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白き神々の逆襲
さとう あきら

 昭和57年、三峰の正月合宿は楽勝だったかに私には思えた。北アとは違い、ここ南アルプスの冬は東京同様連日の晴天である。時おり強い季節風に引きちぎられた雲がもがくように体をくねらせ、淡い青色の彼方へと消えて行く。アイゼンをきしませながら黙々と進む我々の心は、まだ昨日踏んだ本邦第二峰の余韻が残っているかのようだった。しかしあくまで3000メートルの稜線の風は強く、冷たく、伊那谷側のほおの感覚はほぼ麻痺している。シベリアの風神は、せっかく冬山に来たのだからその雰囲気だけでも堪能させてやろうと思っているのだろうか。
 それにしても不吉な事が続いた。11月下旬に荷揚げを兼ねてルートの偵察を行った時の事である。荷は予定通り池山小屋と北岳頂上小屋にデポ出来たものの、その先で風神に痛めつけられビバークを余儀なくされたのだった。漆黒の闇の中、氷のような雨に指をかじかませながら、登山道のわずかな幅員で夜を明かした。山の怖さを思い知ったはずだった。
 そして今回は、何と最も重要なデポ品をことごとくむだにしてしまったのである。無知から来る失態であった。厳冬の北岳頂上小屋の寒気はすさまじく、苦労して持ち上げた2升もの日本酒は完全に凍結、融かしても味は激変しておりとても飲めない。大失敗であった。とは言っても三峰の冬山合宿、非常用や緊急脱出用にと持参したものを各自出し合い、何とかアルコール切れによる行動挫折の事態をかろうじて逃れる事が出来たのだった。
 今日の目的地は白根三山の最南、農鳥岳をわずかに南に下った二重山稜の始まり付近である。予想通り背にした山稜が強い北西風をさえぎる一方、富士山をはじめ秩父や鳳凰三山が目前だ。初夢を見るにふさわしい場所だと私は直感した。翌日の悪夢なぞ予測出来ようか。
 翌1月2日の予定は大門沢の小屋まで。わずか2時間半の行程である。のんびりと起床し、二日酔いの三軒茶屋のI氏と朝のお勤めに出かける。テントから少し歩き、尾根下で風のうず巻く平坦地にまず大キジ投下用の深めの穴を靴で押し空ける。そしてそのわきを足場とすべく踏み固める。稜線の乾燥粉雪はなかなか固くならない。ちょっと不安定かな、と思いながらもズボンを下げしゃがんだ。I氏も同様に私の左5メートルに陣を構え、オェーといつもの雄たけびを上げながらの開始である。が、それもつかの間、アー尻がつめてぇなどと言いながらそそくさと行ってしまった。
 南アルプスの稜線からの眺めは、絶景というにふさわしい。飲みすぎ下痢ぎみだとふん切れが悪いが、それさえも忘れさせてくれる大展望が広がる。リゾート地の高級ホテルには大展望露天風呂を売り物にするところが多いが、このような大展望露天キジ場だって隠れた人気があるはずだと信じたい。(大キジマニアはっとり氏に要確認)
 ササーっと飛ばされた雪が尻に当たり、さあ切り上げにしようと思った時だった。富士山の手前を白いものが横切った。それはお勤めを終えたI氏の、吹き飛ばされたキジ紙だと判断するのは容易だった。しかしその気まぐれな風のゆくえを予測するのは、これほど困難だとは思いもよらなかった。ヒラヒラッと右へ走ったかと思うと、急に身をひるがえしこちらへ転がって来るではないか。一面の銀世界のなかで見え隠れする茶色の付着物は、その表面を薄く雪でカモフラージュしてあるものの、さながら不気味な模様の蛾のようである。雪上をパタパタと不規則に羽ばたいていたかと思うと、急に飛び上がり、おのれの茶色の羽根を誇示せんとする。
 早くこちらも退散しなければと紙を準備する。ほんのわずかの間だが、目をそらしたのは失敗だった。敵は消えうせた。と思いきや、突如右から私の顔をめがけて飛んで来るではないか。きりもみ状に回転させながらの飛来物は、どちらへ避ければ安全かのとっさの判断を困難にさせた。少しずつ羽根を広げつつあった蛾は、あれよあれよという間に私の眼前まで到達し、改めてその模様を大きく広げて見せた。付着したキレ痔の鮮血が赤い牙のよう見える。そして「フフフ、君は無事に帰れると思うかい」とつぶやいたように聞こえた。
 尻丸だしの無防備な体勢の私には、もはや逃げ場はなかった。いやそれ以前に、ウンチングスタイルのまま金しばり状態となっていたのである。その急な接近に驚がくの声を発し、払おうと反射的に右手を上げた。が、この唯一の回避行動が新たな危険を誘発してしまったのである。微妙なバランスでしゃがんでいた足場が、後ろ側にズズズッと崩れ始めた。まずい、このままでは今しがた自分の打った、まだ湯気上がる大キジの上に転んでしまう。大キジを付けた自分の姿が脳裏をかすめた。背中へぬるりと付いた大キジ。帰りの特急車内で、座席の背もたれを汚すまいと敷いた新聞の上にうなだれて座っている自分。暖房で復活したその臭気。周囲の乗客の白い目。そして同行三峰メンバーの狂喜の顔。まさに悪夢である。
 下半身の自由を奪われた私は、とっさに左手を後ろに突き出した。そして背中側だけでも助かろうと、雪面を強く押した。が、その期待はすぐに打ち砕かれ、ひっくり返った亀のようになってしまったのである。それもパンツを半分下げた格好で。 全身雪まみれでもがきながらの脱出は、新たな困難を私に要求した。今打ったキジ穴に間違って手が入ってしまっては、さらなる被害が発生する。朝食のお茶用にと沸かしたコッヘルの湯で、キジの付いた手を洗う事に皆の同意を得られるだろうか? 私は冷静に、注意深く手を付き、体を反転させようとした。が、足がマヒし全く動かない。一瞬、北岳で遭難した先人達の呪い、という言葉が脳裏をかすめた。自分は天幕まで戻る事が出来ず、このまま凍死を待つのだろうか。しかし単に長キジのため両足がしびれていただけ、という事に気付き、私は救われた気がした。
 何とか手をつき、膝をつき立ち上がり、身体を入念にチェックした。どうも毒蛾は私をそれてどこかへ飛んで行ってしまったようであり、またいつもより深かったキジ穴のおかげで自爆する事なく、無傷のようだった。不幸中の幸いだったとつくづく思い、私は神に感謝した。そしてこの一件より、私は大キジ後の紙処理には細心の注意を払うようになったのだった。神の庭をけがすことなかれ。白き紙々に逆襲されるのは、次はあなたかも知れない。


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