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編集後記

 2000年問題で明け暮れた年の瀬だったが、結局ほとんど何も起こらなかった。コンピューター会社の陰謀だったのかと勘ぐりたくなるほど拍子抜けした。お陰で金子会長は会社で徹夜番、正月合宿に参加できなかった。私が勤める会社でも何十億という投資を強いられ、慌てて作り直したシステムの使い勝手の悪さに、ストレスは溜まる一方だ。今の社会、色々便利な分、逆に不自由になったような気がする。それがないと生活できないんだったらこれはもう立派な依存症、中毒だ。コンピューターは、脳の一部の機能を切り出してパワーアップした道具だ。進歩した道具にこの社会は振りまわされている。
 我々山屋は山が好きだ。便利な都会を離れて不便な山へ行く。山を好むからオレたちゃ健全だ、なんて言うつもりは毛頭ない。中には山に酒を飲みに行くアル中もいるから健全だなんてとんでもない。ただ、山が好きなことは程度の差はあれ共通している。なぜ好きなのか。
 話は飛ぶようだが、『意識』の問題を折に触れて考える。意識とは何か? どこにあるのか? まあ、脳の中にあるらしいことは分かっていても、脳を解剖しても意識は出てこない。それは意識がモノではなく、機能だからだ。機能に物理的な形はない。脳の中の無意識な領域の働き、お腹が空いただとか、嬉しいとか、本が読みたいとか・・・。こういった働きを観察している脳の機能が意識ということらしい。だから外世界に反応する能力や機会の影響で、意識の中身も変わってくる。『自分』という意識は、だから外世界との反応図式で、外世界から独立した『自分』なんていうものはどこにもない。「我思う故に我在り」なんて大嘘だ。「我思うは、自然世界の機能の一部」なのである。そしてソレは知りたがる。程度の差はあれ、知りたがる。知りたがるとは、言いかえれば外世界からの刺激に反応したがるということで、どうしてそうなるかと言えば、それが神経細胞の機能だからだろう。
 で、山屋の場合、山が好きだというのは、山という環境に脳を中枢とした身体が強く反応し、それを観察する意識が喜ぶ、ということが言える。好きとはそういうことだろう。
 冒頭のコンピューターに代表される便利な都会生活とは対照的に、山での生活は原始的だ。まあ、優れた山道具にも支えられてだが、基本的に自分の体力と技術が勝負だ。だからこそ自然が身近に感じられ、自分が生かされていることを、つまり外世界との関係性を実感できる。山屋はその関係性を取り戻しに山に行く。
 都会生活の便利さは、中毒だと言った。それは脳が環境との関係性を忘れ、自分だけで世界が成り立っている、というより、自分が自由にできる構成要素だけで自分の周りを固めようとしている(それが都会の本質だろう)、ことからくる不健全さなのではないか。
 話がずいぶんと堅苦しくなった。こう考えていること自体が頭でっかちな気もしてきた。もう手遅れかも知れないけれど、せいぜい自然に捨てられないように努力していこう。自然はその一部である人類がいなくても、別になんにも困らないのだから。

編集 小堀

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