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恋ノ岐川遡行遭難未遂顛末
小堀 憲夫

山行日 1998年9月26日~29日(計画では28日下山予定)
メンバー (L)小堀、金子、他2名(中西、松井)

「またかっ!」
 明け方息苦しく思い出した。
 雨の中、平らな場所を捜して稜線まで薮をこぎビバークした翌朝、どうにか枝沢沿いに下降して、またしても大滝に行く手をはばまれた時の絶望感。真下に林道へ続く広河原が見えていた。もう終わりにしたかった。が、その気持ちを捻じ曲げるようにして可能なエスケープルートを探して左右の岸に目を走らせた。
「もうここでいいよ~、私」
 後ろから声が聞こえた。
 天候は期待できなかった。週末の予報は50%の確率で雨。それでも雨対策としてタープを装備に加えて決行した今回の山行だった。自分なりに四半期に一度は計画しようと思っている例会に対するこだわりがあった。また、沢の中で一回、頂上で一回、計二回も宴会ができるのだと思うと胸踊るものがあった。
 この沢はずいぶん前から行こう行こうと騒いでいたような気がする。そのわりには、いつもの悪い癖でルートなどは大まかにしか把握していなかった。ルートガイドや遡行した人達の話の印象から、今度の山行は、難しい滝もなく、少し長いがきれいな只見の沢をのんびり遊んで、帰りは中ノ岐林道に踏み跡をたどって下ればいいや、くらいに気軽に考えていた。平ヶ岳頂上からこの中ノ岐林道へ下る道は、数年前に小堀の連れ合いが地元の山岳会の案内で登っており、あのおばさん達が行った道ならだいじょうぶと、地図で確かめることもしなかった。
 この安易な気持ち、初歩の初歩の過ち、つまり事前調査の手抜きが今回の遭難未遂の第一の原因だった。

*        *        *

 新宿西口スバルビル前に金曜の夜10時。
 そおっとやってきた金子さん(三峰山岳会)。
「お久し振りです」と中西さん(元三峰山岳会)。
 もじもじと松井くん(萬友製薬ワンゲル部)。
 いつも調子のいい私。
 これが今回のメンバー。この中で初対面は金子さんと松井くんのみ。ハイキングでは物足りない松井くんは、三峰の沢に参加させてもらい、ワンゲルのボッカ駅伝にゲンさん、水田委員長、小幡氏の三峰メンバーが参加したりと、二つの団体は部分的に仲良し。
 金子さんと交代で運転して、恋ノ岐橋に着いたのは夜中の3時ころだったか。道脇にテントを張ってすぐに消灯のはずが、小堀の悪い癖でちょっと一杯のつもりがはしご酒、じゃなくておかわり。

 翌朝、まあまあの好天に気を良くして早速遡行を開始した。
 いやぁ、長い長いナメがほんとうに美しい。ただガイドにあるように、枝沢が少なく位置確認が難しい。(このくらいは勉強していた。)オホコ沢の出合あたりで幕を張ろうと思い、頑張って歩くが、なかなか良い幕場に出会わない。
 釣りもしたいので、早めに切り上げて予定より少し前の3時ころ、幕を張る。タープを張って、金子さんと小堀は釣りに、中西さんと松井くんはたき火の準備にとりかかった。そこへ間を合せたように小雨が降り出した。行動中降られなかっただけ運が良い。小堀は少しも当たりが無いので早々に引き上げたが、金子さんは結構良い形を三尾ほど釣り上げた。
 その夜のメニューは天ぷらアンド骨酒。いやぁ、飲んだ飲んだ、食った食った。やっぱり天ぷらはエビの揚げたてに限る。揚げたてに、小堀考案(実は銀座天一で教わった)の赤穂の天塩とカレー粉を少しづつふる味付けで、ふうふうしながら食う。ばかでかいザックを横目で「バカダナ~」と冷ややかに見ていた(と思われる)金子さんもつい、
「うまい!」
 火照った口を冷や酒でさませば最高だ。
 いぶった岩魚を燗酒にジュッとつけてふたをすることしばし。深い香りと味わいの骨酒をコッフェルで回し飲めば、陶然とした酔い心地。ほろ酔い気分の金子さんが、
「実はおれまだテンカラ2回目なんだよ。田代にはくやしい思いをしてきたんだよ」と、尺いわなの感激を吐露。
 その他もろもろヨタ&マジメ話しに花が咲く。たき火を前に至福の一時だ。まさにこの時のために山を続けているのだと改めて思う。
 やがて小雨も上がり、タープをはずして大たき火。それまで寡黙に酔っていた松井くんが、リクエストにこたえて、ボーイソプラノで“Killing me softly with his song~”と手拍子付きで歌い出したのにはまいった。みんな楽しかったんだな~。

 翌朝小雨の降る中、テントの中でうどんの朝食を済ませて、くたくたと出発する。オホコ沢にはまだ出会わない。そのうち
「おっ、魚だ」
 と、金子さんのみんなに聞こえるようなひとり言。
「待ってますよ。骨酒また飲みたい。一人三匹ね」
 という訳でまたもや釣り。今回はなんと小堀も小物を釣る。
 その後すぐにオホコ沢に出会うが、釣りに時間をかけすぎてもう遅い。オホコ沢エスケープへとコースを変える。オホコ沢は短く、上部は平ヶ岳頂上への登山道途中の水場になっていた。
 しかし、そこからも長かった。が、
「おっ、これはスギヒラタケ」
「おっ、ブナハリタケ」
「おおっ、キクラゲ」
 と、平ヶ岳の幕場にどうにか辿り着いた。
 疲れ果てた身体をしばし休め、雨で濡れた荷物を整理して2日目の宴会に備える。釣りにエネルギーを使い果たした金子さん、
「ウウッ、腰がつったぁ~」
 その夜のメニューはブタキムチ鍋だったが、その前に岩魚&きのこ汁。味噌仕立でぶつ切りにした岩魚ときのこのシンプル汁だが、疲れて冷えた身体にうまかった。おかげで鍋の肉が大分余った。全員そうとう疲れていたが、その夜は残り少ない酒を大事大事に飲み、狭いテントで筋肉痛にうめきながらやけ気味に盛り上がった。明日はルートファインディングに気を付けて下るだけだ、などと思って、それでも早めに寝たのだが・・・。

 さて翌朝。雨は上がっていたが天気は今一。もう昨日までで結構疲れていたので軽くなっているはずのザックも重く感じる。もっともテントなどは雨に濡れてかえって重くなっていた。
 この時点でもだれも疑うことなく中ノ岐川の沢沿いに踏み跡があって、それが林道へとつながっていると信じている。だから、水場から直接中ノ岐川に入ろうかという提案はあったが、その他にはルートに関する意見はなかった。しかし、後で分かるのだが、97年度版の5万の地図にはちゃんとこう書いてある。
「玉子石から仲ノ岐川に下る踏み跡があるが入らぬこと」
 また、
「中ノ岐川から平ヶ岳へは登山禁止」
 恐ろしいことに4人の中でだれも5万の地図を見ていなかったのである。ちなみに、沢のガイド本にはごく簡単に「平ヶ岳から中ノ岐林道を4~5時間で中ノ岐橋」と下山ルートの紹介があるだけ。2万5千にはなにもそれらしいものは書いていない。5万にしか無い情報があったのだ。おそらく玉子石からの踏み後をたどればなんとか下れただろうが・・・。
 平ヶ岳頂上で踏み後をしばらく捜すと、木道の一番端から中ノ岐川へ降りている明らかな踏み跡が見つかった。あたりには他に踏み跡らしきものは何もないので、迷うことなく我々はそれを下降しはじめた。ところが踏み跡が消え、まったくの沢の下降になっていく。地図を見るとゴルジュが近づいてくる。下流の林道は右岸についている。下るには少し手強い小滝が現れた。緊急会議の結果、右岸を高捲いてみる。踏み跡にぶつかることを期待しての高捲きだ。急な斜面を笹につかまりながら登れども登れども踏み跡は現れず。
「金子~さん、踏み跡ありますか~」
「ない」
 稜線近くまで捲いて、ついに諦めた。
 迷ったら元に戻る。鉄則どおり、1時間半のアルバイトをいともあっさり諦めて、枝沢どうしに元の場所より少し下流に降りた。結局、先程の難所を大きく高捲くかたちになっただけ。
 問題はここだ。ここでなんでもっと元の場所、つまり平ヶ岳頂上まで戻らなかったか-。
 迷った最初のポイントはどこだったのか。これを考えなくてはならなかった。
 しかしそれでもまだ我々はこの沢沿いのどこかに踏み跡があるに違いないと信じている。なんと、とにかく下れるところまで下ろうということになった。
 登り返す気力が無いほど疲れていた。幾つかの小滝をハーケン、シュリンゲをフルに使い懸垂、ごぼうで下って行った。しかし今回の山行、後で聞いた話だが、中西さんは、ちょっと感激していたらしい。こういうハードなヤツは初体験で嬉しかったからとか。へんなヤツ。実は松井くんもそうだったらしい。
 こうして冷静になって他人の遭難記録かのように書いていると、いかに無茶をやっていたかが良く分かるが、その時は最善の判断だと思って行動している。そして、恐怖の二俣の滝に出会うことになる。
 これには進退極まった。50mはあったろうか。二つの滝が豪快に合わさって深く落ち込んでいる。見るだけなら美しい。枝を使って懸垂した跡はあるが、我々の7mm×20mのザイルでは無理な高さであった。右往左往して、結局今度は左岸を高捲くことになった。この時の取り付きの急な泥壁は正直怖かった。ズルズルの草付きで、某女史が半泣き状態。泥だらけになってブッシュまでどうにかはい上がった時はうれし泣き状態。ここで今回の為に購入したミゾーのアイスハンマーに少し救われた。ホールドがない泥付き壁にピックをぶち込むと、これが意外と頼りになった。
 この後、どんどん高捲いていくうちに雨は降るわ、踏み跡はみつからないわ、おなかはすくわ、ヤブは深いわ、暗くなるわでタイムアウト。これ以上の行動は危険と判断し、
「ぼく達は今確かに遭難しています。今夜は悪いけどビバークしまーす」
 と、今度は平らな場所を求めて稜線とおぼしき場所めざして平行移動。やがてどうにか幕を張れそうな場所を見つけ、鋸でスペースを広げて、どうにか2張り張り終えた。お茶を沸かして、残っていた食料で簡単に夕食をすませ、いつもだったら宴会に入る時間に消灯。久々の酒ぬきの夜に金子さんと小堀は悲しい涙。早く寝たのはいいが、身体は濡れているし、寒いし、下は安定していないしで、夜中何度も目が覚めた。長い夜凍えながら色々なことを考える。考えるのにくたびれて、うつらうつらしているうちに夜が明けた。

 翌朝、雨は上がっていた。慎重に位置を確認して1848mあたりの稜線にいるんだろうということになり、相談の結果、トラバースぎみに林道の終点めざして下ることにした。しばらく行くと枝沢の上部にぶつかり、これを利用してかなり下まで下った。そして眼下に本流の安全な河原が見えてきた。
「やったー!助かった」
 と騒ぎかけたまさにその時、また大滝に行く手をはばまれたのである。もう気力が無くなりかけていた。少しでも止まったらもう動けなくなってしまう。金子さんが大事なしけもくを小堀に無言で差し出し作戦会議。でも「男の友情」なんて言ってウルウルしてる場合じゃない。すぐに右岸にルートの気配を見つけたが、約10m上のブッシュまでビレーポイントがありそうにない。金子さんと無言の内にジャンケンをしていた。むろんリード決めの為である。使うことはないと思っていたフレンズとナッツを、負けた金子さんにお守り代わりに渡し、空身でリードしてもらう。下で不安な気持ちで確保していると、うまいこと泥付きクラックにフレンズを効かせている。良かった、これでセーフ。このフレンズは、以前に個人で行った奥多摩の沢で、あったらいいなぁという怖い思いをして、荷物になるのを覚悟でもってきたものだが、まさかほんとうに使うことになるとは思わなかった。そこからまたがまんがまんの大高捲きでやぶこいで、とうとう小さな枝沢伝いに本流の河原にやっと降り立つことができたのであった。
 思えば、朝のコーヒー一杯とビスケット数枚でよく頑張った。自分達を誉めてやりたい。でもやっと安全な場所に着いたはずなのに、何度も大滝に行く手をたたれたせいで心はまだ疑心暗鬼。林道を見つけるまでは安心できないと歩き続けたが、どうみても本流の安全な河原で林道はすぐ近くだと、やっと一安心。まだ林道は見えなかったが、大休止を取ることにした。最後に残った食料の乾麺を、これまた残りわずかなガスで茹でてわびしい食事、と思ったら、
「あっ、なすの漬物あります」
「そうだ、ねぎとゴマがある」
 と結構まともな昼飯をとった。ここではじめて心の肩凝りが少しほぐれてきた。
 再び沢を下り始めてすぐに林道にぶつかった時はさすがに嬉しかった。みんな手を取り合って無事の帰還を祝いあった。けれど責任感の強い(?)リーダーは安心すると同時に、今度は早く連絡を入れなければならないことに気が急きはじめた。もう3時近くなっていた。金子さんによると、捜索隊が動き始めるのは7時ころだろうということだ。林道の長さからいってぎりぎり間に合うかどうかだ。みんな最後の力をふりしぼって歩きに歩いた約3時間。ほんと~うに長かった。その時の後遺症がまだ膝に残っているほどだ。暗くなってからやっとたどりついた林道入り口に人の気配。
「すっ、すいましぇん。そっ、遭難なんです」
「えっ、遭難!?」
「そうなんです」
 と助けを求める。事情を話すと、車で恋ノ岐橋まで送ってもらえることになった。新潟から来ていた地質調査の人達だった。親切な青年達で助かった。ガイドブックには1時間となっているが、とても1時間で歩ける距離ではない。しかも足はマメだらけ。銀山平の旅館の電話を借りて東京に電話できた時は7時少し前だった。

*        *        *

 こうして今回の山行は終わった。
 今、原稿〆切の10月30日金曜日朝6時。タバコに火を点けて今回の遭難未遂をもう一度振り返ってみる。
 思うに、みんな文句も言わず良く頑張ったなぁ。そして、メンバーそれぞれの所属する団体、会社、家族に大変な心配をかけた。また、捜索隊に参加しようと田原会長のもとに集まってくれたボランティアの方々に深く感謝。
 と同時に、前にも同じことを書いたような気がするが、「迷ったらもと来たところへ戻れ」という鉄則を守ることがいかに難しいかということを思う。勿論事前調査の甘さは反省すべきだが、次の問題として、中ノ岐川を下降しはじめてから迷ったと思い始めた段階で早々に諦めて平ヶ岳頂上に戻るのが正解だったのかもしれない。でも、そうしなかった。なぜか? 下降した沢を登り返すのはシンドイ。2泊して疲労した身体には正直無理があった。結局大高捲きで逃げることになった訳だが、メンバーにそれなりの体力と技術と経験があったことで救われたのか、あるいはだから下降を続けてしまったのだろうか・・・・。
 けれど、悪かったことばかりではない。遭難しはじめたことをしっかり自覚して、とにかく腰を据えて安全第一に我慢強く行動したことが、事故を起こさずにすんだ結果に結びついていると思う。下界を心配させていることに心を奪われて焦る気持ちを押さえ、安全に帰ることがみんなの為にも一番大事なことなのだと口に出して確認しあった。さらに思うことは、「迷ったら戻る」ということが実際問題無理な時もあると覚悟して、間違いを背負ったまま、最善のエスケープルートを進める心の柔軟性とそれを支える体力と技術を身につける努力を日頃続けることも大事だということだ。
 考えてみれば山だけでなく、自分などエスケープルートばかり歩いてきたような気がする。このまま死ぬまでエスケープ、なんだろうなぁ・・・。
 山の記録がぐちになってしまったので、これでおしまい。


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