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三峰に人あり・「三峰人名録」#2
播磨 忠さん
小堀 憲夫
播磨夫妻

 人は、明るく誠実に生きなければいけない。インタビューを終えて帰る日比谷線の座席に腰掛け、我が身を振り返り反省していた。けれど同時に、播磨夫妻の仲睦まじさに、早春の川辺に寄り添い咲く、フキノトウの雄花雌花を見る思いがして、爽やかで幸せな気分に包まれていた。
 今回の「三峰人名録」は田原宏史さんに紹介していただき、播磨さんにお願いすることになった。今私の手元に、「年報 三峰 創立50周年記念号」という立派な冊子がある。前回の「三峰人名録」に登場いただいた江村真一さんらが中心になって作られた、三峰山岳会創立50周年記念の岩つばめ特集号だ。この中には、三峰発足から50年間の歴史がよく語られている。戦火で消失した記録も多いとのことだが、創立メンバーの一人、初代会長のヤゾーこと宮坂和秀さんらが、どのような経緯でこの山岳会を設立したか、「モートーコール」がどのようにして生まれたか、そしてその後の三峰山岳会の山あり谷ありの50年の物語がどのようであったか、しっかり記録されている。中でも、「会のあゆみ」の記事は、日本山岳協会の1984年・登山年報にも、「三峰山岳会50年のあゆみ」として紹介されているくらいだ。表紙を飾るのは勿論江村さんの絵だが、その江村さんに、「播磨さんは本当にすばらしい会長だった」と言わしめたその人に、是非、人生と山との係わり、そして三峰との係わりについて聞いてみたかった。
 当日は風の強い日で、花粉が飛び狂っているだろうことは、鼻のセンサーが故障しそうなくらい唸り続けていることから明らかだった。地下鉄日比谷線の三ノ輪駅で夕方田原さんと待ち合わせた。私以上にひどい花粉症持ちの田原さんは、案の定、サングラス+マスク+帽子の、どこから見ても怪しいオジサン姿で、「よっ」と現れた。私と同じで調子が悪いらしい。ドラエモンのように両手を突き出して、言葉少なにスタスタ歩いて行く。私はその後をドタドタついて行く。駅から国際通りを浅草方面へ進み、左に路地を入り、下町の懐かしさ漂う町並みを楽しみながら暫く歩くと、ホットスタンプハリマの看板が見えてきた。玄関を入ると、二階から播磨さんのテノールが聞こえ、ネコちゃん達が出迎えてくれた。二階のリビングに入ると、さらに数匹のネコちゃんとご夫妻が笑顔で待っておられた。そして、テーブルの上にはオデンの用意が。勝手知ったる他人の家で、田原さんはさっさと自分の定位置に納まり、宴会モードに入っている。私も田原モードに影響されるのを恐れつつその隣に座った。と、
「何を話せば良い?」と播磨さんのお話がすぐに始まった。急いでノートを取り出す。
 播磨忠さん、現在58歳。家業を継いで台東区竜泉でホットスタンプハリマを経営している。三峰山岳会に入会したのは昭和37年。現会員の同期には、別所進三郎さんがいる。入会以前は、日大一高の仲間とよく山に登っていた。昭和32年に日本山岳会によりマナスルが初登攀され、当時山は一大ブームだった。登山用具も新製品が現れ始め、ブームを後押しした。それまでどちらかというと同人的に運営していた三峰山岳会にも、急激に会員が増え始めた。そうした状況を踏まえ、会員の技術レベルの向上を目的に34年9月には岡野淳さんを中心に技術研究部、通称「技研」が発足し、成果を上げ始めた。ちなみに「技研」の生き残り?には、原口藤雄さん、野田昇秀さんらがいる。
 社会人新入生の播磨さんが、入会したころの三峰はそんな時期にあった。播磨さん入会の年、昭和37年の入会者はなんと40名近くいて、会員数総勢80名のりっぱな山岳会となった。確かに当時の山行記録を見るとかなり充実している。冬山合宿・南ア聖岳、春山合宿・穂高岳沢、夏山合宿・中ア全山縦走、谷川幽の沢、谷川幕岩Bフェース、八ヶ岳権現沢右俣正面ルンゼ、富士山氷雪訓練、穂高岳奥又白谷、等々。中には稲子岩岩場合宿という、まるで山口耀久の「北八ッ彷徨」の世界のような記録もある。ところが、翌38年、創立30周年の記念すべき年に、春山合宿の穂高岳沢の天狗沢において、雪崩による遭難事故を起こし、山越薫さんの尊い命を無くしてしまった。
 そうしたアクシデントが起こると、自然な成り行きとして会活動は停滞する。技研は自然消滅したが、そんな時期でも播磨さんは、家業の傍ら山本義夫さん、鈴木嶽雄さんとともに、3バカトリオ(当時はそう呼ばれていたらしい)でよく山にいった。記録を見ると、しっかり山行していることが分かる。播磨さんのスタイルはオールラウンド。過激に走らず、色々な山行形態を存分に楽しむタイプだった。43年には委員会のメンバーとなり、45年には播磨委員長が誕生する。以後3年間委員長を務め、その間会の活動を活性化することに大いに貢献した。
 そして、委員長になって2年目の46年に、松本順子さんが入会する。外資系の企業に勤めていた順子さんは、5月の連休に美ヶ原で見た、南アルプス・八ヶ岳・北アルプスの秀峰に憧れ、会社のワンゲル部に入り、それでも物足りなくて三峰に入会。前出の3バカと毎週のように山に行った。そして、冬山合宿の仙丈岳で、誠実で明るい播磨委員長をいつしか好きになっている自分に気が付いたのだった。翌38年めでたくゴールイン。播磨委員長は退任と同時にすばらしいご褒美をもらったのだった。ちなみに、この40年代には会員同士のカップルが5組も誕生している。

(こうして播磨さんからお話を伺っている間、その隣には順子さんがたえずニコニコと慎ましやかに控えておられ、おでんの具が少なくなると足しに立ったり、新しいおつまみを用意したり、私の隣でマイペースでガンガン燗酒を飲んでいるオジサンのお酒をいやな顔もせずに用意したり・・・。ともかく、途中大学生の息子さんが帰ってきたりして、ここには書ききれないほどたくさんの思い出話に花が咲いたのだった)

 昭和52年には、以後9年の長きに渡り続く播磨会長が誕生する。前年51年には江村しろしさんが入会、同年には、江村真一さん、伊藤光男さん、小林健二さんらが入会し、会活動はますます盛んになり、会員も増えた。53年には、欧州の山修行から帰国した田原さんや、佐藤明さんらが入会している。中でも、田原さんが当会に与えた影響は大きく、登攀的な山行ではいつも指導的役割を引き受けた。後年、山岳保険を本格的に取り入れ、会員皆保険の実現にも田原さんの貢献が大きい。明さんも、須貝寿一さんとコンビで過激に会を盛りあげた。その後も、広瀬昭男さんご夫婦ら今も現役会員の皆さんの入会が続き、活発な会活動はそのまま昭和60年代に突入するのである。
 9年もの長きに渡って会長を勤められ会を盛り立ててこられた秘訣を聞いてみた。
「会長の役割は会社の経営者と同じだよ。色々な人に入ってもらって、それぞれ良いところを伸ばしてもらう。そうすれば自然に会も伸びるんだよ」
 う~ん、どこぞの天狗社長に聞かせてやりたい名言! 指導者はやはり人間の器で人をリードするもの。人間同士の信頼関係ができていれば、あとはほっておいても下がちゃんとやるんだよね!
 数年前に腎臓を悪くされ、今は週に3回の透析を受けている。先生は好きなものを食べて大いに働きなさいと言う。播磨さんと考え方が合う良い先生だ。
 少し聞きにくかったが思い切って聞いてみた。
「体を悪くされて思うように山に行けなくて辛くはないですか?」
「それは無いね。病気をしても、歳をとっても、それなりの山の楽しみ方があるもんだよ」とテノールの即答。
脱帽! である。最近、仕事と山のアンバランスに悩む私は、大いに励まされた。播磨さんも仕事で山から少し遠ざかれた時もあり、よわいによる体力の限界も当然経験済み。でも、腐らない。あくまでも明るく前向きだ。
 奥様も大病を経験されているが、明るく元気。これからも山は続けたいと言う。播磨さんが会長をされているころに設定された当会のモットー、『生涯登山』を実践されるお二人なのである。
 インタンビューも一通り終わり、お酒を頂きながら、50周年記念の岩つばめ特集号の年表をパラパラとめくっていて、フッと自分の世界に入ってしまった。今、目の前に、三峰と共に生きてこられた播磨夫妻が居る。そしてそのお二人の中には、日々の生活と三峰との係わりの中での様々な思いが、過去からずうっと積み重なっている。そして隣にいる田原さんをはじめ、三峰を支えてきた多くの会員達の中にも、同様な思いが積み重なっている。そんなことをぼんやり思っていたら、ズンッ! と深く重たい衝撃に腹を押された。同時に、この三峰山岳会が無性にいとおしく思えてきた。
 田原さんが来た帰りはいつもそういうことになっているようで、奥様の運転で、駅まで送っていただいた。
 今回は隣に声の大きなおじさんもいて、三峰の思い出話が中心になったが、次回はもっと落ち着いた時間に、ご自身と奥様のお話ももっと聞きたいと思った。

播磨さん&長男

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