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編集後記
服部 寛之

 不思議な経験をした。
 静山窯は民陶・小石原焼の窯元がならぶ英彦山麓の山里にあって、高取焼の伝統をうけつぐ窯である。(高取焼は遠州流の祖小堀遠州が好んだと伝えられる遠州七窯のひとつに数えられる。)この9月、黄金色に染まった小さな水田に囲まれたこの窯を、念願叶って訪れたときのことである。
 どっしりとした古い茅葺民家の、土間に設けられた展示場の暖簾をくぐると、さまざまな茶器や花器、酒器、皿が並べられていた。ぶらぶら見ていると、一隅に置かれた珈琲碗皿に目が留まった。留まったというより自然に目が吸い寄せられたという感じであった。器を目にした瞬間の驚きは新鮮かつ強烈であった。信じがたいことに、その珈琲碗皿ははじめから私のために作られ私が来るのをそこでずっと待っていたのである。そのことを私は元より納得済みの運命として器から提示され瞬時に了解したのである。器も私の来訪を 喜んでいるようであった。それは、スピリチュアルな異次元を垣間見たような、奇妙な体験であった。
 同じことが、熊本でもあった。偶然通りかかったある窯元の作品展で、グレーの刷毛目の丼から同じ感覚を受けた。それは、「気に入る」という感覚を超越したもので、その器との出合いは Destinyと呼べるのかもしれない。
 常識的に考えれば、物が人間に働きかけるなどということはあり得ない。器を選ぶという行為は人間の側の能動的な作業であって、その逆ではない。私が受けた感覚は、自分の思いを器の表情のなかに見て取った、というだけのことだったのかも知れぬが、その不思議な感覚はいまだ私の中に鮮烈に残っている。
 こういうことは、山の場合にもあるのだろうか。ある山の姿を目にした瞬間、或いはその中に身を置いているときに、その山と自分との運命的なつながりを、理性によるのではなく、感覚的に体得するということが・・・・。もしあるとすれば、それは山ヤとしては非常に幸福なことかもしれない。私にはそういう山との出合いはまだないが、焼きものも山も組成は一緒。共に土や石からできているのだから、ひょっとしたら・・・・。

【服部】

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