トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ291号目次

安達太良山くろがね小屋
服部 寛之

山行日 1996年2月10日~11日
メンバー (L)服部、高木(俊)、谷川

 しばらくご無沙汰している三斗小屋温泉へまた行きたくなった。そこで、16年間熱心に通いつめている三斗小屋の巨匠、オークボ氏にお伺いを立てた。
 「おい、おまえいつ三斗小屋に行くの?」すると、
 「ことしはべつのとこにしよう」と意外なおへんじ。
 -ウ~ム、巨匠といえどもこう毎年ではさすがに飽きたか・・・・。
 「で、どこよ?」
 「ウーン、まだ決めてない。どこかあたらしいとこ」
 「そうか・・・・。それじゃ、あだたらのくろがね小屋はどうだ」
 「あだたらか、いいな。くろがね小屋はまだ行ってないしな」と即決であだたらしいあだたらのくろがね小屋にあだたに行くことになっただ。ここでなぜかいきなり濁音的になまってしまったが、あまり気にしないように。あだたらあたりではことばになまりはつきものだし、しかもくろがね小屋ではお湯だって濁っているという話なのだ。
 実は、安達太良には何度も来ている。巨匠の伯母上がかつてこの山の中腹に住んでおられて、たびたびおじゃましていたのだ。空気はピュアに澄んで、景色もきれい。行くといつも気分よく歓迎してくれて、アツアツごはんに伯母上特製の辛~い唐辛子の佃煮をのせて喰うとこれが涙がちょちょりでるほどうめいうめい。たらふく喰ったあとはおつりがくるようなクラシックな厠でフンばり、空気が冷えて肌も引き締まってくる夕方、戸を開け放して浴びるひとふろはまさしく正調五右衛門風呂であった。焚き付けの煙が目にしみて、扉の向うの紺碧の夜空に星がにじみ、裏の畑では伯母上が丹精込めて育てた野菜たちが虫の鳴声を子守歌に静かに眠っていた。夏には近くの茂みでスグリもたんと採れるスグリたところであった。伯母上はさっぱりとした人柄のなかなかおもしろい御仁で、ガキの自分からみるとすっかりおじさんめいたであろうオークボ氏を「てぇつ」となまり呼びして目を細めておられたが、しばらく前に亡くなられた。そのうちお墓参りをと思いつつも、不義理で未だに果たしていない。
 未来の巨匠とともに伯母上を訪ねていたその頃は安達太良の頂上へ登ってみようなどという気はさらさらなく、眼中には温泉あるのみで、入湯目標の完遂めざしてひたすらクルマを走らせていた。だからクルマで行けない山奥にあるくろがね小屋が最後まで残ってしまうのは当然すぎるほど当然だったのである。
 だがある日、その伯母上の家から北へ少し行ったところの沼尻スキー場の上から、沼ノ平を経て鉄山に登ろうとしたことがあった。もうずいぶん前のことでいつだったか正確には思い出せないが、巨匠とおれが三峰に入って間もなくの頃だったと思う。われわれ二人と、それに確か美女Mがご一緒であった。白糸の滝を過ぎると、長い樋に源泉を流して湯ノ華をとる大きな施設があった。霧まじりの強い西風に追い上げられるようにさらに登り、狭い谷を通り抜けると、突然、月世界あるいは猿の惑星かと見紛う荒涼とした場所にでた。そこは周りをぐるりと高い崖に囲まれた完璧にまるい平坦地で、まさしくクレーターの底であった。立ちすくむわれわれの頭上を乳白色の烈風がびょうびょうと吹きすさんでゆく。突如的SF世界に紛れ込んだわれわれは、この異常景観に一気にぎょうてんした。
 「な、なんなんだ、ここは!」
 だがわれわれはひるむことなく、果敢にもクレーターを横切ってなおも前進を続けた。われわれの足跡が乾いた表土の下の黒い湿土層の存在を点々と浮き上がらせて行く。そうしてクレーターの中央付近まできたときであった。ふと気がつくと、追い風を受けていた背中のザックがなんと真っ白に変色しているではないか!
 「うわっ、こ、これを見ろ!」
 それまでそんなことを経験したことのなかったわれわれはぎょうてんメーターの針をさらに大きく振幅させた。もはや激しく流れ去る霧のむこうからいつUFOが現れて宇宙人と戦うハメになってもおかしくない状況であった。決断の時が迫っていた。
 「撤退するべ」
 われわれは決然とキビスを返すと、とっとと下山行動に移った。だが今度は強い向かい風に真っ向から対することとなり、われわれはなおも厳しい烈風との苦闘を強いられたのであった。
 湯ノ華の採取施設まで戻ると、われわれはさきほど偵察しておいた作業小屋の裏手にまわった。作業小屋は裏半分がなぜか壊れていて、破れた板壁の中には青い養生シートで漏水止めされた浴槽にドボドボと豊かな源泉が注ぎ込んでいたのである。冷たい烈風から逃れるのにもはや躊躇はなかった。われわれはその無料破れ小屋温泉の浴槽でようやく人心地を取り戻し、今考えるも異様なこの超常体験を通して一段と固くなった結束を確かめ合ったのである。オークボ氏とおれと同行の美女Mが、その狭い浴槽の中で、固くなった結束をどんなことして確かめ合ったのか、それはここには書かない。興味シンシンだろうけど、書かない。それがみんなのいちばん知りたいところだろうが、教えてやんない。濡れたヨクジョーの中で固くなったのは結束だけではあるまいに、などと思うのは、ムフムフッ、勝手であるよ。
 その後だいぶ経ってから、おれは菅原氏リーダーの石筵川の沢登りの例会に参加したことがあった。これもいつだったか正確には覚えていないが、おれがクルマを運転をするようになって間もなくのことで、中沢氏から譲り受けた白いハイエースバンで行った覚えがある。石筵川は安達太良山の南面につきあげる沢で、この時は磐梯熱海温泉の、当時まだできて間もないユラックスとかいう大きな温泉保養施設で遊んでから、なつかしい母成グリーンライン(巨匠の伯母上の家はこの道路沿いにあった)の途中にクルマを停めた。その日は銚子滝のすぐ上あたりに幕を張り、翌日ナメの美しい銚子沢を遡行し、乳頭山南側のきれいな湿原をつめて登山道に上がり頂上に立った。それまで何度も来ていた安達太良山に登頂したのは、そのときが初めてであった。頂上の岩にすわって行動食を食べながら眺めた、いま詰め上げてきたばかりの源頭湿原の風景は、忘れられない。
 その後安達太良にいったかどうか記憶はない。行ったとしても、巨匠と伯母上の家を訪ねたくらいだろう。だから今回のくろがね小屋の例会は、おれにとってはひさびさの安達太良山登山行であったのだ。
 と、ここまで書いてフト気がついたが、これまで長々と書いてきたことは今回の山行とはぜんぜん関係ないのだ。従って、本来の山行報告はまだ始まってもいないのだ。
 なんてこった。

*   *   *

 今回のくろがね小屋行きは、冒頭にも記したように、あくまで温泉が主眼であった。当然行くつもりでいたオークボ氏が仕事の都合で参加できなくなってしまったのは、非常に残念であった。
 くろがね小屋に行こうと思ったのは、おれが最初に買ったシーナ本『ハーケンと夏みかん』(山と渓谷社)の中の『安達太良山湯けむり真実紀行』という一編を読んだことからだ。「夏みかん」に関しては、ここでは詳述は避けるが、三峰に入る以前オークボ氏ら大学温泉仲間との三斗小屋温泉行にからんで、「夏みかん危機事件」というのがあり、『安達太良山・・・』の一編の中で椎名誠ら一行が試みた温泉アホギャル排除の課題は、まさにわれわれ温泉仲間が卒業後取り組まざるを得なくなった課題でもあった。モンダイ意識の奇妙な一致から、このアウトドア紀行本は気に入っている一冊なのだ。くろがね小屋の湯が濁っているというのもその一編から知ったことである。その本を読んだのはもうずいぶん前のことだが、同じ頃「岳人」でもくろがね小屋の紹介記事を読んだ記憶がある。こちらは確か冬の始め頃の小屋の写真が出てた。そんなことから、くろがね小屋行きは長年の案件であったのだ。
 ころがね小屋は安達太良山の東面中腹、あの美女Mとの一件が付いた異次元クレーターと尾根を挟んで反対側に位置する。あだたら高原スキー場まで入ればたいした時間もかからず小屋まで行けそうなので、朝東京を新幹線で発って初日に小屋に入り、翌日できれば頂上をめざすことにする。
 10日の朝、待ち合わせの東京駅新幹線ホームは人であふれ返っていた。連休なのである程度の人込みは予想していたが、これ程とは思わなかった。おれは谷川氏と一緒になれたが、高木氏は確認できず、そのまま新幹線に乗って郡山で降りたところで高木氏と無事合流できた。ローカル線に乗り換えて二本松まで行く。駅からタクシーでスキー場まで入るが、ふもとの岳温泉までは道路に雪はない。二本松辺りは雪で埋っているものと思っていたので、拍子抜けしてしまった。
 スキー場まで上がるとさすがに雪が降っていた。駐車場はすごい量のクルマでびっしりだ。ゲレンデ前のホテルの乾燥室入口を勝手にかりて身支度を整え、12時15分出発。登山道はゲレンデのレストハウスの前に大きな標識が立っていて、ゲレンデ北側の木立の中にりっぱな道がついていた。
 しばらく耳障りなゲレンデの音楽を聞きながら、雪のトレースをたどる。まったく、スキー場のBGMほど山で迷惑なものはない。電車内の携帯電話、右翼の街宣カーと並ぶ日本三大ご迷惑音声のひとつではないか。日本の金融業者とテレビディレクターとスキー場経営者の良識は今や地に落ちた感がある。
 やがてBGMの騒音から開放されるところまで来ると、樹林の斜面は終わってだだっ広い勢至平に出る。夏なら登山道をたどれば何ということはない楽な道だろうが、今は股下までもぐる一面の雪原と化している。吹雪いてはいるが、視界はけっこうある。200mくらいか。勢至平から上部の峰は完全に雲の中だ。登山者のために赤布をつけた竹ポールが点々と立っていて、ありがたいことです。次の赤布を捜しながらラッセルを漕いでいると、後から来た山スキーのパーティーに追い越された。勢至平を抜けたところで壊れた標識にぶつかり、左手に折れて再び木立の切り通しの中を進んでゆくと、道は深い谷に沿うようになった。地図ではくろがね小屋はもう間もなくのはずである。道はその先で谷に下りるのと直進するのと二手に別れていたが、楽そうな気がした直進する方を行くと、すぐに降りしきる雪の向こうに小屋のシルエットが見えてきた。
 14時45分、くろがね小屋着。スキー場から2時間半であった。小屋は既に30名ほどの先客で賑やかであった。従業員のおっさんに快く迎えられつつも賑やかさにやや気後れしながら入る。受付を済ませ、あれこれ決まりやら要領やらを聞かされてから、ひとまずあてがわれた部屋に荷物を置いて風呂に行くことにする。客室は2階。"部屋"といってもドアがあるわけではなく、造りつけのでかい畳敷きの2段ベッド風が大きな吹き抜けのまわりに幾つかしつらえてあって、われわれは上段のひとつの8人部屋であった。シーナ本にはこの小屋は靴もスリッパも布団も何もかも整理整頓がキチッと行き届いているとあったが、その伝統はいまだ健在であった。われわれもさっそくキチっと階段を下り、キチっと服を脱ぎ、キチッと前を隠しながら、キチッと入湯した。風呂は男女別。この点もキチッとしている。浴槽は木製で4人も入ればいっぱいになる大きさだが、湯は白濁していて温泉気分が盛り上がる。なかなか熱めの良い湯であった。
 風呂の後は1階のテーブルが並ぶ共同スペースの一角を占領して宴会である。周りに幾分気を使いながら、ビールとつまみを小規模に並べる。テントと違って空間を他人と共有しているというのは本格的にくつろげなくてどうもいけない。山屋のなかには「山小屋はいいなぁ、山で泊まるんなら絶対山小屋だよ、そうだろきみ」なんて明るく健全青年風に言うのがいるが、そういう奴の気が知れない。谷川氏と高木氏とオレとでぼそぼそ話していると(盛り上がりに欠ける顔ぶれだ)、夕食の配膳が始まって部屋に追いやられてしまった。しょうがないので部屋で寝っころがって各自本などパラパラやっていると、やがてカレーの旨そうな匂いがぐわぐわ鼻先に押し寄せてきた。カレーの匂いには人は誰しも条件反射的に引き寄せられるものだが(そうでない人はそれでもいいよ)、部屋の梯子のところへ急いで這いずって行って下を覗くと、居並ぶテーブル一面に黄色と白のカレーの丸皿が等間隔にキチッと並びナプキンを着たスプーンがその横でテーブルの縁と平行にキチッと一文字の列を作っていた。幾何学的なカレーの配列を俯瞰するのは生まれて初めてだ!こうキチッと並んでいるとアンディ・ウォーホル風で綺麗である。「食事の用意ができました」の声に50人からいる客の大部分がテーブルのまわりに集まってきた。客は圧倒的にスキーヤーが多い。ペンキ屋さんの作業着のような多色複雑模様のゲレンデウェアの人も結構いる。どうやらうちらのような山屋の自炊組は僅かのようだ。自炊者は賄い客の食事が終わってから入口近くのストーブ付近でやってくれとのことなので、みんなの食事が終わるのを待って道具を持って降りて行った。賄い付き組がこう圧倒的に多く自炊組がこう圧倒的に少ないと、自炊組には「多勢に無勢、形勢不利」という心理が働いてどうしても動作が小さくなりがちである。動作が小さいとニンゲン卑屈になりやすい。こういう点も山小屋泊りが高く評価されない原因である。
 晩メシはご飯だけ炊いて各自レトルトということにしていたが、奇しくも3人ともカレーであった。

 夜中外は大荒れだったようで、屋根裏のすぐ下に寝ていたわれわれは凄まじい強風に「小屋が壊れるんじゃないかと思った」(高木氏談)ほどだった。5時、浅い眠りから目を覚ますと体が少しかったるい。どうやら昨日あやうい均衡状態にあった引き始めの風が寝ているうちに進行し、完全に悪化方向にむかってバランスを崩してしまったようだ。こりゃまいったなと思ったが、しかしぐずぐずしていると自炊組は賄い付き組のメシに追い立てられかねないので、起きてすぐラーメンをつくって喰う。トイレも賄い付き組との時間差攻撃で済ませる。そして部屋に戻るとキチッと寝具をたたんでキチッと積み上げ、キチッと身支度を済ませてキチッと忘れ物がないか点検し、キチッと山靴スパッツを装着して7時10分、一番乗りでキチッと外に出た。出たはいいけど、戸板一枚隔てた外は風雪激しく吹き荒れて小屋の中とはエライ違いである。強い西風に乗って降りしきる横なぐりの雪に、きのうついてた深いトレースもキチッと埋まっている。積雪はドアのレベルから見て2mくらい。新雪が昨日までの雪の上に不安定に重なっているようである。視程は50~60mといったところ。マアとにかく行けるとこまで行ってみようということになり、西の鉄山の稜線に向かって歩きだすといきなりヘソチチのラッセルに突入した。こりゃ先が思いやられるわい、だけどヘソチチ箇所はすぐ終わるだろうとタカをくくって行くが、これがぜんぜん終わらない。汗だくになること40分、ようやく雪の堅いところに出た!と思っても10mと行かないうちにすぐまたヒザマタ深度に潜ってしまう。道はV字谷の底を徐々に傾斜を強めて行くが、稜線から吹き下ろす激しい向かい風にまともに対するようになるとメガネの内側まで雪が吹き込んできた。歩き始めて1時間、列のケツについて後ろを振り返るとガクゼンとした。小屋はまだすぐそこにあるじゃないか。1時間全力でラッセルしてもたった300mしか進んでいないのだ。この先の距離を考えると山頂に着くのは何時になるかわかったもんじゃないな、と気分はにわかにアンタン星人化して前方を見遣ったときであった。思いがけぬ高みの空間にこれから登るべき白い斜面が降りしきる雪の隙間に一瞬垣間見えたその刹那、わたくしは戦慄のヒラメキを脳裏に感じたのであります。「雪爺だ!」あの雪の斜面はまさに雪爺が出てもおかしくないたたずまいである。雪爺というのは、雪の積もった日に深山に現れ、旅人を驚かせる妖怪だが、これはいわば雪女ごの親戚筋に当るもので、雪女ごの方がもっとこわい。雪女ごというのは雪女の福島県での呼び名で、磐城では雪女郎とも言ったりするのですね。うちらが登ってきたこの安達太良山麓の二本松は日本妖怪史上チョーユーメーな安達が原の鬼婆を輩出した由緒正しき土地柄でもあり(その鬼婆が使った鍋、瓶、包丁も、鬼婆を埋めた黒塚も現存するのだ!)、雪爺がおれば雪女ごだっておっておかしくないのだ。雪女ごは出会った人を雪にかぶしたり雪の谷間に突き落としたりするので、シャレじゃないけど会うとアウトなんですね(シャレだけど)。雪崩や滑落、迷途による遭難の中には怪との遭遇に真の原因があるケースが少なからずあるのではないか、と思われないこともなくはない。しかもです、うちらはハラも恥じらう中年独身三人男、女ごとあらば寄って行かないわけがない。スケベ心の哀しさか、目線がいけば足も向いちゃうのですね。こりゃもう遭難しに行くようなものだ。オレの勘は当るときは当るので、ここでうちらはもう男らしくキッパリ登山は止めにして、ただちに方針を温泉に切り換えまわれ右したのであった。下るときは小屋から1時間かけて来た距離を10分で戻ってしまった。
 そのあとは、小屋の入口でちょっと休憩してから昨日の道を下山した。と言っても、帰りもしばらくはヘソチチのラッセルが続き、勢至平を過ぎて西斜面の下りにかかった途端に烈風がウソのようになくなってぽかぽかのいい陽気になってしまった。登山口に11時下山。またスキー場前の例のホテルの裏手の乾燥室入口を勝手に借りて装備をしまい、次に表の入口にまわって風呂に直行。さすがにこの時間ではスキー場前と言えども誰も入っていなかった。唄の文句じゃないけれど、風呂は早めの午後がいい、コーラは冷えてるライトがいい。それからバスで二本松の駅に戻り、駅前でラーメンを喰って、郡山から新幹線に乗り継いで帰京した。
 今回は、温泉はキチッと良かったが、二日目はオレの体調が日光の手前だったのと(あっ、ゴメン藤井さん)、降りしきる雪に思いがけなく妖怪注意報が出てしまい、何だか物足りなさが残ってしまった。同行してくれた谷川氏、高木氏には申し訳なかった。帰りに安達が原探索などしたら気分的にはもっと充実したろうと、今になってみれば思います。だけどオレの勘は当るときは当るので、雪の埋もれて遭難しなかっただけ儲けもんだったと思ってください、なあんていうのはムシがいいか。当らんときはぜんぜん当らんからなぁ・・・・・・。
 お疲れさまでした。

 JR線片道  東京→二本松(乗車券)  4,220円
 JR線片道  東京→郡山(自由席特急券) 3,500円
 バス  奥岳→岳温泉 410円
 バス  岳温泉→二本松駅 510円

トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ291号目次