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雪上訓練・富士山
服部 寛之

開催日 1998年4月11日~12日
参加者 (L)水田、小幡、服部

 当初は山本(信)、金子、藤井の3氏も加わって谷川岳で行なうつもりだったが、話が2転3転して、結局参加者は上掲の3名のみ、場所は富士山の五合目ということになった。
 11日、午前中つぶれる水田氏の都合で午後2時半にJR八王子駅南口集合、服部のくるまで中央道~スバルライン経由で五合目に上がり、佐藤小屋へ行く山道の途中の樹林にはさまれた個所に幕を張る。今年の富士山は雪が多く、五合目の土産物屋前の山道入口付近でも1m近い積雪があった。幕を張った場所は陽当たりがよく、ちょうど都合よく2張分くらい地面が出ていた。幕を張り終えた時点でもう5時になるので、今日は訓練はせず、そのまま宴会→夕飯とする。たまたま今日は委員長+2名の副委員長という三峰執行部の中心メンバーが面子を揃えており、酒が進むにつれ話題は今後の会の運営方面に展開したが、期せずして開催されたこの三峰三巨根会談じゃなかった三巨頭会談も、やがて舌も話ももつれぎみの様相をみせてなんとなく幕切れとなったのであった。それにもかかわらず話を闘わせていた2人がキチンと納得した様子だったのは、サスガと言うべきか。
 12日は、午前中集中的に雪訓して午後中央道の渋滞が始まる前に帰ろうという方針で、朝6時半にテント前からアイゼンをはいて斜面に向かう。滑落停止、スタンディング・アックス・ビレイ、3人のコンテなどを練習したのち、急斜面を登って1時間ほど雪薮岩ミックスアラモード的尾根歩きをし(このとき尾根の末端近くにカモシカを見た! 富士山で見るのは初めてだ)、その後グリセードをあきるまで滑って、10時半過ぎに切り上げた。撤収する頃には視程10mほどの濃いガスにつつまれてしまったが、辺りではまだ数パーティーが雪訓中だった。(富士山では雪がゆるんでくると落石が飛んでくることがあり - 経験済み、大久保氏に聞かれたし - 、要注意だ。ヘルメットは必携である。)下山後は河口湖駅前のいつもの食堂でメシを喰い、順調にJR八王子駅まで戻って解散した。
 今回も参加者の少ない淋しい雪訓となったが、少人数でレベル的にも揃っていたのに加え、天気にも雪斜面にも恵まれ、参加した3名にとっては効率的で中身の濃い雪訓となった。

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 雪訓は三峰では年に2回しか行ないません。次回は、雪山の経験の深い浅いにかかわらず、是非都合をあわせて参加してください。運が悪ければ誰でも事故に遭います。事故に遭っても対処の仕方を(身体で)憶えておけば、生きて帰るチャンスを捉えられるのです。アクシデントとサバイバルの問題の本質は確率でしょうか? 確率とは何でしょう? 運命を決定する不可抗力的な作用ならば宿命でしょう。即死でない限り、生きて帰れるか否かは自分自身と周囲の者の行動にかかっているのは明白です。人生と確率の間には本質的なかかわりはありません。事故に対する備えをどう考えるかは、自分の生活、家族の生活、友人の生活をどう考えているのかということと同じ次元にあります。我々にとって山行は生活の一部であり、事故はその延長線上に潜むことなのですから。単独行ならば、戻れなかったことの責任は自分自身で負えば良いのです。仲間と共にあるということは、喜びとともに危難をも分かち合うことです。自然は人間のこざかしい知恵の及ぶところではない - 週末登山家であっても、それを実感することはしばしばでしょう。しかし、ひとりでは対処できないことも力を合わせれば乗り越えられる。パーティーを組むことの最大のメリットはそこにあります。事故に備えてトレーニングすることは、自分自身に対する、仲間に対する、そして家族に対する誠意にほかなりません。普段は気の合った仲間同士で山を楽しめば良いでしょう。しかし、会で設けているトレーニングの機会は、個個人が技術を習得し磨く機会であると同時に、普段山では顔を合わせない会員同士が接する機会でもあるのです。そうして回を重ねるごとに培われていった会員相互の関係が、危機に直面したとき物を言うのです。組織としての力の基盤はそこにあります。そしてその恩恵を享受するのは、会員自身なのです。
 ですから、確率云々という議論はやめようではありませんか。それを逃げの口実とせず、トレーニングの機会を活用してくれるよう願ってやみません。

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 出発の前に、自分がこれからどんな時間を過ごすことになるのか、できるだけ想像してみる。‥(中略)‥それがどの程度の危険を含む行為であるかを承知して、それでも離陸する。何度もあやうい思いをしながら、戻るとまた出発する。それは日常的な時間の中に身を浸している者には理解できない行為かもしれない。今、われわれの日常はひたすら危険を排除する自動装置によって支配され運営されている。‥(中略)‥日常では危険を冒すのは愚行であるとされる。あるいは不注意の結果でしかないと思われる。そして、それは、日常という場で見るかぎり、絶対に正しい。何ぴとも意味なく危険を冒すべきではない。
 しかし、その一方で別の時間、別の行動様式があるのだ。われわれがずっと昔に放棄してしまった時間、未知のものをたっぷりと含んで、それに自分は対処できるという自信のある者だけが入ってゆくことのできる時間がある。どんなことになっても自分は大丈夫というのではない。それは冒険の時間が中に秘めている危難の可能性を過小評価することでしかない。いくつもの危難を越えてゆくうちには自分の力ではどうしようもない相手に出会ってしまうこともあるだろうと彼らは承知している。  それを忘れるのではなく、その存在を知ったまま、ともかく行動することが自分の方針なのだからと考えて、仮にそれを無視する。そういう生きかたがある。それが人を空に向かって、海に向かって、あるいは単なる国内の旅や三日の釣行に向かって、押し出す。非日常の時間の方へそっと促す。

         池澤夏樹 『旅の時間、冒険の時間』より
         マザーネイチャーズ 1990 SPRING 新潮社
         (新潮文庫『母なる自然のおっぱい』に収録)


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