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編集後記

 12年半ぶりの北海道旅行は、下山しては温泉に入り次の登山口までクルマで移動する、というパターンであちこちの山々を攻めて行くさすらいの登山旅であった。
 北海道はクルマがないと移動が至極不便だとは言うが、それは逆に現代の発達したクルマ社会にあってはクルマがあればすごく便利だということだ。北海道はひと昔にくらべたら道はずいぶん良くなっているし、クルマ前提でつくられたキャンプ場はどこもきれいに整備されているし、コンビニはどこにもあるし、正に便利で快適なドライブ登山旅であった。
 しかし、である。整備された道路にしろコンビニにしろ便利さと快適さは増したかもしれぬが、地方色はどんどん消されてゆく。その土地の風景、その土地の味覚、その土地のぬくもりといったものが、画一的なアスファルト舗装やプラスチック看板の下に少しずつ塗り込められていっているような気がする。それは恐ろしくさびしいことだ。記憶にあるひと昔前の北海道は現在よりもっとフロンティア的なにおいに満ちていた。如何なるフロンティアも時代とともに開拓のロマンが薄れて行くのは当然なことであり、そんなにおいを求めるのは部外者の勝手な思い込みに過ぎないのかも知れない。しかしそれは部外者の眼には北海道が個性をなくしつつある姿に映るのだ。
 日本はつまらない国になりつつあるのではないか、となんとなく思い始めたのは三峰に入って間もない頃であった。こどもの時分、旅行に連れていってもらうと車窓の景色が珍しかった。見慣れない形の家々や自宅周辺とは全然様子の違う街並みには、自分のまったく知らない風が吹き、嗅いだことのないにおいが漂っていた。しかしそうした町々は高度成長の時代、開発の洗礼とともに土地のにおいやぬくもりを徐々に削ぎ落としてしまったような気がする。地方の街並みは金歯銀歯がのぞく醜悪な入れ歯風町景色に変わってしまい、そこへ通じる道路も着馴れたきものやもんぺから"機能的"だがぎこちない制服に着替えさせられてしまったかのようだ。地方開発は全国的な均質化を推し進めたが、生かすべき個性もつぶしてしまったように見える。旅の面白さが減ってしまった。
 そんなことを今回、北海道のコンビニで強く感じた。千数百キロ以上も離れた気候風土もまったく違う土地の人間が、自分の町にあるのと同じ造りの店で同じ工場で作られたカレーを買い同じ味の煎餅をかじっているのを知ったときは、ショックだった。「いくらなんでも行きすぎではないのかこれは」、と唖然とした。
 その後しばらくして盛岡を訪れたときも、同じような感慨に襲われた。森岡には以前から思い込みがあった。昔よく聴いたカセットの中に「モリオカというその響きが、ロシア語みたいだった」という歌の一節があってさぞかしエキゾチズムに満ちた街なのだろうと勝手に思っていたのだが、タクシーの窓から見た駅周辺の街の印象はどこにでもありそうなのっぺりとした地方都市の顔であった。
 コンビニ商品の流通にしても、地方都市の開発にしても、両者を支配しているのは経済効率優先の論理である。それがもたらす弊害はかねてより指摘されてきた。経済第一×開発=善という方程式では満喫感ある暮らしは得られない、立ち止まって進むべき方向を考え直すべきだと言われながらも、生活はどこか不満足感を置き去りにしたまま上滑りして行く。
 内部の多様性を失った民族は弱体化して行くのではないか、というのが私の危惧である。ユダヤ思想の中に「全員一致の意見というのは良くない意見である」という考え方がある。彼らには昔サンヘドリンと呼ばれた民族の最高意思決定機関があったが、そこでは最低ひとりの反対者がいなければその意見は採用されなかったという。それほどまでに意見の多様性を重視した。伝統的にユダヤ人の教育の基本は、議論を通して柔軟な発想を訓練し自分自身の意見を形成させるということにある。発想の多様性を確保することが人生や社会を豊かにする、というのがヴァイタリティ溢れるこの民族の考え方である。
 同じことは、森についても言えると思う。山を歩いている人間ならば、単一樹種で下草がきれいに刈られた材木畑の寂しさと、対照的に雑多な下草が生え樹種の混交した森の賑やかさを体験的に知っているだろう。大げさに言えば、生命の息吹が感じられない森林と生命力が躍動する森林の違いである。森はひとつの生きものであり生物の多様性が森を生かしている、というのが先人の教えである。
 我々の国も地方文化の多様性のなかに将来が開けてくるのではないだろうか。文化の発展は原子力のように常に他者との融合と分裂からエネルギーを引き出してきたからである。その発展プロセスに我々は生活の満足感を覚えるのではないか。文化醸成は豊かな生活のための必要な投資であると考え、経済効率優先の価値観は捨て去らなくてはならない。それは加速する国際化への対応をも準備する。国際化が民族の個性の自覚、自らのアイデンティティの把握のうえに成り立つものならば、民族に内在する多様性の活性化はそのためにも不可欠なこととなるはずである。

(服部)

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