トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ293号目次

編集後記

 先日、ガラにもなく某高層ビルへ夜景を見に行ってしまった。
『まあ~宝石箱をひっくり返したみたい!』
と目をウルウルさせ一オクターブ高い感嘆の声は出てこなかった。
 やっぱりキーンと凍てついた夜空に輝く満天の星を、膝を抱え込んで眺めている方が感動的に美しいし、幸せなんじゃよ!ワシャ。
オーッと、ペーパー忘れちゃいけねぇ。

(笠原)

 今日これを書いている3月9日はモンゴル辺りでは皆既日食だったそうで、さっきテレビで生中継をしていた。その時うちの庭に照っているお日様も、見たら少し欠けていた。あれよあれよという間に太陽がやせ細っていってなくなってしまうという異常な現象は、その理屈が解っている今テレビ画面を通して見ても不思議なかんじがするのに、そんな知識のなかった昔ならまさに天変地異のおおごと、それこそ"怪奇"現象だったろう。妖怪ブームの江戸の街なら突然の闇の中を妖怪たちが跋扈していたに違いない。
 テレビの中でお化けが手を振っている今日、妖怪はお友達的存在だ。しかし、そんな妖怪観は現代に入ってからのことで、昔の人はもっとおどろおどろしい存在感をもって妖怪を捉えていたらしい。
 文明開化以来、日本人は夜の闇を駆逐してきた。蛍光灯が普及し、汲取式の便所がなくなり、家の中から闇が消えた。山の稜線に幕を張ってもどこかに必ず人工の光が見える。夜間成田に戻ってくる飛行機や、沿岸を航行するフェリーから見ると、真っ黒な海の向こうに光輝く大地が浮かんでいるようだ。
 最近、そんな「文明」の在り方は異常なのではないかと、つくづく思うようになった。夜の闇をもっと積極的に評価し、人間にとっての闇の意味を考え直すべきではないか。室内の照明も、効率だけを考えるのではなく、夜を演出するものとして捉え直してみたらどうだろう。
 そうすれば、闇とともに駆逐してしまった妖怪も、再び身近に戻ってくるのではないか。妖怪が心によって生み出され、人々の思考や感受性を反映したものだとするならば、ぼやけて曖昧な日本人のアイデンティティーも、もう少しはっきり見えてくるのかも知れない。

(服部)

トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ293号目次