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赤城山(My Sentimental Journey)
服部 寛之
山行日1998年11月14日~15日
メンバー (L)服部、小山、安田(直)
(黒桧山のみ)佐藤(明)+子供1名
(鈴ヶ岳のみ)田原、原口、遊佐
(宴会参加)広瀬夫妻、他2名

65山行 鈴ヶ岳 1564.7m

     
 「いい思い出を壊したくなければ、思い出の地には二度と足を向けぬことだ」
 何かで読んだそのことばが、ずっと心にひっかかっていた。
 赤城山は私の青春の思い出の地である。山ではなく地と言ったのは、山としての赤城には当時まったく関心がなかったからである。だからこれまで赤城の山にはどれ一つとして登ったことがなかった。そもそも赤城山というピークがないことすら知らなかった。
 会の創設65周年記念の「65山行」に該当する山がたまたまそこにあったことから、今回あらためて赤城を再訪する気になった。冒頭の戒めが正しければ、赤城に行ったことを私は後悔することになるのだろうか・・・・。

 私が赤城山へ初めて行ったのは、小学5年生の夏のことだ。当時私は、家の近所のキリスト教の教会学校に通っていて、その教会学校では毎年夏休みの行事としてこども達をバイブル・キャンプに連れて行っていた。バイブル・キャンプというのは、耳慣れない人も多いだろうが、アメリカでは広く行なわれている教会行事で、夏休みにこども達を自然の中へ連れていって合宿させ、キリスト教の精神に則って心身の育成を図ろうとするプログラムのことである。その教会を運営していたアメリカ人宣教師らが日本でも同様のことをしようと、赤城山中にそのためのロッジを建て、そこへ毎夏教団内の各教会からこども達を一堂に集めていたのである。教会側の意図がどうであれ、こども達にとっては遠くの友達と年に1回一緒になって寝起きし、歌を歌ったりゲームをしたりハイキングに行ったりする楽しい時であった。親にとってみれば、毎日うるさいこども達から一時解放されるばかりか何やら良さそうな躾けまでやってくれる得難い機会でもあったろう。私もバイブル・キャンプを大いに楽しみ、毎年遠くの友達に会うのを心待ちにしていた。中学3年の年に洗礼を受け、その後社会人になるまで熱心な信徒であったが、高校の頃には自ら高校生キャンプに参加するばかりか、教師の助手として小中学生を引率して行ったりもしていた。
 その赤城のロッジが私にとって大きな意味をもつ青春の舞台となったのは、大学1年、19の夏のことである。
 その夏休み、私はひと月半ほどロッジのスタッフとして働いてくれるよう、教団から頼まれた。賃金は1日600円と頼む方も恐縮するような金額だったが、赤城は避暑地としては最高の場所であるし、食事はタダだし、忙しいのはキャンプがある期間だけでそれ以外は何をしても良いとのことだったので、その夏はこどもの頃からよく知っているそのロッジで過ごすことに決めたのだった。友人から借りたバックパックに愛用のギターという出立ちでロッジに行ってみると、驚いたことに10人ほどのスタッフのうちなんと日本人は私ひとりだけ、あとは全員アメリカ人であった。しかもその多くは短期間の手伝いとして来日したばかりの大学生で、日本語は通じない。いわば唐突にアメリカ人社会の中に放りこまれてしまったのである。
 その日から私の頭痛の日々が始まった。何をするのも英語。食事も掃除も風呂焚きも、排泄と睡眠以外はすべて英語。1日中アタマのうえした前後左右360度アルファベットがぐるぐる廻り、絶え間なくガンガン頭痛がした。実はその春から私は大学でELIという英語クラブに所属し、その活動の一環としてNHKのラジオ英会話のテキストを毎日丸暗記するということをやっていて、ロッジでも続けていたのだが、思いがけず全身英語づけの生活になってみるとアタマの回路はいまにも壊れんばかりのンガンガ状態に陥ったのだった。
 そしてとうとう来るべき日が来た。脳がショートしたのである。7日目の朝、目が覚めると頭痛がしない。いつもは目覚めと同時に頭痛がスタートするのに、その日はスッキリ快晴の頭脳であった。「ン??」状態で下のベッドに寝ているモルガンに話しかけると、なんと英語がスラスラ出てくるではないか! 自分でもビックリ。みんなもビックリ。その日以来英語はアタマの翻訳回路をバイパスするようになった。そして間もなく夢の中の会話まで英語でこなすようになったのだった。その夏の経験はその後さまざまな体験につながり、私の人生の宝となった。
 こうして赤城山のロッジは忘れることのできない私の青春の思い出となった。その後そこへの再訪は一度きり。そして数年して私は教会を離れた。
 以来20余年、そこで覚えた英語は今でも結構役立っているし、アタマの回路も不安定ながらなんとかトばずに保っている。三峰に入会し山とかかわるようになって、赤城山はいつも頭の片隅にあった。しかしこれまでそこへは足を向ける気にならなかった。行きたくなかったのである。それはひとつには、そこには自分の大切な思い出が、なつかしさと、時に磨かれて美化されたうつくしさとを伴って、眠っていたからである。そこへ再度足を踏み入れることはその思い出を壊しかねず、ましてや山ヤの目で赤城を見直しては、かつて駈け抜けた青春の世界を永久に失ってしまうのではないかと恐れたからであった。更には、教会を離れてしまったことに対するうしろめたさもあった。あのロッジでの経験、そしてそこを起点に広がっていったその後のさまざまな体験は、信仰者の視点に立てば、まさに神の恵みそのものであった。恵みを受けて教えられ、恵みによって成長することができた--教会から離れてもなおその思いを抱きつづけてきたからこそ尚更に、ヨナのように逃げだして行く自分の姿が見えていたからこそ尚更に、苦い思いが重く私をそこへ返すことを押し止めていたのである。
 だが、なぜ今その思い出の地に帰ってみようという気になったのか。その答えを見つけるのは難しい。20余年という過ぎ去った歳月、その間に重ねた年齢が大きく関係しているのは確かだろう。その時間の中に、自分は何を置いてきたのか? 為してきたことへの是認。為し得なかったことへの諦め。人生の半ばに達して、私は今一度自分の位置を確認したかったのだろうか。

     
 高崎駅の新幹線改札口でメンバーと待ち合わせる。いつも飄々としてマイペースをくずさない小山氏と、直ちゃんこと安田直子さん(安田章氏夫人)は、今回初顔合わせ。3人で駅正面に下りてゆくと、「お客さん」と、後ろからすっとぼけた口調で佐藤明氏が声をかけてきた。振り向くとよれよれのキャップの下で小さな三角目がいたずらっぽく笑っていた。明氏のくるまにもうひとり、佐藤家の長男健太くんが待っていた。今日のメンバーは取り敢えず、この5名である。取り敢えず、というのは、後で田原会長や原口さん、広瀬夫妻と合流の予定だからである。
 この日、私のくるまが使えず、当初高崎駅でレンタカーを借りようと思っていたのだが、新潟の嫁さんの実家に用があるという明氏がその往路土曜日だけ合流することになったので、それじゃ悪いけれどと、初日の足は明号の世話になることにしたのだった。
 高崎駅からカーナビに導かれて赤城道路(県道4号線)に入る。正面に特異な形をした赤城山が立っている。空は澄み、枯木色の山肌が明瞭だ。毎年のように赤城に通っていた頃は前橋駅からバスに乗った。満員の行楽客に耐えかねるようにエンジンを唸らせ黒煙を上げて山を登っていたそのバスもこの道を通ったはずなのだが、沿道の景色にはまったく見覚えがない。そういえば山を眺めるなどということに全く興味がなかった当時の記憶には赤城山の姿がない。何度も来ていながらしげしげと赤城を見るのは今日が初めてだと思うと、我ながら可笑しくなる。地図をみると赤城山へは南側から2本、北側から1本の車道が上っているが、当時はこの道1本だけだったように思う。20余年の歳月はこの山の風景をも一変させてしまったのだろう。
 峠に近づいてくると、周囲はダケカンバそしてシラカバの森へと変わった。生まれて初めて私がシラカバの木を見たのもこの森であった。蛇行するバスの窓を開け、涼しい風を顔いっぱいに受けながら目にした、ひんやりとした空気の中にたたずむ純白の樹々の端正な姿に、少年の私はすっかり魅せられてしまったものだった。そこは汗のしたたる暑い下界からは想像もつかない全くの別天地であった。私にとってシラカバは今でもその時の新鮮な驚きとともに赤城山の記憶を呼び起こさせる木である。
 初めて見る新坂平のエネルギー資料館を過ぎて外輪山を越えると火口湖が湖面を見せる。大沼である。シラカバ林の中にガードレールが白いカーブを描いて下りてゆく景色は、この山の開発が大きく進んだことを告げていて、私にはショックだった。記憶の中のこの場所は夏の盛りのものなので晩秋の今とは枝葉の混み具合が違うのは当然だが、それにしても私の目には森がずいぶんと空いてしまったように映った。私が知っていたこの森は霧が漂いもっと奥深く神秘に満ちたものだったのだ。湖に近づくにつれ、ここがすっかり様変わりしてしまったことが見て取れた。建物がずいぶんと増えている。そして、森が減った。行き交うくるまの数も比較にならない。
 やがて懐かしいロッジの前を過ぎた。ロッジのたたずまいは殆ど変わっていなかった。そこだけが周囲の時間と切り離されたかのようで、瞬間ホッとした思いがよぎる。以前はバスから下りて車道をしばらく歩いたのだが、バス停がどこにあったのか思い出せない。
 湖を廻って、会長らと待ち合わせる予定の啄木橋のたもとの駐車場にくるまを停める。この橋は湖に突き出た半島にある赤城神社へと渡る橋だが、ドライブ・コース中の名所になっているのか、駐車場はくるまの出入りが激しい。その場で支度をして、赤城の最高峰、黒桧山(1827.6m)の北登山口まで湖岸道路をしばらく歩く。私の記憶の中ではこの赤城神社も橋も小ぢんまりとして、ボート乗場のある対岸から見ると欝蒼とした森の中に小さな赤い橋が美しく映えていたのだが、今や湖岸は伐採がすすんで広い舗装路がぐるりとはしり、こんもりとしていた半島には鉄筋の神社会館がむきだしの地面の上にそびえ立ち、深い森に囲まれた湖のイメージは完全に失われてしまっていた。
 登山口に着き私先頭で登りはじめる。いきなりの急登である。標高差にして100メートルほど上ると視界が開けて大沼がよく見渡せるが、その少し先で思いがけず直ちゃんがダウンしてしまった。貧血のようだ。少し加減してゆっくりと登ったつもりだったが、彼女には速すぎたのか、申し訳ないことをしてしまった。実は彼女は55周年のGoGo山行以来10年ぶりの山への復帰で、その間2人の子供を産み育てる平地生活ですっかり消えてしまった脚のキンニクを何とか甦らせようとこの日に備えトレーニングに励んでいたのだが、如何せんひと昔の歳月はそう簡単には乗り越えられなかったようだ。頂上まで登れても下れなくなると大変なので、直ちゃんには残念だがここで諦めてもらって、小山氏と明氏親子だけで行ってもらうことにした。半時間ほど回復を待って下りはじめ、神社を回ってくるまに戻った。神社はすっかり観光地化してしまっていて、この季節神様の客商売もきびしそうだった。
 しばらくすると田原会長と原口さんがやってきた。黒桧山に登った3人が戻るまでまだ時間があるので、私は独りで思い出のロッジ周辺を見てくることにした。ところが駐車場を出たところで、運が良いのか悪いのか、会長につかまってしまった。呑み相手が欲しい会長につきあって湖畔の食堂に入る。会長はむろん酒、私は珈琲。つまみにおしんこをとる。対岸から強風が吹きつける寒々としたボート乗場を眺めながらしばらく話をする。乗る人もなく引き上げられたままのボートが季節外れの観光地のわびしさを誘う。岸が遠退いてしまったのか、湖岸は以前より広がったようだ。会長とふたりで話をしたのは何年ぶりだろうか。
 会長と別れひとりで周辺を歩いた。この大洞地区は湖畔の森が切り開かれ旅館や土産物屋が多くなり、大きな鉄筋の国民宿舎までできてすっかり様変わりしていた。しかしあのロッジの周りだけは変わっていなかった。湖岸に下りる脇の道は未舗装のままだ。ロッジは正式には『赤城クリスチャン荘』という。木造2階建ての建物は多少古びた観があるもののあの当時のまま。庭の石垣もそのままだ。小まめに手を入れて大切に使っているのだろう。どの窓もカーテンが閉じられ、誰もいない。2階の集会室の古い窓ガラスが歪んでいる。不意に、よく歌った賛美歌や聖歌の歌声が耳奥によみがえった。お世話になった宣教師や牧師の顔が思い出されてくる。あの夏さんざん洗濯物を干した裏庭に回ってみた。こんなに狭かったかなと思う。風呂焚きに汗を流したボイラー室の扉は作り変えられていた。一段高い道路脇の隣接地には別棟ができていて渡り廊下で集会室とつながっていた。私が知らないのはそれだけだった。周辺の様変わりから取り残されたようなこの一角。改めて来てみると、そこは私の気持ちを安堵させるものではあったが、しかし同時に、その後教会から離れてしまった距離の遠さも再確認させるものであった。思い出はやはり胸にしまっておくのが良い。それはもう私自身の一部となってはいるが戻れるものではないのだ。再び噛みしめようとしても味は変わってしまっているのだ。
 最後にもう一度正面にまわり建物を眺めた。そして駐車場へと踵を返した。
 くるまには既に皆戻ってきていた。話を聞くと小山氏と明氏親子は山頂でお互いに見失い別々に下山してきたらしい。何はともあれ無事で何より。健太君には楽しかったようだ。間もなく会長の友人の楽生会のふたりがやってきた。彼らは赤城の山麓に暮らし、この辺りは庭らしい。ではさっそくと、周囲の目をはばかることなく駐車場の一角で酒盛りを始めたところでタイミング良く広瀬夫妻が到着した。それから30分ほど酒盛りをつづけたが、楽生会の2人の勧めで日が暮れる前に北岸のキャンプ場に移動して幕を張り焚火を準備する。そこへ遊佐さんのくるまがやって来た。よく場所が分かりましたね!と驚いたら、「屋根にハシゴが載ってるのは会長のバンだけだから」。なるほど。ダテにハシゴは積んでないのか。キャンプ場には我々の他にも数張りが張られていたが、山ヤだけでなく釣りの人もいたようだった。その夜は原口さん特製の鍋を楽しみながら楽生会の2人を交えて盛り上がったが、彼らはこれから自分達の会合にも顔を出すのだと言ってほどほどに引き上げて行った。遊びにも真剣な彼らの話には大いに共感させられるものがあり、愉快だった。

 翌朝6時、新潟にむけ出発する明氏親子を見送る。けさは昨日の強風がうそのように静まって、凪いだ湖面には早くも釣り舟がでて糸を垂れている。我々もそれぞれ朝飯をすませて撤収し、くるまで5分の『浦和市立少年自然の家』まで移動する。今日の鈴ヶ岳は予定を変え、ここから出張峠を越えて鈴ヶ岳に登り、下山は鍬柄山を越えて新坂平の白樺牧場に降り、車道を歩いて湖畔に出ここまで戻ってくるというコースで行くことにする。広瀬夫妻は外に用があるのか調子が出ないのか、自然の家の駐車場まできて帰って行った。
 8時、くるまを置いて歩きはじめる。貧血がひびいたのか昨夜はひとり早寝してしまった直ちゃんをおもんぱかって、会長がゆっくりとした歩調で先導する。出張峠からは長い下りで、標高差250mをくだり切ると赤城西麓の深山から上がってくる車道の終点にぶつかり、そこを左上して尾根に上がる径に入る。この径はあまり人が通らないのか、うっかりすると道筋を見失うほどの落葉で埋まっていた。しかしそれがかえって気持ち良い。そこをのぼり切ると鈴ヶ岳と鍬柄山をむすぶ主稜線で、そこを右上して30分で鈴ヶ岳山頂(1564.7m)に立った。山頂は立ち木に視界がさえぎられているものの一段高い石碑の土台に立つと日光や武尊山、皇海山などが望めた。ひととおり山岳展望を楽しんだのち、65山行記念の登頂写真を撮る。山頂には数人の先客があったが、他を圧倒する会長の声量の威力でど真ん中のいちばん大きな平石を占拠すると、ビールで乾杯。すると小山氏のザックに忍ばせてあった日本酒が顔を出し「ちょっと」が始まってしまった。あらら、と思ったが、小春日和のようなポカポカ陽気で気持ち良いし、会長の心優しい気遣い歩調で直ちゃんは10年振りの登頂ができてうれしそうだし、マイッカ的気分になって酒が切れるまでゆっくり待つことにする。小山氏の酒が小瓶でよかった! 会長のカップにとまった蜂が酒に酔っ払ってよろつき、皆で笑う。
 結局10時半から12時まで1時間半ほど山頂でゆっくりして、次いで鍬柄山に向かう。鍬柄山の山頂は開けていて、大沼全体が見渡せる。正面に黒桧山、右手には地蔵岳が大きい。眼下には今しがた越えてきた出張峠。くるまを置いた自然の家、そして昨夜のキャンプ地も指呼の間だ。ここに立ってみて初めて赤城の大きさが解ったような気がした。見えているのはこの山の中心部分だけだが、思っていたよりかなりちいさい。もとより記憶の中では大きさも形も漠然としたものでしかなかったが、だがそれが何年間か自分の足で山々を測ってきた経験から視た、今の私にとっての赤城山の大きさなのであろう。
 そこからは稜線にロープウェイがかかる地蔵岳を正面に見ながら尾根道をたどり、1時45分、新坂平の白樺牧場の隅に下り立った。そしてくるまの行き交う車道を歩いて、途中近道のはずが薮漕ぎに引っかかりながらようやく湖岸の道に出て自然の家に戻った。帰着2時半。ぐるっと一周、6時間半であった。歩きはじめは直ちゃんがついて来れるか心配したが、会長の歩調は彼女のリズムに合ったらしく、結局彼女はこの日最後まで歩き通すことができて本人も満足そうであった。10年振りの復活が成って彼女も少しは自信がついたろう。辛抱強く最後まで歩調を崩すことなくリードしてくれた会長に感謝。私ではそうはできなかった。
 実はここでまたまた驚いたことがあった。自然の家の駐車場に置いたくるまに近づいてゆくと、もう1台別のくるまがあってその脇に誰か立っている。なんと播磨さん夫婦であった。どうしてここが分かったの?と聞くと、またしても「ハシゴが載った白いバンを見つければいいんだから」。そして来る途中で仕入れたという旨いトマトを皆にふるまってくれた。遊佐さんはそこでこれからスケッチに行くからといって別れ、我々は会長のくるまと播磨さんのくるまで昨夜の楽生会の友人の家に寄って、彼の案内で最近できたという大胡町の温泉へ行き汗を流した。そして原口さんと直ちゃんは東京へ戻る播磨さんのくるまに乗せてもらって、小山氏と私は会長に高崎駅まで送ってもらって新幹線で帰京した。入れ替わり立ち替わりにぎやかで楽しい2日間であった。赤城山は規模といいアプローチといい今風の行楽ハイキングにはもってこいの山であった。

     
 こうして私の赤城山再訪は終わった。今思えば、あれは気持ちに一区切りつける節目の山行であった。いささか大仰に聞こえるかも知れないが、自分の気持ちを推し量れぬままに進めたこの山行は、これまでずるずると引きずってきた人生の一部を改めて見つめ直し、整理をつけ、遠くなった青春への惜別の思いを断ち切って、新たに前へ進んで行こうとする意識の表れであったような気がする。こんなことは、大抵の男ならば、恐らくは結婚を機にして、或いは父親になった日を境にして、経験するものなのかも知れない。独身者は既婚者に比べ若く見えると云うが、私もしばしばそう言われてきた。その度に年令に相応しい皺を刻まない自分の顔を歯痒く思ってきたが、その違いはこの意識の差、自己認識の差が生んだものではなかったか。そうだとすれば、こんな回想はいい歳をして未だにケツの青い未熟者のセンチメンタルジャーニーにすぎないと笑い飛ばされたとしても、或いは独身が長すぎた腑甲斐ない男のもがきであると嘲笑されたとしても、文句は言えまい。
 しかし、私は私。今日になってやっとそこへ達したのならば、それで良いではないか。他人よりテンポが遅いと言われたところで、自分の人生は自分なりのテンポで歩んで行くしかないのだから。恐らく私は、足元を見ずに突っ走るよりも、足元の地面を確かめながらゆっくり歩いて行くタイプの人間なのだ。今後人生がどう変わろうと、自分のテンポでずりずりやって行く、その姿勢だけは変わらないような気がする。


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