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三峰に人あり・「三峰人名録」
小堀 憲夫

 「人」にもの凄く興味がある。山も、何処へ登ったかよりも、一緒に登った人の印象の方が強く残っていることが多い。三峰には凄い人達がいる。その人達に人生と山との係わりについて聞いていきたい。編集担当の勝手で申し訳ないが、このコーナーは前から是非やってみたかった。念願成就。
江村真一氏  新企画初回は、山岳画家江村真一(まさかず)さんにお話しをうかがった。古い会員の方々は良くご存知の、江村兄弟のお兄さんである。丁度「岳人」巻頭の「GAKUJIN ART GALLERY」に紹介されたばかりだった。なぜ「しんいち」でなく「まさかず」なのかも後で判明する。請うご期待。
 上野の松坂屋で「山を描く油絵作家展」が開催されていた6月4日月曜日、鷹ノ巣・集中の翌日、石尾根早下り起因の猛烈な筋肉痛を楽しみながら、服部委員長・福間さんと待ち合わせして会場にお邪魔した。初対面で緊張する。
 個性的な作品が並ぶ中でも、江村さんの作品はひときわ目を引く。何か山全体がワサワサ動いているような、山の中に何かガサコソ動いているような、そんな印象を筆者は受ける。プロフィール紹介に、三峰山岳会所属とあるのが嬉しい。一枚の作品の前で記念写真を撮らせてもらった後、場所を変えてお話をうかがうことになった。事前にグルナビで見つけておいた店に行ってみると、茶室のような静かな個室に案内された。BGMにはジャズが流れている。環境よし。
 何とお呼びしたら良いか分からずにいると、
「みんな、兄さんと呼ぶよ」と気さくな返事が返ってきた。ホッ。非常に暑い一日だったので、まずは乾杯と、生ビールで喉を潤してからインタビューは始まった。
 江村さんの絵の原点は、幼少のころ病弱で、家で寝たきりの生活を送っていた時に病床で始めた絵にある。小学校6年間の内、まともに学校に行けたのは4年間だけ。そのくらい病弱だった。江村さんの山の経歴を知る人には信じられない話であろう。ちなみに、弟さんの「皦」さんも、お兄さんに輪をかけて病弱だったらしい。読者諸兄姉、この話が信じられるだろうか! あの「皦」さんもである。
 油絵を始めたのは桐朋に入った中学1年12歳の時。美術部顧問の先生が創元会の長谷川竜甫氏だった。奥多摩や秩父の山を描く先生で、先生の自宅へお邪魔して、中学生のことゆえ、酒こそ飲まなかったが夜遅くまで話したりしていた。山の絵を描き始めたきっかけはこの先生かもしれない。
 中学へ入っても依然として体は弱く、3年の時近所の大学生に連れられて奥多摩へ行った。それがきっかけで体力を付け始めてゆくのである。当時としては珍しいドロップハンドルの自転車、ロードレーサー乗りも始めた。(ちなみに筆者もこれを少しかじっており、神田の老舗「アルプス自転車」を知っていたことで話が大いに盛り上がった)それまでは腎臓、結核と病気を煩い、薬漬けの生活だったのを、「こんなことではいかん!」 と一大決心して始めたことだった。ここで、それまでの闘病生活が吹っ切れ、新しい人生の展開が始まるのだ。
 やがて高等部に移る。偶然、桐朋の高校山岳部と美術部はだぶっている人が多かった。山岳部には入らなかったが、そういう人達に山によく連れていってもらった。全校マラソンで良い成績を残そうと、その連中と一生懸命走ったりした。そうした生活を通して益々体力がついていった。
 やがて大学受験。おしくも芸大に落ち、東京の私立で絵を描いても面白くない、どうせなら自然が沢山有る、環境が良いところで画を描きたい、ということで山梨大学に入学。偶然そこには長谷川先生の知り合いで、創元会の堀内さんという油絵の教授がいた。そう言えば受験に際し、長谷川先生に相談したところ「山梨だったら知り合いがいる」と山梨大を薦められたような気もする。ともかく、ここでもその人に可愛がられる。まことに人の繋がりとは面白い、有りがたい。
 当然山岳部に入ると思いきや、美術専攻の友人の、
「ここの山岳部へ入ってもつまらん。あそこへ行こう」との進言で、菅原山岳会という地元の山岳会に入る。この山岳会は甲斐駒・北岳辺りの山小屋を幾つも持っており、町長が会長で事務所が町役場にあるという、役所の観光推進課兼小屋番仲間みたいな会だった。同時に、一緒に下宿していた仲間の影響で、なんと陸上部に入り、富士登山競走毎回完走の記録を残すことになる。
 実は筆者もこの富士登山競走に2回ほど出たことがあり、タイムアウトで惜しくも完走こそ逃したが、ここでも話が盛り上がった。思い返してみれば、自分も子供の頃典型的なウンチ、運動音痴で他の科目は5でも、体育だけはいつも3。鉄棒の逆上がりもなかなか出来ない、運動会の徒競走で3位以上になったことがないという有様だった。だから、運動のできなかった子が、競走、しかも富士登山競走なんかに出れるようになったことの嬉しさが良く分かり、自分の事と重ね合わせてお話を聞いていた。
 この山梨大学時代、下宿での仲間との共同生活は、言わば青春黄金時代だった。
「ジーツニタノシカッタァ!」
 インタビューの間、幾つも楽しい思い出の話が出たが、この時の「タノシカッタァ!」が一番心がこもっていたようだ。皆下宿に居る時は一緒にメシを作り、食らい、かつ酒を酌み交わし、大いに青春を語りあった。今でもこの時の仲間とは付合いが続いている。また、大家の子供に勉強を教え、下宿代よりその稼ぎの方が多かったりもした。
 一方、菅原山岳会での活動も盛んだった。これまた、小屋番をして結構な小遣いが稼げた。黒戸尾根の秘密の岩小屋、秘密の水場、秘密の捲き道等、直足袋に自家製の背負子で縦横無人に歩きまわった。
 自分の影響で山にのめり込み、先に逝ってしまった大事な友人の思い出も・・・。
 この時代に登攀、冬山の基本技術が身につく。キャラバンは「こんなもん役に立たん」と捨てられ、夏は地下足袋だった。これが岩場でピタリと決まり、良い感じだった。荷物は全部背負子。これで全部通した。後に都岳蓮の講習会を一生懸命受ける時代もあるが、基礎は全てこの時代にできた。ピトンを打ったりザイルを出したりする訳ではないが、このスタイルで遭難救助にも行った。言わばマタギスタイル。
 卒業して千葉の中学の美術の先生に。今の荒れた中学など考えられない実に良い中学だった。担任もやり、大学で陸上部をやっていた関係で、その中学に陸上部を作り、全国レベルの選手を排出したりした。この時の生徒は今でも個展を観に来てくれる。美術の先生の仕事は楽だった。少し教えて、後は自分の絵を描いていれば良いわけで、自由な時間が多かった。いい加減な先生だったと思うが、子供にはその方が良かったのかもしれない。良く懐いてくれた。
 卒業と同時に一水会に所属。自分の力を世に問う意味で、卒業制作を出品してみたところ、見事入選した。以後出品を続ける。
 70年に日本山岳画協会会員の足立真一郎先生の絵に惚れ込み押しかけ入門する。この先生の影響は計り知れない。弟子は江村さん一人きり。いわゆる後姿で教えるタイプの魂の師だった。以後30年師事する。70歳代でまだ3000m級の山に仕事に行く凄い人だった。
 71年に初めての山の油絵個展を椿近代画廊で開く。
 74年には初めての海外遠征でマッターホルンに単独登攀。頂上直下には運動会の綱引きの綱のような太い麻縄が垂れていてそれをごぼうで登った。南アルプスで鍛えた成果が現れた。それ以後、アルプス、ネパール、パキスタン、インド、中国、韓国などに、海外遠征兼制作旅行の歴史が始まる。
75年日本山岳画協会会員。
77年日本山岳会会員。
86年創元会出品。
93年第18回山の油絵個展・神田・草土舎。
  第52回創元展東京都知事賞受賞。
94年大町山岳博物館作品収蔵。
95年長野県美麻村にアトリエを構え創作活動に集中。以後個展多数開催。
 三峰山岳会に入ったきっかけは、「皦」さん。「皦」さんが少し先に入り、その紹介で入会した。当時の思い出は色々あるが、「伊藤ちゃん」が委員長をやっていたころが、一番良く登った時代かもしれない。槍ガ岳での正月合宿のリーダーをやったりもした。岩つばめの編集もやった。
 奥様は服籐さなえさん。平安朝の女性史を専門とするテレビにも多数出演の著名な歴史家である。先生時代、山の関係で知り合った。本も多数出版され、一般向けの原稿は最初に江村さんが読まれる。江村さん自身も最近執筆活動が忙しく、機械が苦手な江村さんは、鉛筆原稿を奥様にワープロで起こしてもらっている。
 お子さんは電通大のワンゲルで活動されている。小学校1年の時から毎年槍だ穂高だと連れて行った。「皦」さんが小屋番をやっていた船窪にも行った。
 最近は、7年前に建てた長野県美麻村のアトリエで絵を描く時間が多い。もうすぐ88歳になるお母さんを連れて出かけ、おさんどんをしてもらう。これも親孝行。

 さて、そろそろ「まさかず」という名前のなぞの話に触れよう。
弟の「皦」さんの名前も奇妙だ。「ひろし」ではなく、「しろし」。その漢字も珍しい。
「これは何かあるな」、と前々から思っていた疑問を率直にぶつけてみたところ、快く答えてくださり、筆者の好奇心は大いに満たされたのであった(週刊誌的ですみません)。
 お姉さんの和子さんも、「かずこ」ではなく、「あさこ」と読ませるこの3人の子供達の父上は、宣真(のりみち)さんと言い、なんと「天真教」という、当時天理教と同じくらい勢いのあった新興宗教の教祖のご子息であったのだ。3人の子供の名前には、凡人の計り知れぬ深い訳があるのだ。ちなみに、「皦」は、中国の宝石の名前だとのこと。

 駆け足だが、予定していたインタビューはほぼ終わり、話は次第に三峰の思いで話に移っていった。

 お話を伺っていて、つくづく思った。人生は実に不思議だ。面白い。妙な言い方だが、子供のころ病弱でなかったら、山岳画家江村真一は生まれなかったかもしれないのだから。病床で一人寂しく絵を描いていた病弱な男の子が、山登りをきっかけに人並み外れた体力を身に付け、やがて重い画材を担いで世界の山々を登り歩く山岳画家になった。

 山登りについて江村さんはこう言われる。
「どこへ登ったかよりも、誰と登ったかだ」
 そして、千葉での教員時代の生徒さん達が、個展の度に観に来てくれることや、青春時代の仲間の話を実に嬉しそうに話される。
「江村さんにとって、芸術ってなんなんでしょうか」
と、インタビューの終わりに生意気にも聞いてみた。直ぐに、
「感動を伝えることさ」と返ってきた。続いて、
「山の画にはタブロウ(※1)がないと言うやつらがいる。作者の意図が感じられない、と言うんだ。オレはそいつらには、山の画を語る資格は無いと思う」
「山を見て感動する、そのこと自体がタブロウだと」
「そう、そのとおりだ!」
 江村さんの話され事々を全部練り合わせて一度に想ってみた。
 山岳画家江村真一さんという人の真中が少し見えてきたような気がした。

※1:タブロウ:仏語で油絵のこと。この場合「意図した芸術性」の意味。

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―山の描き方入門―
「絵姿百名山」 (朝日選書)朝日新聞出版局
 江村 真一


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