攀)を登るために約3週間の旅をした。殆どが一人旅であった。当時私は既に53才になっており、初めての海外登山でしかも単独であった為に、危惧をする人も多かったけれども、幸い無事に所期の目的を果たすことが出来た。単独山行のための危険や困難もあったが、一人でなくてはむずかしいスケジュールの消化が出来たし、一人ならでは得られない、多くの喜びや楽しみがあった。振り返って見て、本当に行って良かったと思う。60年近くのこれまでの人生には高揚、沈滞、自信、落胆、明、暗、といろいろあったが、そのなかで、この山行は間違いなく充実した輝ける部分になるものと思う。
 当時大学を留年して、ロッククライミングをするためにユーゴスラビアに長期滞在していた赤沼君を誘って、イタリアのドロミテ山群にあるチマ・グランデ3峰(約800mの垂壁登攀)とベルニナ山群にあるピッツ・ベルニナ(4055m)を攀る計画は以前から進めていた。
 約3週間の休暇中に、この二つの山以外にも出来るだけ多く登ってみたい、という希望をわが三峰山岳会の田原さん(現会長)に先ず相談をした。彼は以前登山を目的としてヨーロッパに住んでいた経験があり、あちらの山に精通していると聞いていたが、さすがに詳しく、即座に私に合った(?)スケジュールを親身になって作ってくれた。(いまから考えると、かなりハードなものではあった)田原さんの助言は微に入り細にわたるもので、貴重な現地の地図のコピーから、山のルートは勿論のこと、列車やバスの便の説明、ショッピングのアドバイスに宿の紹介までしてもらった。その時は他に選択の余地も無く、ただ有り難く承ったものだが、これがいかに素晴らしいものであったかは、後に証明されることになった。この得難い体験が出来たのは偏に田原さんのご協力による所が多い。それが無かったら、もっと中身の薄い山行になっていたに違いない。また、この経験が無かったら、その後の二度にわたる7千メートル級峰への挑戦もなかったかもしれない。ここに改めて田原さんのご厚意に御礼申し上げたい。
 スケジュールは添付の表の通りであった。ピッツ・ベルニナは日程が少し遅れたために予備日が不足したことと、装備が不十分である上に、天候が不順であった為に残念ながら登山を断念した。
 早いものであれからもう6年以上になる。記憶もだんだんと薄れている。だが、旅行中毎日付けていたボロボロのメモ帳のなぐり書きを判読しながら、山行日記としてこれをまとめていると、あの時の感動が昨日の出来事のように蘇って来た。事情が許せば、もう一度同じルートを辿ってみたいとさえ思う。勿論同じ人がそこに居る筈は無く、同じ場所へ行っても同じことが起きる可能性はまず無いのだが、何故か、また同じことが経験できるような気がしてならない。
 冗長になって、読みづらいかもしれないが、なるべくメモ書きに忠実に、そのまま転記するようにした。そのほうが、その時の状況や私の心境が分かり易いし、記録としての意味もあろうと思ったからである。拙文ではあるが、少しでもどなたかの今後のヨーロッパ山行のお役に立てれば大変うれしく思う。

1987年8月ヨーロッパ登山行 当初予定表(実際とは多少相違あり)
  宿泊所
2日成田発 
3日 チューリッヒ - ZURICH FLUGHAFEN - MARGRETHEN - GREGENE - LINDAU - MUNCHEN - GARMISCH GARMISCH
4日 PARTENKIRCHEN - <バス> - EIBSEE - ZUSPITZ(2,962m) GARMISCH
5日 MITTENWALD - INNSBURCK(山道具) - <ロープウェイ> - HAFELEKAR(2,334m) INNSBURCK
6日 KUFSTEIN - <徒歩約5時間> - STRIPSEN JOCH(1,577m)[KEISER山群] STRIPSEN山小屋
7日 BRIXEN IN THALE 弘子さん宅
8日 MITTERSIL - <鉄道> - FURTH KAPRUN STRKRZ - <徒歩約1時間> - GLETSCHER BAHNEN 登山電車終点のロッジ
9日 KITZSTEIN HORN(2,203m) - ZELL AM SEE(757m) - <バス> - HOCHALPENSTRASSEN HOCHALPENSTRASSEN
10日 GROSSGLOCKNER HOCHALPENSTRASSEN
11日 GROSSGLOCKNER HOCHALPENSTRASSEN
12日 ZELL AM SEE - SALZBURG SALZBURG
13日 BERCHTESGADEN - <バス> - KONIGS SEE - WATZMANN(2,713m) SALZBURG
14日 KRIPPEN STEIN BAD ISCHL
15日 DACHSTEIN 山小屋
16日 BADGASTEIN温泉 BADGASTEIN
17日 BADGASTEIN BADGASTEIN
18日 LIENZ - INNICHEN - CORTINA D'AMPEZZO CORTINA
19日 CIMA GRANDE 山小屋
20日 CIMA GRANDE 山小屋
21日 CIMA GRANDE ST.MORITZ
22日 PZO BERNINA 山小屋
23日 PZO BERNINA ST.MORITZ
24日 チューリッヒ - 東京  
1987年8月ヨーロッパ山行 行動日程
  宿泊所
2日 成田発 
3日 チューリッヒ - GARMISCH - PARTENKIRCHEN PANORAMA
4日 PARTENKIRCHEN - <バス> - EIBSEE - SCHNEFERNER KOPF(2,874m) - ZUGSPITZE(2,962m) - EIBSEE - GARMISCH - PARTENKIRCHEN PANORAMA
5日 MITTENWALD - INNSBRUCK - HAFELEKAR(2,334m) - INNSBRUCK PENSION
6日 KUFSTEIN - STRIPSEN JOCH(1,577m) STRIPSEN JOCH HAUS
7日 ST.JOHANN - BRIXEN 弘子さん宅
8日 MITTERSIL - FURTH KAPRUN - MOISKOGEL - GLETSCHER BAHNEN GLETSCHER BAHNEN KAPRUN AG
9日 KITZSTEIN HORN(3,203m) - ZELL AM SEE - FRANTS JOSEPH FRANTS JOSEPH HOHE
10日 OBERWALDER HUTTE - HOFMAN HUTTE HOFMAN HUTTE
11日 GROSSGLOCNER(3,797m) - ERZHERZOG HUTTE ERZHERZOG HUTTE
12日 ZELL Am SEE - SALZBURG PENSION
13日 市内 - BAD ISCHL HOTEL GOLDNES SCHIFF
14日 OBERTRAUN - OBERTRAUN HOF - GJAIDLM - SIMONY HUTTE SIMONY HUTTE
15日 DACHSTEIN(2,995m) - ADAMEK HUTTE - HINTEERER GOSAU SEE - VORDEREL GOSAU SEE - KLAUSTUBE - STEEG GOSAU - ATTNAG PUCHHELM - SALZBURG SALZBURG駅
16日 市内 - BADGASTEIN HOTEL WEISMAYR
17日 GRUNA BAUM HOTEL WEISMAYR
18日 LIENZ - S.CANDIDO INNICHEN - DOBBIACO - CORTINA D'AMPEZZO CRISTALLO HOTEL
19日 MIZURINA - RIF AURONZO HUTTE RIF AURONZO HUTTE
20日 CIMA GRANDE(オベスト) RIF AURONZO HUTTE
21日 CIMA GRANDE(グランデ)(2,999m) RIF AURONZO HUTTE
22日 CORTINA D'AMPEZZO - BOLZANO HOTEL ALPI
23日 STILFSER JOCH - ZERNEZ - ST.MORITZ HOTEL STEINBOCK
24日 CHUR - ZURICH - ZURICH FLUGHAFEN - SEOUL - 東京 

8月2日
10:00
西荻窪の自宅を女房の運転する車で出る。一時すごいスコールとなる。竹橋まで高速道路が混む。やがて雨があがり、空港に近づく頃には青空となり入道雲が出る。
12:50 成田空港着。
13:55 KE703便にて成田発。ようやく機上の人となる。予期に反して何故か気が弾まない。旅をするのがおっくうな気さえする。
16:05 ソウル着。空港は非常に蒸し暑い。出発前のあわただしさもあって疲れた。人参ドリンクを買って飲む。KE903便に乗り換える。
18:50 ソウル発。隣の席の金髪婦人が盛んに話しかけて来る。なんでもお父さんが2年前からソウルで英語の先生をしており、韓国の人と結婚をしている。以前は台湾に住んでいたのだが適当な仕事が見付からず、韓国へ移った。中国語も勉強をしており漢字も書ける。そのお父さんが病気になったと聞いて飛んで行った。もう殆ど回復したので、主人と一人息子がキャンピングカーで旅行中のドイツへ追いかけて行くところだ。彼等は私がまだしばらくは韓国に居ると思っている筈だから、突然帰ったらびっくりするだろう。お父さんの韓国での奥さんの親類にはシャーマンが居る。その人をビデオに撮った。ソウルには2週間ほどいた。海へもよく泳ぎに行った。アジアは初めてなので興味が尽きず、帰りたくなかった。父はまだ米国籍である。韓国へ行ったら会ってやって欲しい。などなどと続く。ソウルから約4時間でバンコックに着く。

8月3日
02:30 JEDDA着。飛行機は約1時間空港に停まっていたが、機外に出ることは許されない。その間、ウイスキーなどアルコール類は一時預けとなり、離陸するまでは機内でも一切飲めない。空港の撮影も禁止である。開いているドアから顔を出してみたところ、外は意外に涼しく湿けも少ない。ここで乗務員が全員交替するとのこと。
 空港で働いている人は全員髭面だ。髭の下にはアジアとヨーロッパ人のミックスしたような顔がある。頻繁に出される機内食に胃がもたれる。日本時間にすると深夜2時半の夕食に、やっとサンドイッチひと切れを口にすることが出来た。左隣のヨーロッパ系の中年の男性はベジタリアンとのこと。なんと宗教的な理由からではなく、9年前から急に肉が嫌いになったからだという。JEDDAからの機内食には菜食者用のが用意されていないので、彼は食事に手が付けられない。
08:50 ZURICH着。ZURICH空港駅でミュンヘン行き列車を約2時間待つ。三ッ峠のゲレンデで何度か一緒に登ったことがある若い女性の人が大きなザックを背にして、ご両親らしい人と駅構内の雑踏の中を急いでいるのが見えたので後を追ったが見失う。
 長椅子で所在なくしていたら、アメリカのマイアミで学校の先生をしていて、6週間ある休暇を利用して帰国している、というご婦人が話し掛けてくる。ニューヨークから22時間もかけてやって来たのだという。EQUATEUR(エクアドル)のブィムサレに行った時に貰った、という面白いハットを見せてくれる。この地方では、8月はいつも天気が悪いのだが今日はめずらしく快晴だとのこと。またスイスでは汽車賃が高いので、車を利用する人が多いのだそうだ。ZURICHからGARMISCHまでの急行列車運賃は89フラン(約8000円)だった。
11:00 発。
12:00 GOSSAUで乗り換える。スーパーで買ったワイン1瓶、パン3ケ、ソーセージ2本、チキン1/2、マスタード、それにジュース2本を取り出して、おもむろにワインの栓を抜こうとしていたところ、車掌が来て「ミュンヘンへ行く人は、まもなく到着する次のGALLEN駅で乗換えて下さい」と言う。一杯にひろげた食べ物をザックに押し込みながら、あわててホームへ飛び出す。しゃれた帽子を被り、にこにこ顔の、感じの良い車掌さんだった。オーストリア側の国境の町MARGRETHENでは、取り締り官がたった一人で列車に乗り込んで来て、パスポートのチェックをやった。ドイツ国境のLINDAUでも、もう一度チェックを受ける。列車には冷房設備が付いていなくて、とても暑い。車窓に見えるボーデン湖の水は、よく澄んでいて、ごみなどは見当たらない。湖畔は、まるで海水浴に来ているかのようなスタイルの人で一杯だ。キャンピングカーあり、ビーチパラソルやマットありで、カラフルだ。
 GALLENよりの列車の客室は6人掛けのコンパートメントからなっている。若い女の子一人と登山の恰好をした人相の悪い男二人が一緒だった。ふたり組はLINDAUで降りた。女の子は何も食べる様子が無いので、マンゴーをひと切れあげるとサンキューと言って笑顔を見せてくれた。ボーデン湖以外にはこれといってカメラを向けたくなるような物はない。最近日本に入り込んで来て、盛んに繁殖している、ひょろ長くて頭の黄色い草(せいだかあわだち草/俗名ぶた草)があった! このエイリアンめ! ここからやって来たのか!
 MUNCHENに約10分遅れて到着する。GARMISCH行の列車に乗り遅れるかもしれない。目当ての列車を探すが、なかなか分からない。尋ねようにも駅員が見当たらない。あわてたが、やっとGARMISCHと書かれたプレートを見付けて飛び乗る。この列車にも冷房が付いていない。日射しが強くて、暑い。廊下に出て、カメラを手に何か良い被写体は無いものかときょろきょろしていたら、入れ墨のお兄ちゃんがやって来て、親切に「コンパートメント側の方が景色がいい」と教えてくれる。折角だがそちらの方は逆光なのだ。それに廊下側の方には、これから登ろうとしているZUGSPITZE山が見えるのだ。『もっともZUGSPITZEはオーストリアの山だから、ドイツ人としてはつまらない山なのかもしれないな』と変な憶測をする。部屋へ戻ると、同室している不愛想な顔付きの男がわざわざ窓を開けてくれて、写真を撮りなさいと勧めてくれる。仕方なくシャッターを切る。
18:30 GARMISCH駅に着くと早速案内所へ行き、宿の紹介を頼んだところ、「駅では宿泊の案内はしていない。この時間では町へ行っても、どこの案内所も閉まっているだろう」と言う。仕方がないので当てもなく町外れの小高い方へ登って行く。2、3それらしい建物があったが気に入らなかったので、さらに10分ほどチロル風の家が並ぶ坂道を登って行くと『PENSION PANORAMA』と書かれた小さいがしゃれた感じの宿があったので入る。さいわい英語の話せる奥さんがいた。ベッドが3つ付いていて、廊下を使わずに外へ直接出られるようになっている、小奇麗な部屋が空いていた。何はともあれ、先ずシャワーを浴びて汗を流し、ようやく人心地つく。なにしろ、めちゃくちゃに暑い汽車に6時間も乗って来たのだ。飲みそびれて持ち歩いて来たワインを部屋に置いてある冷蔵庫に入れて冷やす。ペンションの庭に作られた屋外レストランからの眺めのすばらしいことといったら無かった。秀麗なチロルの山並が、ぐるりと見渡せるパノラマ台だ。明日登る予定のZUGSPITZE峰も見えている。絵葉書の中にいるみたいだ。陽が傾いてきて、涼しくなり、さわやかな風が心地よい。あんなに暑かったのが嘘のようだ。20:50になるとランタンに灯りがともるが、まだ空も山も明るい。ウエイトレスは、みな乳牛のようなボインだ。尋ねると笑顔で山の名前を教えてくれる。思わず生ビールのお代わりを何度もしてしまう。HOME MADE GULASH SOUPの味は格別だし、ポテトもなかなかいける。ただ、サラダにドレッシングがかかっていらず、塩胡椒のみとは惜しいなあ。それにしても大分前に注文した鱒料理がまだ来ない!
21:30 ようやく日が暮れる。部屋は近いのだが、いささか酩酊して足元があやしくなり、やっとの思いでベッドに辿りつく。ワインは冷えているのだろうが、もう飲めない。

8月4日
05:00 起床。食事前に町へ出て散策をする。チロルの家の壁にはカラフルな模様がきれいに描かれていて、見てて楽しい。窓の外に付けられているプランターには必ずと言っていいほど花が植えられている。朝見るZUGSPITZE山群の姿もなかなかのものだ。農家から牛が3頭カウベルを鳴らしながら出てくる。ひつじもピョンピョンとうれしげに跳ねながらこれに続く。通りがかりのチロリアンハットのおじさんが、私になにやらあいさつの声をかけてくれる。外国の旅の朝を実感する。
08:00 朝食。ペンションの奥さんから「ZUGSPTZEに登るには09:15発のバスに乗り、EIBSEEからは汽車で行くほうがよい。ケーブルを使うのはあぶないから止しなさい」とのアドバイスを受ける。この宿にもう一泊することにして、軽量化のために必要なものだけを入れたサブザックを持って行くことにする。少し迷ったが、ワインを置いていくのに忍びず、水の代わりに水筒に入れ、それらしい場所へ行ったが、EIBSEE行きのバス停が分からない。ほかのバスを待っているおじいさんに尋ねたが、知らないらしい。そのおじいさんも、間もなくやって来たバスに乗り込んでしまった。近くに尋ねる人が見当たらない。思案していたところ、少し走り出したバスを止めて、運転手がわざわざ私の所まで駆け寄ると、「君の探しているバス停はあそこだよ」と近くに見える教会を教えてくれた。きっとあのおじいさんが話してくれたのだ。急いでその教会へ行ったが、時すでに遅し、3分前にバスはでたばかりだった。
10:00 やむなく汽車の駅まで行って、10:35発EIBSEEまでの切符を買う。30分ほど時間があるので、宿で聞いた駅の近くにあるという山道具屋を探しに行ったが、見付からない。
10:32 発車ぎりぎりに駅に戻り、汽車に乗ろうとしたところ「定員になったので、この列車にはもう乗せられない。次は11時だ。」と言う。大分粘って交渉したが、埒があかない。憤慨して切符をキャンセルし、タクシーでEIBSEEまで行く。
11:00 EIBSEEでも待ち時間が惜しくて、鉄道の駅からまたタクシーに乗ってケーブル駅まで行く。
12:00 ZUGSPITZEケーブル頂上駅から、さらにケーブルでSCHNEEFERNER HAUSまで降りてから、クライミングを始める。ジュクジュクしたいやな氷を、だましだまし登る。
13:00 SCHNEEFER KOPF(2,874m)まで登り、そこからGATTERAL(2,024m)まで行こうとしたが、垂直の壁の下降を必要とする深い谷にはばまれて断念する。仕方がないので尾根づたいにZUGSPITZ BAHNを経由してZUGSPITZ山頂ケーブル駅に行くことにする。どうも様子がおかしい。多分間違えてMUCHNER HAUSの方へ来てしまったのかもしれない。山形の分かりやすいZUGSPITZ山の方にルートを変更して進んで行くと、ナイフリッジをトラバースすることになってしまう。リッジの上は鋭角に尖っていて、跨いで歩けるようなしろものではない。リッジに手をかけて、レイバックのスタイルで蟹の横ばいをするしかない。人が通った形跡は無く、足元は脆くてぼろぼろだ。冷汗をかきながら、そろりそろりと進む。あたりは静かだ。はるか眼下の、なだらかな斜面にひろがる緑の草原に、ひつじや牛が放牧されているのが小さく見える。のどかなカウベルの音もかすかに聞こえて来る。いやなことになったと後悔したが、今更引き返すわけにはいかない。かえって危険だろう。『このような平和な場所で陰惨な死を迎えるのかな』という不安が少し頭の隅をかすめる。気を静めながらなんとか乗り切る。『いやー疲れた』途中で喉がからからになり、頭がぼーっとしてきたが、水筒にはワインしか入っていないのには参った。だがうまいことに、ザックの底にすももが1個あったので、むさぼるように齧る。旨さが全身に滲みわたった。
15:00 ケーブルの駅近くで、ようやく人に出会う。ドイツ語しか通じないのでよくは分からないが、尋ねたところ、どうもトンネルを抜けるとGARMISCHに行けると言っているようだ。兎に角行ってみよう。トンネルに入ると中は冷たい氷のドームだ。よく滑って何度も転ぶ。20分も歩いたのだろうか、随分長かったように感じる。(後で知ったが、これはドイツからオーストリア領へ抜けられる800メートルの国境トンネルだったらしい。)
16:00 やっと抜け出したら、なんとそこはSCHNEEFERNER HAUSのケーブル駅ではないか! 水やジュースやビールを浴びるように飲む。
17:20 ケーブルでZUGSPITZE山頂駅経由EIBSEEへ行き、30分ほどのスケッチをしてから17:50のバスでGARMISCH-PARTENKIRCHENへ帰る。山道具は現地で調達すべきだとの助言に従って、日本からはあまり持って来ていないので、本格的な登山を始める前に、どうしてもここで手に入れなければならない。宿で教えてもらった店が見付からなかったので、山頂のレストランに居た山男風の人に尋ねたところ、『あのバス停のある教会の近くにある』と言って地図に印を付けてくれた。宿へ帰る前に重い足を引きずって探し廻ったが、どうしても見付からない。INNSBRUCKへ行くしかなさそうだ。新調した登山靴は少し当たるが痛くはない。この分なら大丈夫だろう。日中は素晴らしい快晴であったのに、午後の6時ごろからおかしくなってきて、すこし振りだしたと思ったら、夜9時頃には雷を伴ったすごい雨となる。そのすさまじい雨量に耐え切れなくなって、宿の屋外レストランにある日除け用のテントが壊れてしまう。わずか40~50メートルほどしかない自分の部屋に、傘をさしても帰れないほどになってしまった。

8月5日
05:39 起床。今日も雨だ。これでは登れない(ほっとする)。INNSBRUCKへ登山用具を買いに行こう。昨日は本当に緊張したし、疲れた。おまけに雨に濡れて下着までびしょびしょになってしまった。洗濯をして乾かしていたものまで濡らしてしまったので着替えが無い。身体のあちこちが痛む。右の奥歯まで少し痛い。昨夜は何も手をつける気力が無く、荷物をそのままにして寝てしまった。これからパッキングをしなければならない。
08:00 朝食
08:20 東京の会社とようやく電話連絡がとれる。留守中、特に問題は起きていないようだ。
08:25 PENSIONの人達とお別れをする。
09:03 列車でINNSBRUCKへ向かう。
09:30 - 11:03 迷ったが田原さんご推薦のMITTENWALDで途中下車をする。バイオリン作りの町として有名な所なのだそうだ。雪の残っている高い山の麓にある小さいが落ち着いてきれいな町だ。観光客も結構来ている。木彫りの物を売っている店が多いが、その中にとてもいい顔をしたマリア様が目についた。これからの旅程を考えて、一番小さいのを選ぶ。
12:00 INNSBRUCK着。冬のスポーツで知られた大きな町だ。例のインベーダー(せいたかあわだち草)が群生している。駅の案内所で、最寄りのペンションを紹介してもらう。歩いて30分ほどの所だった。
13:00 すぐにHAFELEKAR山(2,334m)へと向かう。
13:26 INNSBRUCKより、ひとつめの駅HUNGERBURGからケーブルカーに乗る。途中下車して山腹のレストランで食べたグラッシュスープとパンの昼食がとてもおいしかった。また、食事をしながらINNSBRUCKの町や緑の遠謀も楽しめた。
14:30 ケーブル頂上駅着。山頂は近かったが、折りからの雨で頂上の名を記した標識以外何も見えない。
15:00 下山。クライマー風の人に山道具屋を教えてもらう。
『WITING』と言うのだそうだ。INNSBRUCKの旧市街は写真で想像していた通りの町だ。屋外に出されているテーブルに着いて、いかにもヨーロッパ風のしゃれた町並や、行き交う人達を眺めながらコーヒーを飲んでいると、なんだかリッチな気分になる。ここにも日本人団体観光客が多い。『WITING』を捜し当てて、これからの山行に必要なピッケル、ザイル、カラビナ、シットハーネス、ヤッケなど約1000米ドルほど買い込む。ヘルメット 819シリング、ピッケル 1395シリング、ザイル 1598シリング。(1シリング=約11円)本当にヨーロッパは安いのかな? やはり日本から持って来た方がよかったのではなかったのかな、と思ったりする。これからはいよいよ荷物が重くなる。教えてもらったHERZOG通りのレストラン『DOWN TOWN』でビーフステーキを食べる。なるほどおいしいが顎がおかしくなるほど固い。サラダは思い切り沢山ついていた。ビール、スープ、ヌードル、200gのステーキとサラダで195シリング。道具も買ったし、明日からはいよいよ予定通りの登山が出来る。ガンバロー。だが、疲れが相当溜まっている。
21:00 まだ早いが、我慢出来ずベッドに飛び込む。

8月6日
 2時に目が覚める。暑い。窓を開けて外の空気を入れる。身体のあちこちが痒い。ちいさい蚊がいるようだが見付からない。「疲れたなー」足に消炎軟膏を擦り込む。身体がだるくて熱っぽい。
05:00 起床。パッキングを始めるが荷物が多すぎて、LOWAの海外遠征用特大ザックにも入り切れない。苦闘約2時間、なんとか押し込む。ただし、本は全部捨ててポリタンはウエスト・ザックに入れ、ヘルメットやインスタントラーメンは手に持つことにする。
07:30 朝食。
08:00 あわてて宿を出て、08:20駅に駆け込む。
08:39 WORGL行きの列車にやっと間に合う。これで今日中に山小屋に着けそうだ。
09:40-10:04 WORGLで乗り換える。KUFSTEIN方面行きの列車が分からず、駅構内の階段をあちこちと、何度も登ったり降りたりする。 11:20 KUFSTEIN着。食糧は十分持って行くようにとの日本での助言に従ってスーパーでハム、パン、バター、チーズ、みかん、桃などをたっぷりと仕入れる。歩く。暑い。へとへとだ。『俺は、なんでこんなことをしているのだ』と、つい考えてしまう。
11:50 EBBS KAISERTAL登山口(496m)着。水があった! 冷たくておいしい! 木陰の草むらにどっかりと座り込んで昼食休みとする。日向が暑いのでうんと涼しく感じる。一時雲行きがあやしかったが、晴れ間が見えてきた。
12:20 出発。
13:18 たまたまあったPFANDELHOF(738m)の小さな店でオレンジ・ジュースを買って飲む。
14:55-15:12 HOUS BERGER HOUS(936m)
15:50 1266m。25キロ(?)もあるザックが重い。後から来た裸でナップサックのみという、うらやましい出たちの3人組に軽く抜かれる。
16:00-16:15 一本いれる。
17:20 山小屋を目の前にして小休止。STRIPSEN JOCH(1577m)が優しく手招きをしているようだが、思うように身体が言う事をきいてくれない。
18:30 ようやく山小屋の前に立つ。小屋番に「どこかの登山クラブに入っているのか」と聞かれたので、日本語の都岳連身分証明書を見せたところ、OKという。田原さんが言っていた通りだ。これで宿泊費のクライマー割引が受けられるのだそうだ。シャワー付きのりっぱな個室だ。日本の山小屋とは大分違う。もっともここ迄なら、距離はそこそこあるけれども軽装で来れるから、泊まり客の殆どは普通のハイカーのようだ。食糧をかなり担いで来たというのに、ちゃんとしたレストランがあるではないか! 早速ビールで一人乾杯をする。世界一旨いビールだと思った。グラシュスープとポテトとサラダ。それに食べ切れない程の量のスパゲティー、全部で132シリングであった。
20:00 疲労困憊のため、早く寝ることにする。掛け声をかけてやっと上段のベッドに登れた感じだ。

8月7日
03:00 夜中に目が醒める。スケジュールを見直す。明日はラーマン・弘子さんの経営する民宿へ行くだけだ。ほっとする。何故かザックから荷物を全部引っ張り出して、安心してもうひと寝入りする。
06:30 窓からの明かりに、あわてて飛び起きて外に出る。早朝の山の景色を撮ることにしていたからだ。グランドキャニオンを小さくしたような形をしたSTRIPSEN JOCH(1807m)が朝日を一杯に受けて初々しい姿で目の前にある。シャッターを切りながら思わず頂上をめざして一気に登り詰める。昨日は永遠の彼方にあるように思われたが、わずか15分ほどで山頂に着く。昨日登って来た方角には、はるか緑の山並が重なっているが、反対側、山小屋の向こうには、灰褐色の岩壁がそそり立っている。その岩は、一見厳しそうだが、パートナーがいれば登れないこともなさそうだ。
07:50 部屋へ戻ったら、もうこんな時間になっていた。道理で屋外にある展望レストランに大勢の人が出ていたわけだ。意外なことに、誰も山に登ろうとする人はいないし、壁に取り付いているパーティーも見当たらない。皆景色を眺めているだけだ。
09:00 パンとソーセージに冷たい紅茶とワインという朝食をとると往路の反対側、ST.JOHANNを目指し、ザックを肩にしてゆっくりと降りる。今日は下りだから楽だ。
11:50-12:40 川のほとりの涼しい木陰で昼食をとる。心地よいせせらぎの音とそよ風に、ついのんびりと座り込んでしまう。ウォークマンで倍賞千恵子の『日本のうた』を聴きながらふたたび歩く。絵のようなヨーロッパの田園風景と美しい山々を眺めながら日本のメロディーを耳にして一人テクルのも、なかなかのものだ。今までの苦労が吹き飛んでしまう。足どりも軽やかに、たちまちGRIESENAUの町に入る。またまたビールで乾杯。
14:00 バスでST.JOHANNはKITZBUHELER HORN(996m)の麓にあってチロル風のきれいな家が並ぶ、こじんまりとまとまった町だ。『周りを山に囲まれた風光明媚なアルプスの町』として知られているのだそうだ。日なたは暑いのでアイスクリーム店のはしごをする。そこからは汽車に乗ってBRIXENへ行く。駅から弘子さんに電話をかけて道順を聞く。徒歩で約10分。彼女の家はすぐに分かった。思ったよりも大きな建物だ。庭も広くて、コスモスがいっぱい咲いている。久し振りに日本語で話が出来て、つい口が軽くなる。弘子さんは私よりひとつ年下の昭和10年生まれだと言う。しっかりしていていい人だ。ご主人は寡黙だが優しそうだ。洗えるものは全部洗濯して庭に干す。これでさっぱりした。
20:30 夕食後、すすめられてAN DER LOFPEに『チロルの夜』というショーを見に行く。白木のテーブルが一杯に並んだ大衆レストラン風の会場には、既に数十人もの客が来ていて満席だ。もう入れないのかと思ったが、10分ほど待たされたけれども、なんとか割り込ませてもらえた。素人芸だと言うが、結構楽しめた。チロルのダンスと歌。客も全員肩を組んで一緒に歌う。
23:30 明日があるので途中で出る。

8月8日
07:30 起床。弘子さんに勧められて、岩用のザイルやギヤはCORTINA D'AMPEZZOの駅留めの小荷物便で送ることにする。09:58のバスでKITZBUHELへ行く予定であったが、09:30泊りあわせていた光洋ベアリングのドイツ駐在員という日本人の若いご夫婦が、親切にMITTERSILまで車に乗せて行ってくれる。
11:30 MITTERSIL着。そこからは12:59の汽車でFURTH KAPRUN STRKRZまで行くことにする。駅の係員に荷物をCORTINA駅まで送るように頼んだが、CORTINAには駅が無いのでLIENZまでしか遅れないと言う。それでも8キロ以上もザックが軽くなり、ほっとする。
14:00 FURTH KAPRUN STRKRZの駅員が「この駅の付近からバスは出ていない」と言うので歩く。
15:12 MOISKOGEL BAHNまで来てみてびっくり、FURTHからのバスがあるではないか! 小雨が降り出したが、バスはすぐに来た。
15:57 ケーブルカーの駅に着く。歩いて来ていたら、あと1時間近くはかかっていたかもしれない。4時発の最終ケーブルにぎりぎり間にあったことを喜び、急いで切符を求めたところ「登りの切符は売れない」と言う。「この後、下りのケーブルの便が無いし、上の宿泊所はシーズンオフで閉まっていて泊れないから困ったことになる」と言うのが理由だ。「このケーブルで折り返して戻るから」と言って強引に乗り込む。高度2447mのケーブル終点に着いてみると、なるほど、そこから上に登るスキーリフトは動いていない。ケーブルの駅員は、このままケーブルで下るよう強く要求する。ここで戻ったのではこれからの計画全体が狂ってしまうので、こちらも必死だ。振り切って上のスキーロッジへ向かう。それはホテルなみの大きなロッジ(IHR GASTGEBER GLETSHER BAHNEN KAPRUN AG)だ。ロッジの近くにある、オーストリア最大と言われているスキー場には雪がまだ残っているが、人影は全く無い。スキー場の反対側、今来たケーブル駅の方には累々たる岩山があり、深くて広大なナメ沢が足下に切れ落ちている。また、その岩ばかりの沢がはるか彼方まで蛇行しているのが見渡せる。そこには、なにか想像の世界にでも居るのではないかと錯覚させるような、異様な雰囲気がある。ただ、足元に咲く高山の小さな花が可憐だ。なんとかロッジの建物の中にはもぐり込めたが、泊り客どころか人の気配が全く無い。自分の足音ばかりがやたらに廊下に反響して、まるで地球終りの日に死の町へ紛れ込んだみたいだ。あちこちと歩き回った後、ガランとしたレストランに入ってみたところ、地獄に仏、コックらしい人がいた! むこうも驚いた様子だ。頼みこんで、なんとか客室を使わせてもらうことが出来た。ただ、今からでは夕食の用意は出来ないと言う。そのような贅沢は期待していなかったので勿論OK。うれしい事にワイン0.5L(65シリング)を分けてもらう。キッチンで『がんばれ玄さん』を自分で作ることが出来たし、弘子さんが持たせてくれた海苔のおにぎりとソーセージもあるので、雪山を眺めながら部屋でひとり豪華な(?)ディナーを楽しむことが出来た。ワイン(KREMSER WEINZIERL 白)が旨い。何が幸いするか分からない、もしFURTH KAPRUN駅でポストバスに乗れていたら、雲がかかって視界の悪いKITZSTEIN HORNに登って、今頃はつまらない宿に泊っていたかもしれない。今夜はいい夢を見て寝よう。

8月9日
08:00 大レストランで食べたバイキングの朝食は320シリング、ワイン0.5Lが60シリングだった。客は勿論私一人だ。
09:00 ヒュッテを出て登山開始。最短距離のルートをとったために、氷のスロープを登るはめになる。アイゼンは持っていない。ヤバイことになった。ステップ・カットで慎重に登る。
09:30-09:50 快晴。KITZSTEIN山頂(3203m)はまるで展望台だ。前方にこれから登るGROSSGLOCKNER(3797m)、その右にGROBVENEDIGER(3674m)、左にWITZGEN峰などの雪を被った山また山が連なり、その眺めは素晴らしい。山頂で登山スタイルの二人づれに会い、挨拶を交わす。
 ケーブル駅まで下りて来たら、ロッジのあばさんが私を待っていて、部屋代をまだもらっていないと言う。恐縮して280シリングを渡す。すっかり忘れていたのだ。それにしても安い。
13:30 ZELL AM SEEからバスに乗る。15:30にGROSSGLOCKNER-HOCHLPENSTRASSENに着くまでの2時間、まさに息を呑むような景色が展開した。スケールの大きい眼前の山群は圧巻である。特にWESBACH HORN峰の気品ある姿は見事で、主峰GROSSGLOCKNERも負ける。それにチロル風の丘陵も美しい。もっとも、道路の左側は石がごろごろしていて月世界を思わせる寒々とした無味の荒野が広がっていた。
 GROSSGLOCKNER-HOCHLPENSTRASSENではバス停にほど近いホテルFRANTS JOSEPH'S HOHEに泊ることにする。尋ねたところ、ホテルにはGROSSGLOCKNERの登山ルートが分かる人はいないという。またこの宿から明日GROSSGLOCKNERに登る人もいないそうだ。地図と磁石だけが頼りだ。登山が終わって次の目的地SALZBURGへ行くには、ZELL AM SEEまで今来た道を戻ることになるのだが、終バスは15:15なのだそうだ。山頂を踏んでその日の内にしかもその時間に戻って来るのは多分無理だろうから、このホテルに2泊することにする。「日の出前にホテルを出る」と言うと、「今夜のうちに朝食を用意しておくから、明日の朝レストランで食べて行くように」と言われる。

8月10日
04:30 起床。
05:10 誰もいないがらんとした薄暗い食堂で一人食事をとる。立派なレストランだ。外はまだ暗い。強烈な稲妻が2度ほど走ったかと思うと、突然大雨となる。玄関から外へ出てみたが、とても歩けるような状態ではない。しばらく様子を見ることにする。
05:30 夜は明けきらないが雨は小降りになり、なんとか止みそうな気配なので出発することにする。さて、GROSSGLOCKNERにはどこから取り付いたらいいのか。道標が見当たらない。尋ねようにもクライマーらしい姿が見あたらない。北北西20度、氷河の上流に見える高くて白い山がGROSSGLOCKNERであろうと見当をつける。
06:19 HOFMAN HUTTEの近くを通過。晴れ間が見えて来た。
06:30 WASSERFALLWINKEL(2549m)と標識にはあるが、地図にその記載がなく、現在地が特定出来ない。氷の上の薄雪に人の踏み跡があったので、それを追うことにする。後の方から誰か来ていたようだが、見えなくなってしまう。右の氷河へ行ったのか? 前方に赤と白のポールが見える。しばらく行くと、なんと上の方からブルドーザーが下りてくるではないか! 近寄ってドライバーに尋ねたところ「上には山小屋がある。これはGROSSGLOCKNERへ行くルートではない」と言う。戻るしかない。更に、登って来る人に会ったので尋ねると、GROSSGLOCKNERはHOFMAN HUTTEの所から氷河の対岸へ渡って登るのだそうだ。
08:30 HOFMAN HUTTEに立ち寄り、そこのおばちゃんに相談したところ、「これから一人で登るのは危険だ。明日誰かルートの分かる人について行きなさい」と言う。また小屋の主人は「アイゼン無しで登ることは不可能だ。(日本で聞いたのとは大分違う。)これを使いなさい」と言って、自分のアイゼンを貸してくれる。寒いからと、厚手の手袋も貸してくれる。ホテルはキャンセルして、今夜はここに泊ることにする。居合わせた若い男が「ザイルもいるぞ」と言ってくれたが、一人で使えるわけが無い。GROSSGLOCKNERと間違って登ろうとした山はどうもVORDERER BERNENKOPFだったらしい。そうだとすると、あの山小屋はOBERWALDER HUTTEだったことになる。
15:30 一時あんなに晴れていたのに、又雨がかなり強く降りだした。まったく、天気が変わりやすい。今日は1日無駄にしてしまった。
 HUTTEの二人の子供とすっかり仲良しになる。上の子の名前はHANNES、弟の方はSCHNELLという。彼等の喋れる英語は唯ひとつ"What's your name?" 二人は私にそればかりを繰り返す。

8月11日
04:00 起床。ごっつい体格をした30才前後の、いかにも山男風のドイツ人兄弟を紹介される。その二人も今日GROSSGLOCKNERを登という。兄さんの方は全然英語は出来ないが、弟の方はほんの少し話せる。二人は大工なのだそうだ。私の荷物をチェックしてくれる。
05:12 3人一緒に小屋を出る。星空だ。今日は天気がよさそうだ。
06:12-07:10 東アルプス最大というパステルツェ氷河を横断する。氷河には深いクレバスが幾つもあって、迂回したり飛び越したりと結構難渋する。そこを渡り切ると、岩と氷のミックスだ。登りにかかると、まもなく兄さんの方が息切れが激しくなり、やがて弟の方もおかしくなってきた。もう動けないから先に行ってくれと言う。ここまで来れば、ルートは分かりやすい。彼等には悪いが一人で先を急ぐことにする。
09:00 途中にまた氷河がある。クレバスに架かった弱そうなブリッジが恐ろしかったが、全般的氷の富士山よりは易しいアイスクライミングだ。ただ今日は晴れているからいいが、天気が悪い時は厳しい山になるに違いない。(私の場合)アイゼンなしでは登れない。
11:30 ERZHERZOG-JOHANN HUTTE(3456m)を通過。このまま引き返せば03:15のバスにひょっとすれば間に合うかもしれない、とは思ったが、折角ここまで来たのだから山頂を踏むことにする。今夜はこの小屋泊りだ。そこから山頂まで距離はあまりないが、思ったより傾斜がきつい。ピッケル一本だけでは頼りなく、出来たらアイスバイルも欲しいところだ。幾組かのパーティーが下りてきたが、皆ザイルでアンザイレンしている。フリーは見たところ私一人だ。何人かが怖い顔をして私に大声で声を掛けてくる。多分「あぶないから止せ」と言っているのだろう。高度感は確かにあるが、アイゼンとピッケルがよく効くので助かる。氷雪が切れるあたりに、わずかだが、おっかない岩場があって、少し緊張した。しかしZUGSPITZEほどではない。あそこの岩は本当に怖かった。やっと頂上に着いたと思ったら、もうひとつ上にこぶがある。ガスがかかってきて、天気が崩れだした。引き返すべきかどうか迷うところだ。上から下りてくる年配者のパーティーとすれちがう。「上にはもう誰もいない。天気が悪化してきたので頂上はあきらめた。up to youだが君も一緒下りたらどうか」と言う。登りより下りの方が危険なので一寸迷ったが、慎重に行動することにして、頂上に向かう。そこから上は足元がよく整備されていて、楽に登れた。
13:00 山頂では何も見えなかったが、標識を確かめて、ゆっくりと下山。
14:00 山小屋の重い戸を開けて入る。薄暗い広間にいる数人に向かって「グリュースゴット」と声を掛けたら、あのドイツ人兄弟が握手を求めてきた。「君はすごい」と盛んに褒めてくれるので、いい気持ちになって、二人にビールをご馳走する。「サァー下山しよう」と言うと、リーダーは「天気が悪いから駄目だ、今夜はこの小屋に泊るべきだ」と言う。昨日1日ロスしたので、先を急ぎたいが、しぶしぶ彼の意見に従うことにする。そこにはほかにも5人ほどドイツ人がいた。無口だとばかり思っていた兄さんの方は、実は面白い人だったらしく、彼等とよく喋り、ジョークを飛ばしては皆を笑わせる。そのうちの一人が気を使って、私に英語で通訳をしてくれる。日本のNTNベアリング社と取り引きがあって、近くモスコーへ行くのだそうだ。私より一つ年上と聞いたので、戦後のロシア兵がいかに満州で日本人にひどいことをしたかを話し、ドイツではどうだったのかと、悪評を期待して尋ねたが、この話には乗って来なかった。「戦後確かに彼等は悪かったけれども、今は親切だよ」と逃げる。デリケートな問題を聞いてしまったようだ。一坪足らずの狭い部屋の、椅子状の床に小さな穴が開いているのがトイレだった。床全体にも壁紙が張られていてきれいなのだが、縁側に腰を掛けている感じで、その気になりにくい。ここは日本の山小屋並みの相部屋で、お互いくっつき合って寝ることになる。誰かの大きないびきに先を越されて寝苦しい。

8月12日
06:00 起床。天気は相変わらず良くない。リーダーに「今朝山頂へ行くのか」と尋ねると、「止めた」と答える。「それでは一緒に下りよう」と誘うと、深刻な顔をして「それは無理だ」と言う。「それでは私が一人で下りる」と言うと、「視界が悪くて不案内な氷河をザイル無しに渡るのは隠れたクレバスもあって危険だ。リーダーとしてそれは絶対に許せない」と強く反対する。英語の出来るドイツ人によると、天気予報では当分の間回復の見込みは無いのだそうだ。『しまった!』
07:20 オーストリア人家族が下山の準備をしだしたので、連れていってもらうように頼む。わがリーダーも、やっと一緒に下りる気になり、お互いにザイルを結んで外に出る。視界約10メートル。急に、わがリーダーは私の肩を押さえて「止そう」と言い出す。頑として反論を許さない態度に気圧されて、しぶしぶザイルを解く。これからの計画が大幅に遅れる可能性が出てきた。ラーマンさんのところからは、どうしても東京へ国際電話が繋がらなかったし、前のHUTTEでは電話をする時間が無かった。皆が心配をするとまずいので、小屋の主人に東京への電話を頼む。国際電話ステーションがあるウィーンの局を呼ぶのだが、どうしても繋がらない。小屋の主人が彼の友人に電話をして(これは繋がった)、ウィーンの国際電話局の方から逆にこちらを呼び出してもらうように頼む。1時間あまり待ったが、局からの電話は掛かってこない。小屋番の部屋にプロのガイドがいたので尋ねると「自分はこれから客と下りるが、この天候では一人しか連れて行けない」と言う。「私も一緒に」とねばって交渉したが、どうしても首を縦に振らない。
 やがて英語の出来るドイツ人達が、HOFMAN HUTTEとは反対側の比較的安全な西側のルートを下りると言う。そこからHOFMAN HUTTEに戻るのは遠くて大変だろうが、下まで降りてしまえばなんとかなるだろうと思って、一緒に行くことにする。ところが、小屋の主人は、電話を友人に頼んでいるのに、そのままにして出て行くのはフェアーでないと言って、下山を許してくれない。『弱った』
 更に30分ほど待ったが、やはり繋がらない。英語の出来るドイツ人も主人を説得しようと努力してくれたが、返事は頑固に「ノー」だ。わがリーダーもそうだが、彼等の頑固さは日本人とは大分質が違う。仕方がない、と私を残して去って行くドイツ人達と何度も何度も握手を交わす。幸い、様子を見ていたガイドがようやく私も一緒に連れて行くことを同意してくれる。しかし電話はまだ掛かってこない。
10:15 ガイドが「もう待てない」と言いだす。今度は主人も笑顔で私に「行きなさい」と言ってくれる。ガイドには甘いのだろう。急いで下山することにする。そのころ小屋では「昨日山頂へ行ったまま下りてこない3人のパーティーがいる」と騒ぎ出していた。ヨーロッパのガイドは社会的な地位がかなり高いとは聞いていたが、その自信に満ちた態度や顔付きは日本のガイドには見られないものだ。それはプロの顔だ。私ともう一人の中年の男性客をアンザイレンして後ろに従え、「ザイルは常にピンと張っておくこと」「ガイドの踏み跡を忠実にトレーすること」を指示すると、先にどんどん下りて行く。時々振り返って、自分の踏み跡から少しでも外れていることが分かると激しく咎めた。手にはスキー用のストックを一本持っているだけだ。もしわれわれがヒドン・クレバスにでも落ちたらどのようにして確保するのか、と疑問に思ったが、聞くところによるとヨーロッパではこれが普通で、ピッケルでの滑落停止は日本独特のものらしい。雪はまだ降っているが、風は無い。ガスっていて視界がよくないが、地形を熟知しているのだろう。氷河をためらいもなくどんどん進み、2時間足らずで下り切る。ガイドは必要なこと以外は一切無言で、いかめしい態度は終始崩さなかった。山小屋の主人もそうだが、自分の仕事に誇りを持ち、客に媚びる様子がまったく感じられないのには好感がもてる。
12:10 最後の氷河を渡り、安全な場所に着いて、はじめてガイドは我々に人懐っこい笑顔を見せ、握手を求めて来た。ガイド料は一人につき約5000円だった。ガイドの名前はENGELBERTという。下界は雨だ。
13:10 ロープウェーで道路まで登って、HOFMAN HUTTEをめざす。私が戻るのを遠くから見付けた白いエプロン姿のおばちゃんが一生懸命に手を振って出迎えてくれる。「JAPANESE,JAPANESE」と何度も何度も連呼してくれる。昨日戻って来なかったので、心配してくれていたのだ。感激した。握手、握手また握手。坊や兄弟も喜んで出迎えてくれる。二人の手がすごく暖かかった。
15:15 バスでSALZBURGへ向かう。来る時に感激して眺めた素晴らしい山々は、残念ながら悪天候で見えない。
19:30 ZELL AM SEEで乗換えて、SALZBURGへ着く。ここも雨だ。今夜は一流ホテルに泊ることにしていたので、駅の観光案内所で問い合わせると、今日は一流からペンションにいたるまで、どこも満室だという。ガイドブックには『デラックスホテルであるHOTEL EUROPAなら必ず空き室がある』と書いてあったので、念のため直接電話をしてみたが、やはり泊めてもらえない。それでもなんとか郊外の家族客用(?)ペンションを紹介してもらう。質素な建物だ。若い黒人の男性が一人で受付をしていた。そこでは食事が出来ないということで、土地の人が利用している小さなレストランを教えてもらう。家庭的な店で、マッシュルームと小麦粉の大きなだんごが入っているスープがとてもおいしかった。ワインの味もすばらしくて、グラスのお代わりをする。

8月13日
 会社に電話をしようとするが、日本と違って大都市以外ではGROSSGLOCKNER山頂と同じく、海外との通話はむずかしい。深夜3時にも試みたが、この時間ではオペレータが寝ていた。24時間サービスではないらしい。早朝4時半になってようやく東京と繋がる。
 今日はまた雨だ。予定していたWATZMANN(2913m)登山は中止とする。そうなると、今日中にGOSAUへ着きさえすればいいのだから、夕方まで市内見物をすることにする。思ったより小さな町だが、観光地だけあって見所は多い。スケッチブックを手にしてはいたが、あちこちと見て回るのに忙しくて、描く時間がない。洞窟の中に作られた古いレストラン『STIFTSKELLER ST. PETER』で昼食をとっていたら、近くに座っていた上品な老夫婦から声をかけられた。しばし旧知のように雑談をする。すごく感じのいい人で、こころ和むひと時を楽しむ。日本でも未知の外国人旅行者に、このように暖かく接する人がいるのだろうか、とふと思ってしまう。
 ペンションで聞いて来たオールドタウンにある登山道具屋『SPORTS HINTNER』でアイゼンを買う。美人の奥さんが対応をしてくれる。慣れない手付きで、私の靴に合わせてサイズの調整をしようとするが、なかなか旨くいかない。日本紳士としては、勿論喜んで代わってさしあげる。私の登山靴の手入れがとても良いと褒めてくれる。
 『わが敬愛するモーツァルトゆかりの地』としてSALZBURGには以前から興味は持っていたが、いまや観光地として過剰にモーツァルトに依存しているのを見ると、彼が晩年人々にあまり顧みられることもなく貧困の内に亡くなったことを想って、複雑な気持ちになってしまう。
17:25 SALZBURG駅でGOSAU行きの列車出発時間を尋ねたところ、「今日はもう無い」との返事なので、別の駅員に尋ねたら、彼は「GOSAUへ行く列車そのものが無い」と言う。びっくりしてもう一度よく調べるよう頼んだところ、同じ人が平然として「17:40と18:37の便がある」と言う。悪びれる様子もない。カーッとしたが、『ここは日本と違うのだから』と押さえる。出発までほんの少しだが時間があるので、壊れてしまっていたウォークマンのイヤホーンを買いに急いで近くのデパートに走る。ぴったりサイズのがあった。感激。
17:40 GOSAUへ向かって出発。ウォークマンで『日本のうた』をむさぼるようにして聞き入る。18:25-18:40 ATTNANG-PUCHHELMで乗換える。
19:30 よさそうな所なので、GOSAUの手前のBAD ISCHLで途中下車する。案内所が閉まっていたので、川の方へ行って宿を探す。ペンション風の建物があったが、鍵が掛かっていて誰も居ない。やむなく4スターのホテル『GOLDEN SCHIFF』に泊ることにする。大きくはないが『これがヨーロッパのホテルだ』と思わせる雰囲気が漂っている。1泊410シリング。食事はまあまあだが、コーヒーは頂けない。もっともこれでもオーストリアではトップクラスの味なのかもしれない。それに、出て来たお皿の殆どが、どこか欠けているのも気になった。

8月14日
08:33 BAD ISCHL発。満々と水をたたえた川沿いに列車が走る。対岸は切り立った山だ。所々に家が散在する。ヨーロッパに来て初めて釣り人を見る。ルアー釣りみたいだ。
08:52-08:56 STEEG-GOSAU あいにく山はガスっていて良く見えない。OBERSEEあたりから湖が見えてくる。幻想的な風景だ。
09:00 OBERTRAUN下車。降りてから気が付いたのだが、次の『OBERTRAUN HOF』で降りるべきだったのだ。駅名が似ていてまぎらわしい。やむなくひと駅歩く。『OBERTRAUN』は無人駅であったが、トイレは実にきれいに掃除されている。誰に会うこともなく、林間の田舎道を小一時間ほど歩いてOBERTRAUN HOF駅に着く。悪くないハイキングコースだ。
10:21 バスでDACHSTEIN BAHNケーブル駅に向かう。
11:20 ケーブルでKRIPPENSTEIN山頂駅着。ガスっていて展望なし。
11:52 GJAIDLM発、SIMONY HUTTEに向かって歩く。小雨。ほとんど人を見かけない。あたり一面、可憐な花、ごっつい花、赤い花、黄色い花等々、種類も数も豊富で、まさに広大なお花畑だ。はじめは花を摘んでポケットに入れていたが、これでは皆潰れてしまって可哀相だ。そのうちに雨が止んだので、傘を逆さまにして、その中に溜める。(後で押し花にした)
15:30 SIMONY HUTTEに着く。3時間半のコースタイムであったが、重いザックを背負って、途中昼食休みをとりながらこの時間に着いたのだから、まあまあだろうか。どこで捻ったのか、左足首が痛むのが気になる。小屋では若い人ばかりが目に付く。今夜はここ泊りだ。聞くと、明日この小屋からDACHSTEINに登る人はいないそうだ。ガイドがいて、1400シリングでDACHSTEINまで案内すると言うが、あいにく現金の持ち合わせが少ない。地図でよくルートを確かめ、氷河のクレバスに用心しながら、ひとりで登ることにする。

8月15日
05:15 起床。快晴。
06:00 日の出。
07:00 小屋を出る。宿泊代50シリング。コーヒー1杯35シリング。
 DACHSTEINへの標識も、トレースもない。地図だけが頼りだ。やがて現在位置が分からなくなり、1時間ほど徘徊する。ヨーロッパの地図は分かりにくい。(多分、私の見方も悪いのだろう。)氷河の端は、晩春の雪渓のように氷が薄い。また氷と地面とに間には、ギャップがあって、かなり深いみぞになっている。それに落ち込んだら、まず助からないだろう。地面から氷河に取り付くために、ピッケルとアイゼンをよく効かせて慎重によじ登る。氷河では飛び越せないクレバスを遠く迂回する。のどが乾くと、屈み込んで、氷面に溜まっている水をよく飲んだ。まっ黒い微小な砂のようなものが混じっているが、大いに助かった。
09:30 取り付き。
12:00 DACHSTEIN山頂(2995m)。ただの岩山だ。早々にGOSAU SEEの方向へと下山する。おそろしい急傾斜のガレ場をトラバースすることになる。踏み跡が見当らない。以前、前穂へ登ったときに間違って涸沢側のガレた岩場に迷い込んで怖い思いをしたことがあるが、ここはそのスケールをずっと大きくしたような所だ。こわごわと下っていたら、上の方から声が聞こえてくる。見上げると、ふたりのクライマーがしきりに手招きで、戻ってこいと合図をしている。また指で彼等の行く方向を示している。『こっちが下山ルートだ』と教えてくれているようだ。これは有り難たかった。用心して引き返す。滑落したら大変だ。はるか先を行くあの二人を追う。やがて20メートルほどの高さで70度はあろうかと思われる雪の急斜面に出る。彼等はザイルなしで下りていったようだ。迂回出来そうな場所が見当たらない。雪壁にしっかりと山靴を蹴り込んで、ゆっくりと時間をかけて下りる。ザックが重いので、バランスをとるのが難かしかった。
14:10-14:50 ADAMEK HUTTE。
15:00 HINTERER GOSAU SEEの湖にでる。『秘湖』と言われている静かなみずうみだ。
18:30 VORDERER GOSAU-SEE KLAUSTUBEまで下りる。満々と濃緑色の水をたたえた鏡のような湖面には、DACHSTEINをはじめ、雪を頂いて切り立った壮絶な岩山が映っている。絵のように美しい所だ。『ザルツカンマーグートの真珠』と言われているのだそうだが、よくぞここまで来たとの感を深くする。残念ながら、どこの宿も満室で、泊れる可能性は無いらしい。もっとも仮に空き室があったとしても、この辺ではトラベラーズチェックもクレジットカードも使えない。現金オンリーだと言うから、SALZBURGまでの交通費も必要だし、400シリングあまりの持ち金ではとても足りない。GOSAUゆきの最終バスは、とうに出てしまっていた。GOSAUまではここから25キロもあるのだそうだから、歩いて行けば今日中に着けないだろう。既に12時間も行動をして来たので、くたくただ。とはいっても、夜は冷え込むだろうから、シュラフ無しの野宿は無理だろう。行くしかない。肩を落として少し歩いていたら、駐車場があった。1台の車が出ようとしている。駆け寄って、載せてもらえないかと藁をも掴む思いで頼んでみたところ、気持よくOKしてくれた。フランスから観光に来ているという、中年の夫婦だった。
 GOSAUへ着いたが、鉄道はずっと先のSTEEGまでしか来ていないという。ふたりはここでも、いやな顔もせずSTEEGまで行ってくれる。親切な人に出会えてよかった、日本刀の形をしたペーパーナイフをお礼にさしあげたら、サムライ・ナイフといって喜んで受け取ってもらった。こんなものでも、持って来てよかった。
19:30 駅に着く。どの列車に乗ったらいいのかと聞くのだが、駅員に英語がさっぱり通じない。こうなったら、どこ行きでもかまわない。野宿よりましだと、たまたま停車しているのに乗ろうとしたところ、「SALZBURG」と私が言っていたのが分かったのだろう、駅員のひとりが走って来て、別のホームへ連れて行ってくれた。
19:51 出発。
20:40 ようやく日没。ヨーロッパの夏は陽が長くて助かる。
21:18-21:30 ATTNANG PUCHHEIM。
22:15 SALZBURGで降りる。この時間に観光案内所はもう開いていない。電話帳をめくってめぼしいホテルに電話をしてみたが、状況は前回と同じでどこも一杯だ。あの時のペンションの電話番号をメモしていなかった為に問い合わせが出来ない。日本での山行の時のように駅で寝るしかあるまい。待ち合い所には、既に数組の先客があった。国際色豊かだ。新聞紙を敷いて床に寝ようとしたが、あまりもの汚さに、これは諦めた。日本とは随分違う。すこし無理だが、一人用椅子数脚の上に跨って横になる。疲れているせいか、すぐに寝入ってしまった。それでも身体のあちこちが痛くなって、3時、4時、5時と、夜中に何度か目を覚ました。

8月16日
05:15 起床。駅前にある4星クラスのホテル『HOTEL EUROPA』へ朝食に行く。顔を洗おうと一般客用のトイレへ入ったところ、なんとシャワーがあるではないか。何故かシャワーに仕切りがないが、この時間に客が入ってくることもあるまいと、有り難く全身の汚れを落とさせてもらう。さっぱりとしてホテル最上階のレストランへ行くと、思い切り豪勢な注文をした。ここも宿泊客の殆どは日本人だ。私はといえば、着替えがない為に、かなり汚れて痛んでいる薄っぺらなズボンに、よれよれのシャツという出で立ちである。しかし、ウェイターは終始しごく丁重に扱ってくれた。だが支払いの時になってあわてた。ポケットにあまり現金が無いので、おもむろにクレジットカードを出したところ、「ここでは取り扱っていない」と言う。さあ困った。ばたばたしたが、ホテルのCASHERでなんとかトラベラーズチェックを現金に換えてもらうことが出来た。前回はあわただしい観光だったので、今日はのんびりすることにする。ザルツアッハ川の対岸にある小高い丘からは、町が一望に見渡せる。その丘にある公園『HETTWERBASTEI』でスケッチをしていたところ、近くのベンチで寝ていた数人のホームレスのうちの一人が起き上がってきて、驚いたことに、きれいな英語で私に話しかけてきた。髭は伸び放題で身体から異臭を放っている。(私もかな?)今は家を失い放浪の生活をしているが、以前は射撃の選手をしていて、東京オリンピックにも出場したことがあるという。本当かなと、首をかしげたくなったが、感じとしては人品いやしからず。ヨーロッパのホームレスは違うのかもしれないと思って、一緒に肩を組んで記念写真を撮る。後日出来上った写真を見ると、彼は羽根のついたチロリアンハットを恰好良く被っていた。
15:45 SALZBURG発。途中、車窓からWATZMANN(2713m)らしいのが見える。登山を予定していて止した山だ。いい姿をしている。しかし、昨日随分歩いた後なので、途中下車をして登る気力はもう無い。やはりパスしよう。
 川幅が100メートルもあろうかと思われる、満々と水を湛えた川沿いを汽車が走る。ここにも釣り師が全く見当たらない。流れてゆく景色をぼんやりと眺めながら考えた。昨日はかなりの難所を苦労して乗り越え、突破してきた。充実した1日の筈なのに、下山する時に感じた『空しさ』は一体何だったのだろう。今も、好きな旅をしているというのに、心が満ち足りているとは言い難い。倍賞千恵子の歌をウォークマンで聴く。ひさしぶりの『日本のうた』に、ジーンとして、豊かな気持になる。『音楽は、私にとって一体何なのだろうか』
17:00 中世から知られているという温泉地BADGASTEINに着く。駅から、ぶらりと町の方向へ歩いて行き、ここでは2番目ぐらいに大きそうなホテル『HOTEL WEISMAYR』に入る。案内された部屋の広さと、その天井の高さ、ハプスブルグ朝風の豪華な調度品が、すっかり気に入る。こんなりっぱな部屋に泊ったことがない。王侯貴族にでもなった気分だ。大きな窓には、雲一つない透明なコバルト・ブルーの空と深緑の山が映えて、目にしみる。日本を離れて以来初めて入る風呂(しかも温泉)に、ゆっくりとつかって出ると、ふかぶかとしたソファーに座り、足を足台に乗せて、メイドさんが持って来た冷えたビールをジョッキで一気に飲む。空気が乾燥していて爽やかな風が半裸の肌に心地よい。ここではモーツァルトの曲がぴったりだ。『レクイエム』を聴く。『神様、生かして頂いてありがとうございます』という心境になる。なんという曲なのだ! 窓外の高い木立ちが大きく揺れている。自分の意志で動いているかのようだ。初めて見る光景のような気さえする。遠くに教会の鐘の音が聞こえてくる。ふと、ゲーテの『ファウスト』の一幕と芹沢光治良のスイスの田舎を描写した文章の一節を思い出す。

8月17日
 カイザー・ウイムヘルム・プロムナード、片道45分の自然遊歩道を散策する。結構楽しいコースだ。思わず2時間かけてその先のGRUNA BAUNまで行ってしまう。森の中ではリスや小鳥が人の掌の上に乗って餌を食べるのには驚かされる。日本のにそっくりな杉林もあった。爽やかな良い天気なので、ホテルの前の広場で何人かが、立ったままで50センチほどもある大きな駒を使ってチェスを楽しんでいる。その中でひとり勝ち進んでいるのは、日本人の若者らしい。屋外演奏場では、吹奏楽団がクラシック音楽を演奏している。平和だ。

8月18日
 朝、小雨が降っていたがすぐに上がった。昨日は日曜日で店が閉まっていたので、ウィンドウ・ショッピングをして目をつけていた『BLOOD STONE』のアクセサリーを、列車の出発前に立ち寄って、女房へのおみやげに買い求める。(ここにしか無い黒い石だそうだが、大変好評だった。)
 ロッククライミングを目的にユーゴスラビアに長期滞在している学生、赤沼君とイタリアのドロミテ山群にあるトレ・チマを登る約束をしているので、今日中にコルチナ・ダンベッツオに行かなくてはならない。トレ・チマはそれぞれ約800メートルの壁を持つ3つの岩峰からなっており、ヨーロッパ屈指の有名な岩場として知られている。また赤沼君は白山書房の『クライミングジャーナル』でおなじみの、出来るロック・クライマーだ。私にとって願ってもない岩壁登攀行である。
11:40 BADGASTEIN発。
12:27-12:30 SPITTAL-MILLSTATTERSEEで乗換え。
13:24-14:06 LIENZ着。多少トラブったが、無事駅留めになっている登攀要具を受け取る。東チロルの中心地と聞くが、30分もあれば殆ど見て回れそうな、小さな町だ。
15:06 CANDIDO-INNICHEN着。駅名の表示はどこにも無かったが、皆が降りるので、後について行く。CANDIDOよりDOBBIACOまでは無料バスがあった。そこまでは順調に来たが、DOBBIACOからCORTINAへ行くバスは18:18まで無い。ここはイタリアだ。イタリアでは置き引きに用心せよと聞いていたので、ザックから離れられず、駅の近くの野原で出発までの時間をつぶす。
19:00 CORTINA着。バス停には赤沼君が迎えに来てくれていた。東京で予約していた超一流ホテル『STEFFANI CHESA GUARDALEJ』で会うことにしていたのだが、ホテルを探す手間が省けて助かった。予約はキャンセルして彼の安宿『CRISTALLO HOTEL』に泊ることにする。超一流ホテルを止したのは、費用の問題もあるが、登山をする者として、贅沢に過ぎるのは、心に引っ掛かるものがあった。BADGASTEINのあの素敵なホテルも、初めは強烈な印象を受けたが、2日目には、普通の『温泉地のいいホテル』に泊っている程度のものになっていた。もっと居たら、あるいは飽きていたかもしれない。ものには『プラス』と『マイナス』、『動』と『静』、『生』と『死』、『有』と『無』など、相反するものがあるが、その相反するふたつは、実はお互いに依存しているのかもしれない。広い意味では、あるいは同一のものかもしれない。温泉地での当初の感激と、それまでの辛苦の山行とは無関係とは言えないのかもしれない。このようなことは、理屈で理解は出来るが、汗にまみれた行動を伴ってはじめて実感する場合があるのかもしれない。このような事を考えていたら、赤沼君はまったく違う次元で、彼の考えを話してくれた。彼とは多くを語り合ったが、それは議論というよりも、彼の詩を聞いているような気分だった。先鋭のクライマーで若い彼は、『自信』と『不安』との屈折した複雑な心境にあったのかもしれない。それは生身の刀をひっさげた、傷付いた戦士のようにも見えた。彼の話の内容の殆どは同意しかねるものだったが、その姿勢にはまぶしいものを感じた。たとえば、このようなことを話していた。『結婚という、べたべたした人間関係は持つべきではない』『難民は全て受け入れるべきだ。そのために、日本の治安や労働条件が悪化してもやむを得ない』『戦前、戦中の問題は、全て日本側に責任があるのだから、日本は無条件に世界に謝罪すべきだ』『今の日本は全て抑圧の世界だ。朝日新聞でアルバイトをしたことがあるが、日本の新聞は保守的、右翼的で政府に迎合し過ぎる』『このような国には水爆でも落ちるがいい。自分は酒を飲みながらそれを眺めて、共に破滅するのも悪くない』彼が将来、もし人を愛し、また子供でも出来た時に、どのようにその考えが変わるのだろうかと、意地悪なことを考えたりした。
 夜になって、世界のトップクラス・クライマー、パトリック・エトラージェの講演を聞きに行った。と言うよりは、彼と彼のクライミングのスライドを見に行ったと言うほうが正しいのだが、会場はむんむんとした熱気に包まれていて、来聴者で一杯だった。すごい人気だ。そこで、新潟から来たという人と知り合う。彼は『宿がどこも一杯で泊れない、仕方がないから今夜は駅泊だ』と言っていた。道理で日本からは超一流のホテルしか予約出来なかったわけだ。赤沼君の宿に泊まれたのは幸運だったのだろう。

8月19日
 登攀用ギヤの補充と食糧の買い出しをして、14:30発の最終バスに乗る。
16:50 MIZURINAで下車する。ここからトレ・チマまではかなりの距離がある。重いザックを背負って舗装道路を歩くのはしんどいが、この時間になるとヒッチハイクしか交通の便はない。通過する車に、片っ端から手を差し伸ばすのだが、全然相手にしてもらえない。スピードを落とそうとする気配すらない。親指を立てて道路の脇にたたずんでいたら、放し飼いされている大きな牛が数頭寄って来た。これは恐ろしいものだ。おもわず逃げ出すと、なおも追ってくるのには参った。車もあまり通らなくなったので、あきらめて今夜はMIZURINAに泊まることにする。しかし、宿を尋ねてみて、がっくりした。どこも満室なのだ。ある宿では、「ほんの少し前にも、泊めて欲しいと尋ねて来た人がいたけれども、その人も諦めてよそへ行ってしまった」と言われる。期待はあまり持てないが、兎に角トレ・チマの方角へヒッチ・ハイクのスタイルを続けながら歩くことにする。悪いことに雨が降りだす。たまらず飛び込んだレストランにかわいらしい娘さんが居たので、店の片隅にでも泊まらせてくれるようお願いしたが、つれなく断わられる。すっかり弱っているところに、われわれが行こうとしている山小屋、『RIF AURONZO』の名前が書かれているライトバンに出会った。町で食糧の仕入れをしての帰りだったらしい。何と言う幸運! 荷物で一杯なのだが、親切な人が乗っていて、無理をしてわれわれの為にぎりぎりのスペースを作ってくれる。ようやく小屋に着いて、ほっとしたのだが、受難は続き「空き部屋が無いから泊めるわけにはいかない」と断わられる。そこを何とかと必死に頼みこんで、ようやく仕事用の小部屋を使わせてもらうことが出来た。『本当にご苦労さまでした』今日は『難度6級』だった。小屋は新しくて結構大きい。チマ・グランデ登攀のベースとして知られているのだが、宿泊者の殆どがドロミテ山群見物の観光客のようだった。誰彼かまわず『トレ・チマ登攀ルート』を尋ねるが、小屋の人を含めて誰も「知らない」と言う。「何と言う山小屋だ。明日は出たとこ勝負しかない」

8月20日
05:00 小屋を出る。目もくらむようにそそり立つ大岩峰に圧倒される。『このような垂壁を本当に登れるのだろうか』と思ってしまう。
07:30 三岩峰『オベスト』、『グランデ』、『ピッコラ』の内、オベストに取り付く。赤沼君がトップであちこちとトライするが、どうしてもルートが分からない。とうとう昼過ぎになってしまった。時間切れで敗退する。小屋に帰り、たまたま食堂に居合わせたオーストリアのクライマーに声を掛けたところ、彼等は「昨日『オベスト』をやった。明日は『グランデ』をやるので一緒に行ってもいい」と言ってくれる。

8月21日
08:00 オーストリアのチームは男性2人、女性2人の4人で、われわれ2人はそれに続く。『グランデ』の一般ルートの取り付きは、雪と岩壁の間の狭い所を壁ぞいに移動しなくてはならない。雪が邪魔をしていて、かなり近づかないとちょっと分かり難い。ここは日向と日陰の寒暖の差が激しい。取り付きは日陰であるために、しょっぱなから雪と氷のクライミングとなる。われわれ2人は真夏の恰好をしているので、待ち時間の間に身体が冷え切り、登り出すと指がかじかんでつらい思いをする。なかなか陽が射してこない。皮下脂肪の少ない、スマートな赤沼君が盛んに寒さを訴える。さらに登ると、今度は風化が進んでいてぼろぼろの岩だ。ピンはまったく効かない。従って残置はない。フレンズだけが頼りだ。落石も避けられない。先をゆくイタリアのパーティーが落とした落石がオーストリア隊の女性の手を直撃した。彼女はその痛さに泣きだしたが、結局あきらめずに完登した。偉いものだ。切り立った800メートルの垂壁は、流石に高度感がある。ぼろぼろの岩はいただけないが、結構手掛かりがあって、登攀の難度としては、見掛けほどのものではなかった。
12:00 山頂。雲ひとつない快晴。グランドキャニオンを連想させるような壁と岩肌を持つドロミテ山群の岩峰群と、なだらかな斜面に広がる牧草帯が一望され、眼下には、隣の『オベスト』と『ピッコラ』の垂壁が、吸い込まれるように深く切れ落ちている。
 オーストリア隊と一緒に記念写真を撮ると、下山を急ぐ。懸垂下降をするには、立ち木も確保する支点も無いので、落ちている丸太を岩と岩の間に適当に置いて、それにザイルを懸けるしかない。不安だ。2ピッチほどはザイルを使ったが、怖いので、小石のガレる急斜面をスキーを滑る要領で下る。二度とやりたくない、いやな下降だ。
 20:30までの夕食に間に合うように頑張った甲斐があって19:30に小屋に着く。ガスってきたので薄暗くなってはいたが、ぎりぎりヘッドランプを使わないで済んだ。後から下りて来たオーストリアの4人組とビールで喜びあう。

8月22日
11:30 始発のバスに乗って、昼すぎにCORTINAに着く。ST.MORITZ方面へ行くバスは16:05まで無いと聞き、ショッピングでもしようかと思ったが、どの店も正午から5時まで閉まっている。旅行案内所も旅行業の事務所も4時までは開かないとのこと。これではST.MORITZより先の予定が組めない。町の広場にある椅子に座ってぼんやりしていると、あのオーストリアの4人がやって来た。しばし歓談する。
16:05-19:25 BOLZANOまでバスで行く。BOLZANOの女性警官にST.MORITZ行きのバスを尋ねると「黄色のバスに乗りなさい」とバス停まで親切に連れて行ってくれる。黄色のバスに乗る。バスの運転手に「この車はST.MORITZへ行くのか」と聞くと、「そうだ」と答える。しばらく走って、どうも様子がおかしいので、もう一度同じ質問をすると、「このバスはST.MORITZへは行かない」と今度は正反対のことを平然として言う。「それでは、ST.MORITZ行きのバスはどこで乗ったらいいのか」と聞いたが、はっきりとした返事がない。なおもしつこく聞いたら、「ここだ」とぶっきらぼうに答える。とんでもない辺鄙な所だ。頭に来たが兎に角降りて、反対方面へ行くバスで、元のバス停に戻る。今度は観光案内所で場所を教えてもらって、中央バスセンターへ行く。バス会社の職員にST.MORITZ行きのバスの発車時間を尋ねたところ、驚いたことに3人3様、皆答が違う。流石はイタリアだ。ある職員などは「ST.MORITZへ行くバスなど無い」と言う始末だ。時刻表もあるのだが、イタリア語なので、さっぱり分からない。そのうちに事務所を閉める時間になる。玄関の鍵を掛けようとしている、比較的しっかりしていそうな職員にくどく質問したところ、彼は事務所に残っている何人かと相談をしてくれて、「明日朝8時に出る」と教えてくれる。それを信じよう。万一の変更に素早く対処出来るよう、なるべくバスセンターに近いホテルに泊まることにする。ここで次の予定のピッツバルニナ峰(4055m)登攀について赤沼君と話し合ったところ、慎重な彼は中止を主張する。思ったより天候が悪いこと、装備が不十分であること、予備日が十分でないことなどが理由だ。その意見に従うことにする。そうと決まると、早速帰国のフライトの予約を確認しなければならない。ところが、このホテルでは航空会社の電話番号が分からない。今回日本で私の旅行の斡旋をしてくれた『マウント・トリップ社』のST.MORITZのエージェントに電話をするが、なかなか繋がらない。フロントのお嬢さんにチップ3000リラを払って、明日そのエージェントとの予約交渉をしてもらうように頼む。(結果的には、彼女も連絡できなかったようだ。エージェントの事務所がなんと夏休みでしばらく閉まっていたのだ。)

8月23日
 夜中の3時頃、2人とも喉が乾いたので目が覚める。一緒に起き上がり、冷蔵庫の飲み物を片っ端から飲む。
06:30 モーニングコールで起こしてもらう。
08:30 ST.MORITZ行きというバスに乗る。『よかった』バス会社の人は10時ごろにはST.MORITZに着くだろうという。バスはイタリア北部の村を通り、曲がりくねった山岳道路を走る。かなり急な坂道を大勢自転車を漕いで登っているのに驚く。なるほど、イタリアでは自転車競技が盛んなのだ。昼近くなると天気が崩れてきて、雪が降り出す。
12:00 バスはSTILFに着く。高度2760メートルあるというSTELVIO峠付近は一面に雪景色になっている。なんと、わがバスの運転手君が「ここから先には行かないから降りるように」と言う。「何たる事だ!」 ST.MORITZまでまだ100キロ近くはあるそうだ。峠にはレストランなどが入っている大きな建物はあるが、外は寒い。気の毒に思ったのか、運転手君も一緒になってここからST.MORITZへ行くバスの便を探してくれるが、なかなか見付からない。ようやく14:50に便があることを運転手君が発見してくれる。雪はみぞれ混じりとなり、やがて雷を伴ったひどい降りになる。待ち時間中に近くの山に登ろうなどと思っていたのだが、とんでもない事になってしまった。この調子だと、われわれのバスが動くかどうかが心配になる。2時間のつもりが1日のドライブになってしまった。
14:50 予定通りバスが出る。
17:00 ZERNEZ着。ここからは汽車に乗り換える。その方が早いからだ。
17:25 ZERNEZ発。
18:00 ST.MORITZ着。駅に近くて、きれいな湖を前にした、小さなホテル『HOTEL STEINBOCK』に泊ることにする。マウント・トリップ社のエージェントである斉藤氏の自宅に電話をしてフライトの確認を頼んだところ、私の「帰りの飛行機便の予約はソウルまでは入っているが、ソウル-東京間は入っていない」「東京までは満席で3日間のウエイティングになっている」と事務的に言う。いろいろ話したが埒が明かない。到着時にZURICHのエージェントである淵田氏とZURICH空港で会った時には、「帰りの予約は一応入れてあるから、出発前にそれを再確認するように」と言われていたのだ。もっともその時、淵田氏にKOREAN AIRLINEのチューリッヒ事務所の電話番号を尋ねると、「誰でも知っているから」と言って教えてくれなかった。多分メモ帳を忘れて来ていたのだろう。おかげで、私は直接航空会社との連絡をとることが出来なかったのだ。いまさら仕方ない。兎に角ソウルまで行こう。

8月24日
05:00 起床。
05:15 ホテルを出る。赤沼君が私のザックを持って駅まで送りに来てくれる。スイスはどこもそうだが、ここの駅も掃除が隅々までよくゆき届いており、整然としている。コピー機まで置いてある。温度、摂氏17度。くもり、小雨。
05:40 定時に列車出発。
10:13 チューリッヒ空港駅着。カウンターでソウルからの便について問い合わせると、確かに28人がウエイティングだが、私は最優先のポジションにあると言う。
11:50 ZURICH発。

8月25日
16:10 ソウル着。
18:00 ソウル発。
20:00 成田着。


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