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精進湖から四尾連湖へ
服部 寛之

山行日 98年5月16日~17日
メンバー (L)服部、小山夫妻、豊田

 美しい四尾連湖の写真を見たことから、この山行は企画された。美しい山の湖には痩身の美女がつきものである。絢爛たる紅葉を背景に、清澄な湖水に映る美女の姿は楚々として痩身でなくてはならない。その女は聡明で気立てが良く、オレを心から愛しており、オレが毎週山へ行っても怒らない。料理が上手く、器選びのセンスも良く、身のこなしにもソツがない。燭下の調理も手をぬかず、食材をきちんと洗う。ニンジンは皮をむき、敷物(多く銀色)を皿代りにしない。そういう女をゲットしたいしたいと思いつつ、山河彷徨幾星霜、未だお目にもかかれない。もはやわが日本からそういう女は途絶してしまったのであろうか。かかる女を探し求めて東奔西走、これまで数多くの湖畔にたたずんできたが、すべて徒労に終わった。手がかり皆無、縁絶無。カウントゼロですナッシング。うううっ…‥。
 そういう時に四尾連湖の写真を見たのだ。それは正に山上に隠された宝石であった。楚々たる痩身の美女が麗姿を映すにふさわしい湖水ではないか。
 かかる悲願を胸に山行の募集をかけると、手をあげたのは水田、小山(夫妻で参加)、豊田の3氏であった。手をあげてくれたのはとても嬉しいが、現実はきびしい。メンツに不満があるわけではないが、大いなる不足がひしひしときびしい。
 いかんいかん、話がいきなり変な方向へ行ってしまった。何の展望もないまま書き始めるからこういうことになるのだ。反省。ここで軌道修正する。
 当初は、初日の土曜はのんびり出掛けて四尾連湖畔のバンガローに泊まり、翌日早発ちして精進湖まで縦走し、河口湖駅前でひと風呂浴びて帰京、という段取りであった。だが、その週の週末天気予報は、土曜は曇りで午後遅くなって崩れ、翌日曜は終日雨という予想であったので急遽計画を変更、土曜に家を早発ちして精進湖から逆コースで四尾連湖へ抜け、バンガローに雨を避けて翌日のんびり市川本町まで雨の散歩としゃれこんで帰ることにした。この変更で金曜夜が遅い水田氏が参加を取り止めることとなり、計4名となった。

16日(土) 曇、夕方から雨
 朝5時に家を出、大月7:39発の富士急で河口湖駅8:42着。待合室でメンツを確認する。小山氏の奥方は昨夜遅く福岡から飛行機で上京されたということで、早朝へのスケジュール変更を申し訳なく思う。
 タクシーで精進湖のパノラマ台下の停留所まで20分。パノラマ台への道は美しい自然林のなかの散策路といった感じで、よく整備され歩きやすい。セミの声とも蛙の声ともつかないにぎやかな合唱が森の奥に満ちている。後ろからひとりの日本人に案内されたアメリカのおとっつぁん3名が空荷で上がってくる。案内の日本人はトトロに出てくるサツキとメイのお父さん風で、時々立ち止まっては何やら森の説明をしているらしく、森林やら環境やらの学者風であった。途中、樹海上にぽっこり盛り上がった大室山を富士が抱きかかえているような穏やかな風景が、森の切れ目にのぞく。タクシーの運転手は「子抱き富士」とか言っていた。遠藤周作の言う母性を求める日本人の宗教観に訴えるような、母性的な優しさを感じさせる風景である。
 尾根道まで上り、豊田氏の発案でパノラマ台まで足をのばす。既に3~4パーティーが休んでいたパノラマ台は、精進湖と本栖湖に挟まれた展望台で、樹海の拡がりが圧倒的な迫力でせまる。蒼い富士の広大な裾野を埋める深い緑。その勢いを押し留めんとする御坂の山々。その脚元には伏流水がつくる湖面が小さく見え隠れする。
 引き返して三方分山へ向かう。パノラマ台から展望した限りではわけない尾根道だと思ったが、実際は細い稜線が幾つもの小ピークをつないで小さなアップダウンを繰り返し、けっこう長くしんどい上りであった。三方分山の頂上は樹林の中で、精進湖側が一部刈り払われていた。われわれが登り着くと同時に反対側から7~8名のパーティーがやってきたが、なんと先程精進湖畔で会ったパーティーであった。
 三方分山からは北へ向かう。2.5万図(市川大門)と私の持っている古いガイドブック(山と溪谷社85年12月発行の『東京周辺の山』)では、道は北隣の釈迦ヶ岳まで尾根通しについており、その鞍部を西へ折れて三ツ沢峠へ向かうようになっているが、頂上から10分も下ると尾根道は廃道となって、道は西側斜面へ下りて尾根を捲くようになっていた。行き着いたところが「押手沢8-8番地」という沢地で、避難小屋があり、沢にはまだ新しい水道の蛇口が立っていた。ひねるとうまい水が出てくる。
 そこから道は西へ方向を転じ、間もなく新しい舗装路が現われた。路面に出たところに「四尾連湖」と矢印で示した仮標識があり、それに従って左へ行く。どうやらこの道は2.5万図の林道が西へ延びてきた道のようである。6m幅の立派な舗装路だ。このまま行けば途中に尾根に上がる道があるのだろうと思っていたが、行けども行けども山道らしき影もない。そこへなぜか後ろから、ひとりの中年男性が頭にウォークマンをつけて軽快なフットワークでスタスタやってきた。こんな人煙まれな山中に真っ昼間荷物も持たず突如として現われたこの人物はいったい何者なのか? キツネにしては上手く化けたな、との思いが一瞬頭をよぎる。正体が大いに気になるところだが、目下道が分からず困っているところなのでその疑問はひとまず置いといて現在位置を聞く。すると「八坂と御弟子を結ぶ道の、3分の1位のところだ」とのお答え。そう言うとまた軽快なフットワークでスタスタ行ってしまった。
 結局正体は判らずじまいだったが、もし奴がキツネであったとしたら、これはわが国妖狐の変身ヘッドギア変遷史上画期的な出来事だったかもシレヌ。キツネの変身技術は時代とともに進歩してきたが、大昔中国からその術が伝わった当時は髑髏を頭に乗せ北斗七星を拝しながら落とさないよう宙返りするというアクロバチックな高等技術を要したのであった。ところが江戸時代になると、木の葉や水藻、馬の沓などを頭に乗せるだけで簡単に化けられるようになった。文明開化以降は急速に電化が進み今やデジタル時代に生きる平成のキツネは、ウォークマンのヘッドホンを装着すれば変身バッチグーなのであろうか?
 道は尾根の襞を忠実になぞりながら徐々に下っており、いいかげん来てしまったので引き返す気にもなれずそのまま行くと、やがて御弟子の集落に着いたらしく分校の廃屋が現われ、その先の農家の庭先にやっと人影が見えた。豊田氏がその人に尋ねると、その農家の裏から折門峠への道がつづいているとのこと。一安心して、一本入れる。高曇りでも照り返しのあるアスファルトを1時間も歩き、いいかげんくたびれてしまった。
 恐縮しながら農家の縁先を通って裏の道に入る。なぜ農家の裏から山道が続いているのか想像するに、この農家はもともと峠へ上がって行く道の途中のわずかな平地に建てられたのではないか。この御弟子集落は山の斜面に張りつくように家々が寄り集まっており、新たな世帯が暮らしてゆくにはわずかな平地も利用するより仕方なかったのではないだろうか。この農家のおやじさんはえらく親切で、迷っちゃいけねえと途中まで先導してくれた。四尾連湖までの道の様子を聞くと、行ったことがないからわからないという返事には驚いた。落葉が詰まったこの道はあまり人は通らないようだが、アスファルトに比べてなんと足に優しいことか。
 折門峠で一本。ここまで来れば四尾連湖まであと2時間、リーダーとしては時間が読めて気分的に楽になる。心配していた小山さんの奥方もよく歩いており、この分なら問題なく完走できそうだ。雲行きは少々あやしくなって来て、本降りへの予行演習か、時折パラパラくるが、まだしばらくは保ちそうだ。大平山は顕著なピークではなく、そのまま蛾ヶ岳へ急ぐ。
 蛾ヶ岳の展望は期待以上のすばらしさだった。北西側が開けており、すぐ手前、尾根の張り出しの先端にこんもりとした森に囲まれた円い湖面が見えた。四尾連湖だ。お伽話の中の景色のような、どこか可憐さを感じさせるたたずまい。「おおこれは!」と思いましたね。まだ見ぬ美女への期待が高まる。目を上げれば、甲府盆地を取り囲む山々が北から西までずらっと見渡せる。幸いにも雲が高くてまだ視界がきいている。右手奥には金峰や瑞牆など奥秩父の稜線が連なり、その手前には茅ヶ岳やこないだ登った太刀岡山と曲岳が見える。甲府盆地を挾んだ反対側には八ヶ岳の峰々が頭を重ね、左手には鳳凰や甲斐駒、白根の高嶺が立ち上がっている。その手前の特徴的なカーブは櫛形山だ。盆地の中を右手からやって来た中央道は正面奥へ、くの字形に方向を変えて蜿々と延びてゆく。改めて高速道の構築物としての大きさを識る。頂上の反対側は樹林で視界がさえぎられているが、富士山の方角だけはうまい具合に木が抜けていて、一際高く富士山が聳え立っていた。写真を撮ろうとカメラを出すと、丁度雨がポツポツ降り始めた。
 大急ぎで四尾連湖をめざす。蛾ヶ岳と四尾連湖を結ぶ道は、浩ノ宮ハイウェイが一級国道なら、まるで高速道路。石もほとんど落ちていない。大きな雑木林の中なので、雨もほとんど落ちてこない。
 何とかびしょ濡れになる前にバンガローに落ち着くことができた。ヤレヤレ、ご苦労さんでビールを干す。うまいんだなあ、この一杯が。6畳敷のバンガローはきれいで快適。暑くもなく、寒くもない。畳をよごさぬよう銀マットを1枚敷き、その上でいつものように飲み喰いしながら食事を作るが、やはりこういう座には銀マットが不可欠と痛感する。もうそれなしでは落ち着かないカラダになってしまっている自分に気付き、戦慄する。

パノラマ台下停留所(9:20) → 稜線(10:10) → パノラマ台(10:20~35) → 三方分山(11:55~12:05) → 押手沢(12:50~13:00) → 御弟子(14:15~25) → 折門峠(15:05~15) → 蛾ヶ岳(16:05~25) → 四尾連湖(17:10)

17日(日) 雨のち晴れ
 四尾連湖はすり鉢状の森の底にあり、湖岸につけられた小径を一周しても10分足らず。湖面は明るく開けていて、“沼”といった暗い感じはしない。水はすっきり澄んでいて、一晩降り続いた雨のあとでもほとんど濁っていないのには驚いた。棲むとすれば竜神系で、水虎や沼御前系の変化が出る雰囲気はない。湖名は手を入れると痺れるような冷たさに由来するということだが、四尾連湖といい精進湖といい、この辺りの人は「ン」が好きなんだか嫌いなんだかよくわからない。湖畔は東側が広く切り開かれていて、経営者の違う二つのキャンプ場・山の宿が隣接しており、大小3~40棟のバンガローが平地からうしろの斜面にかけて並んでいる。食堂にはソフトドリンクの自販機がならび、ビール、アイス、お菓子も売っている。定番のボートと釣りもある。夏休みの喧騒が目に浮かぶようだ。案内書によれば、舗装された車道が市川大門町から上がってきているが、車はキャンプ場利用者以外は湖畔まで乗り入れられず、その手前200mの車道終点にある無料駐車場に停めるようになっている。
 以上のように、楚々たる美女がたたずむにはこの湖は大きさといい清澄感といい申し分なく、また今朝は周囲の森が霧にけぶって愛をはぐくむにはまことに良い雰囲気なのだが、いかんせん少々俗化され過ぎている。それに雨のため肝腎の美女が出現する気配がない。野を越え山を越え、谷を越えてはるばるやって来たというのに……。またしても無駄足か……、ううううっ。
 8時頃、夜明けから小降りになっていた雨が上がってきたので出発する。出発したのはいいが、四尾連峠に上がる道がよく分からず、湖岸をうろうろしていると、大きな魚の群れもうろうろ遊んでいた。 しっとり濡れた山道を四尾連峠へ上がる。峠で一本。野沢一という詩人の碑をちらっと見る。峠から市川本町駅まではよく踏まれた山道を下って行く。天気はかなり回復してきており、途中展望の良い伐採斜面から甲府盆地がよく見渡せた。
 下り着いて樹林を抜け出ると、きれいな中華庭園が現われた。突然の異色景観に一瞬レレレッ!となる。碑林公園という。登山道から裏手に入ってゆくと、土産物館の前の白い丸テーブルに中年カップルが背中を見せて座っていて、振り返ってうちらに一瞥をくれたオヤジの態度がふてぶてしい。シーマなんかにエラソーに乗ってそうな野郎だ。先頭のオレはガンつけたろうかと思ったが、こわそうなので急いで眼をそらす。公園はできてまだ間もない感じで、ちょっと寄ってみようか決めかねていると、入口の門で料金を徴収しているので止めた。門の前の駐車場にきれいな公衆トイレがあったのでこちらに寄る。
 もう天気はすっかり回復して、陽が射してきた。豊田氏は道端に腰を下ろしてタバコに火をつけ、あとの3名はトイレで調子を整える。2日間、よく歩いてきた。ここから駅まではもう一投足、ポカポカ陽射しを浴びながら、休日の田舎町を下りて行く。碑林公園のすぐ下の学校では、老人会がゲートボールで盛り上がっている。山並みを望む坂道の、サインポールがくるくる回る小さな理髪店は、庭の洗濯物がブロック塀上の枝越しに咲いていて、なんだか原田泰治の絵を見ているよう。小さいカーブの急坂を、車が2台、勢いづいて降りて行く。
 15分後、ちょうど冷たいものが欲しくなったところで、こじんまりした市川本町駅に到着。シャツを着替えてボーッとしていると、姿を消していた豊田氏がビールを下げて戻ってきた。

四尾連湖畔彷徨(8:10~35) → 四尾連峠(8:50) → 碑林公園(10:10~20) → 市川本町駅(10:35)

タクシー(河口湖駅→パノラマ台下)  6,250円
富士急山梨ハイヤー(株)(河口湖)0555-72-1231
バンガロー(6畳1泊/龍雲荘)    6,000円
風呂も利用できた(1人300円)
龍雲荘(旅館/キャンプ場)  0552-72-1031


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