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東吾妻・一切経山周辺
服部 寛之

山行日 2001年9月15日~16日
メンバー (L)服部、天内、伊藤(め)、広瀬夫妻、(青木)

 7月に西吾妻に行ったので、この際以前から行ってみたかった東吾妻にも行くことにした。
 14日金曜夜東京駅で伊藤(め)さんと天内氏と待ち合わせ、途中東北道・蓮田SAで服部の元同僚の青木さんを拾い、さらに安達太良SAで広瀬夫妻と合流する。東京は降っていなかったが、北上するにつれ雨となった。福島西ICで降り、磐梯吾妻スカイラインを上りはじめると間もなく視程10m前後の深い霧に突入。やがて乳白色の世界が突然途切れると、雨に洗われてつややかな闇空に星星がまたたいていた。浄土平の駐車場は強い風が吹いており、広瀬夫妻は自分たちのクルマで、伊藤・青木のお嬢たちは服部車で仮眠することにして、天内氏と服部は2台の間に風を避けて張った小テントにもぐり込む。寝入り端暴走族のアホ車が1台やってきて広い駐車場内を急ハンドルでキュルキュル走り回りうるさくてしょうがない。操作を誤ればうちらのクルマに突っ込んでこないとも限らない。時折止まっては何が可笑しいのかケラケラ笑い声を上げている。まったく、テーノー丸出しの青臭い馬鹿声に腹が立つ。
「おい、てめーら、うるせえぞ。失せろ、馬鹿野郎!」
「なんだとォ。おっさん、いい度胸じゃねえかよ」
 ふてぶてしい態度でクルマから降りつかみかかろうとする金髪のチンピラの顔面に具志堅並(古いか)の服部の左ストレートが炸裂、イキリ立つもう一人の横づらには天内氏がブルース・リー並(古いか)の強烈な後ろ回し蹴りを食らわせる。次いで広瀬氏の空手チョップ(古すぎか)がするどく空を切り、テキは罵声を吐きつつ退散していったのである。ザマミロ。というようなことをシュラフをかぶったまま何度も何度もアタマの中で繰り返すうちにようやく先方が自主的に退去してくださり、あ~よかった! 遠ざかる爆音に安堵する。
 15日、寝不足気味の夜が明けると風も弱まり青空が広がっている。が、周囲には雲海も広がっており下界は天気悪そう。ということは、ここへ登山に来ようとする人は今日は少ないかな、とにんまり思う。ゆっくりと食事をして、7時55分、まずは目の前の吾妻小富士に向かう。お釜の縁まで階段を上ること10分。よく整備されているのはちょいと覗いて来たい観光客のためか。リング状の稜線は浄土平側にやや傾いており、反対側の頂上まで反時計回りにてれてれ歩く。お釜の底に石を並べた落書きが見える。火口内には青い湖水が見られるかと思っていたのでちょっとがっかり。が、おもしろい草模様が火口の内壁を飾っている。頂上からは周囲に居並ぶ高山、東吾妻山、一切経山が眺められる。すぐ目の前の大きな一切経山だけは木がなく茶色。東側は一面の白い雲海。お釜を一周して一旦駐車場へ戻って、ちょうど1時間。
 次いで一切経山へ向かう。浄土平駐車場の隣は湿原で(というより、湿原の一部を埋め立てて駐車場にしてあるようだ)、木道が整備してあり、湿原の草花を眺めながらゆくと、足元に径5~6ミリの白い玉が鈴生りになっている。どんな味がするのか白い玉をかじってみると、もろサロメチールであった。潰して肩に塗ったら肩凝りに効くかもしれないが、かじるものではない。ペッ、ペッ。翌日植物観察をしている人に聞いたら「白玉の木」というのだそうだ。疑問の余地のないそのままの名前に即納得。
 木道から一切経山の南尾根にとりつき、幾つものパーティーに混じって登ってゆく。しばらくして一息つこうと振り返ると、浄土平の駐車場の向こうに吾妻小富士が池の鯉よろしくパッカ~ンと口を空に開けていた。その右裾には吾妻小富士のミニチュアのようなお釜がおまけのようにちょこんと座しており、水が溜まっている。地図を見ると「樋沼」で、そのものズバリのネーミングに「なるほど!」。さらに登ってゆくと、眼下に酸ヶ平が広がり、平かな蓬来山の裾陰に青い鎌沼の一部が覗いている。蓬来山の左奥には東吾妻山が、酸ヶ平の右手奥には前大巓がなだらかな緑の稜線をもちあげ、一幅の絵のような穏やかな景色に思わず足が止まってしまう。その先の酸ヶ平への分岐で一本取り、広いガレた稜線をさらに登ってゆくと、右手眼下に吾妻小富士の大口が見えた。それにしてもこの山は「火山とはこういうものです」といった実に整った形をしていて感心してしまう。
 その先の広いガレ尾根が高まった所に一切経山山頂の標識が立っていた。10時45分登頂と手帳にメモる。山頂といっても実際広い尾根の一部なので「お山の大将」的な登頂感は感じられない。腰を下ろしても広すぎて所在げない。他のパーティーも広い山頂のあちこちに散らばっていた。そこで皆で登頂の証拠写真を撮ってから、五色沼を見ようと山頂の北端へ行って覗いてみると・・・。
 そのとき目に飛び込んできた衝撃的な美しさをどう表現してよいのか筆者は知らない。山中に落ちた一粒の宝石のような碧玉色の湖水。緑の台座に嵌め込まれたサファイアのよう。五色沼という平凡な名前からは想像もつかない美しい色合いである。これまでに見たどんな湖水よりも見事な色と言えるかもしれない。翌日出会ったおばちゃんの話では「吾妻の瞳」と呼ばれているそうだが、むしろ「魔女の瞳」とでもいったような神秘的な印象がある。夢中でシャッターを切る。

「吾妻の瞳」五色沼をバックに

 五色沼に感動したので、沼へ下りて対岸に頭をもたげている家形山まで行ってみることにする。ガレた大きな斜面を下って灌木帯に入ると、ここにもさっきの「シラタマノキ」があった。灌木帯を抜けると道は五色沼の西側の縁をかすめて家形山へと続いている。沼は火口湖なので湖面に向かって急傾斜で落ち込んでおり岸へ下りるのは難しい。五色沼の付近ではブルーベリー(黒豆の木)がなっているのを見つけ、皆でウヒョーっと喜ぶ。その先の急登を10分強あえいで、11時40分、家形山頂上着。五色沼の向こうに一切経山が聳え立っているのを眺めながらしばらく休憩する。うちらの後から大荷物を背負った十数名の中高年パーティーが登ってきて、少々休憩してから西の東大巓の方へ縦走して行った。
 うちらは30分ほど休んでから引き返したが、じきに雲が下りはじめて天気は悪化、一切経山へ戻るとガスが強風に乗って吹きぬけて寒かった。大きなケルンの陰に風を避けて少し休んでから、足早に先ほどの分岐まで下りて来ると、雨になるにはまだしばらくありそうだったので酸ヶ平へ下りて鎌沼を見てゆくことにする。酸ヶ平の避難小屋はブラック仕様の外観が格好いい。建て替えられてまださほど経っていないとみえてきれいだ。酸ヶ平周辺は木道が整備されて踏み荒らされないようロープが張ってあるが、ちょうどブルーベリーが一面に鈴生りで、中高年の男女5人パーティーが柵内に踏み込んで夢中で採っていた。思わず一番手前にいたおばさんに注意すると、しかめ面をして顔を伏せブルーベリーの山を両手にそそくさと去って行った。いい歳をして、自制を知らない確信犯とは情けない。良心を踏みにじってまで口にして、さぞかし味わい深いことだろう。鎌沼の端まで来るとポツポツ降りはじめたので、足早に駐車場へと下山した。クルマに戻ったところで本格的な降りとなった。
 その夜は兎平キャンプ場で幕営した。ここは森の中の経路に沿って点々と幕場が切り開かれていて、炊事用の水場とトイレがいくつか設けられている。幕場代は一人100円と各段に安いが、トイレも各段にきたなかった。うちらの他にもう1パーティーしかいなかったので、平らで良さそうなサイトを選んで張ったが、水はけが悪かった。キャンプ場は全体に暗い感じで、出そうな雰囲気があり、あまりお勧めしない。
 ところで、一切経山(いっさいきょうやま)とは変わった山名だが、その由来は誰もが気になるところだろう。手元の文献には、「八幡太郎義家に敗れた安倍貞任が仏門に入り、一切経の経本1,000巻を山頂に埋めたとも、空海がこの地に霊場を開こうとしたが面積が狭く果たせなかったので、この地に一切経を埋めたとも伝えられる」(三省堂『コンサイス日本山名辞典』)とある。つまり、一切経なるものを埋めた山ということらしいが、では一切経とは何か? 広辞苑によると、「【一切経】経・律・論の三蔵及びその注釈をふくめた仏教聖典の総称。大蔵経。」とあるが、何のことやらよくわからない。さらに「だいぞうきょう」を引くと「【大蔵経】仏教聖典の総称。経蔵・律蔵・論蔵の三蔵の他に、それらの注釈書を網羅した叢書。梵語・パーリ語、並びに西蔵・蒙古・満州・漢訳あり、漢訳が最も大部。わが国で、昭和に完成した大正新修大蔵経は全100巻3053部を収め最大のものである。一切経。蔵経。」とある。ここまでくると、わかる人は解る。わからない人は解らない。そして、興味深いことに、前出の山名辞典には「1893(明治)年の第1回の爆発より現在まで12回の爆発を記録している。」とある。現代に入って爆発に目覚め、頻繁にボカスカ爆発を繰り返していたのだ。殆ど木が生えていないのはその所為だろう。故岡本太郎は「芸術はバクハツだ!」と言ったが、あの美しい五色沼もバクハツによって生み出されたとすれば、この山は、正に、悟りの境地によって芸術をバクハツさせた日本山岳界の岡本太郎と云えるのではないだろうか!!??? わかる人は解る。わからない人は解らない。
 大雨の一夜が明けた16日、雨はやんだが雲の動きが速く天気がはっきりしない。今日は浄土平から鎌沼、東吾妻山、鳥子平と一周する予定だが、早朝ひとまず撤収して取り敢えず浄土平の駐車場に移動し、トイレ(きれいな水洗トイレがある)で用を足しながら様子を見る。だが、やはり雲の動きがいまいち読めず、悪化してきたら下山することにして、取り敢えず鎌沼まで行ってみることにする。再び木道を通り、きのう下山してきた鎌沼への道を上がる。木道脇のブルーベリーをつまみながら鎌沼の岸辺までくると、鏡のような水面に周囲の山や森が映っていて美しい。モノトーンの静寂な世界。手前の森蔭で遊んでいた鴨のつがいが相次いで羽音をたてて飛んでゆく。水面を蹴った足跡が広がり、景色を揺らす。ベンチに腰掛けてしばし魅入っていると、風が下りてきて水面を曇らせた。東吾妻山の山頂にも黒い雲がかかりはじめたので、やはり引き返すことにして腰を上げた。
 浄土平に戻ってくると、雨になるまでもう少し保ちそうな気配なので、湿原の木道を抜けてきのう見えていた樋沼へ行ってみることにする。この小さな火口湖は全体が森に覆われこんもりとしている。お釜の縁までは造作なく、上り着くと小さな広場にベンチがあった。火口側には背丈ほどの灌木が茂って湖面はたいして見えないが、踏跡をたどってちょっと下りてみると、しばし覗いた青空が水面で揺れていた。ベンチ前の説明書きには、かつてこの辺りが硫黄の採掘地として開発され賑わった旨記されていた。沼の対岸にひっそりと佇む橋脚のようなレンガの建造物は当時の名残りなのかも知れない。駐車場に戻ると雨が落ちはじめた。今日もタイミングが良かった。
 帰りは二本松の方へ下って、幕川温泉に入湯した(¥500)。「山奥の秘湯」の看板に惹かれたのだが、行ってみると大きく切り開かれた敷地に無愛想な鉄筋の旅館が建っていて秘湯の雰囲気は微塵もなかった。その後、まだ時間があったので、二本松市内で昼食をとってから、かねてより訪ねてみたかった「奥州安達ヶ原」へと足を運んだ。謡曲「黒塚」で知られる鬼婆の「黒塚」(今から1275年前の奈良時代、食人鬼と化し鬼婆と恐れられた「岩手」が調伏され葬られた塚)と、鬼婆が住んだ岩屋やその遺品を保存している「観世寺」(拝観¥400)を見学し、たいへん興味深く勉強になった(のはオレだけか?)。歴史に名だたるこの場所は、妖怪ファン必見の旧跡である。尚、『拾遺集』巻第九にある平兼盛の有名な歌
「陸奥の安達の原の黒づかに鬼こもれりと聞くはまことか」は、当時既にあった鬼伝説にかこつけて、歌枕にあこがれる都人がみちのくの女(オニナ<女> =「オニ」の意)を皮肉った歌だとのこと。
 その後二本松ICから東北道に乗り、蓮田SAで青木さんを降ろして広瀬夫妻と別れ、浦和ICで一旦出て鳩ヶ谷で伊藤さんを降ろし、再び首都高で東京にでて大崎広小路駅前で天内氏を降ろし、茅ヶ崎に着いて最後に自分も降ろしたら22時だった。あ~疲れた!
 皆さんもホントお疲れさまでした。長かったねえ、この作文。


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