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三峰に人あり・「三峰人名録」
原口 藤雄さん
小堀 憲夫

 いつお会いしても明るくエネルギッシュな人、それが原口さんだ。原口シェフのニックネームでみなから親しまれ、三峰祭り、新年・忘年山行などのイベントを催す時、いつも真ん中で料理を作っている。田原さんが参加する時には特にそうだ。
 先日、高尾山で花見山行の例会があった。朝から大雨の予報だったので、当然中止だと思い電話したら、
「田原は雨でも行くと言ってるよ」と原口さん。
「原口さんがふぐちり鍋をやると言っているもの、行かなくちゃ」と田原さん。
 結局、大雨どころか吹雪の中を高尾山に登ることになった。一丁平の東屋で震えながら一面の雪景色を愛でつつ、ふぐちり鍋を食べた。田原さんの友人も入れて大の大人が4人も揃ってそこまでやると、ばかばかしさを通り越して、一種爽快な気分になったのを覚えている。
「ばっかだね~!」と、お互いのことを笑い飛ばした時の原口さんの笑顔が忘れられない。
 ところでみなさんは、この原口シェフが、昭和34年に入会されたビンテージ会員で、三峰山岳会・技術研究部、通称技研のリーダーだったことをご存知だろうか。
 前からインタビューをお願いしていたのに、段取りが悪くてなかなか実現しなかった。間際になってのお願いにも拘わらず、
「おお、いつでも良いよ」
とのお言葉に甘え、3月の連休初日の21日に会社とご自宅にお邪魔した。
 原口さんに関しては、何回か山をご一緒させていただいた時の印象がともかく強烈だった。いつも自信にあふれていて言動に迷いがない。三峰には自営業の先輩が比較的多いが、原口さんも会社を経営されており、以前中華料理店を経営していたこともあると話に聞いていた。雇われ人にならずに自営業にこだわり続ける気概が、いつも感じるエネルギー源なのだろうか? 知りたかった。
 原口さんの会社、友好精器製作所は横浜市港北区の高台の住宅街にある。壁にはツタが絡まり、親友の田原さんが作ってくれた看板が3枚掛かっている。平成元年に最初は賃貸で移った今の工場の土地を、5年前に購入した。中は2つに仕切られていて、半分を人に貸している。原口さんの仕事場側には、工具、材料、ロッカー、冷蔵庫、本棚、ラジオ、山道具など、ありとあらゆる物が所狭しと置かれている。そして金属と油、プラス生活のにおいもするブラックホールの向こう側はかくあらん的、不思議なカオス空間だった。見せてもらった製作中の製品は、レーシングカーのパイプのジョイント部品、宝くじの自動判読機用部品、ベルトコンベアー用の部品、戦車用の部品、敦賀原発の部品、などなどなど。個別注文を受けて作る金属部品のオンパレードだった。注文を受ければ何でも作るそうだ。
 友好精器製作所を始めて24年になる。この機械加工の仕事自体は、父親の知り合いが経営していた白金の町工場に中学卒業後就職した時に始まる。働きながら高校、大学に通った。夜なべ仕事もよくした。気が付くと機械にしがみついて寝ていたこともある。
「独立仕事は厳しいよ。よほどの気概がないとできない」との言葉には迫力があった。
ここが私の仕事場だ  友好精器の前に、一時サッポロラーメンの店を東大裏の山手通りで開いていたことがある。それまで何十年とやってきた本業が第一次オイルショックによる不況の影響で左前になった時、弟の友人がやっていた店を引き継いで始めた店だった。家で台所仕事を長年手伝っていたので、この180度の方向転換にも迷いはなかった。3年自分でやった後3年人に任せていた。丁度セブンイレブンができ始めたころだ。東大の寮生が夜中によく食べにきた。その時代に3人の子供に恵まれ、家賃の高い渋谷に住んでいたこともあり、夜間まで続く仕事にもよく耐えて働いた。その後知り合いに、工場長をやってくれないかと頼まれ、機械加工の仕事に戻り、今に至る。
「ともかく、逃げることはしたことがない」
そう言い切る潔さは真似ができない。何なんだろう、この強さは?
 山の話はウチでしようということになり、横浜の会社を後にして暑いくらいの晴天の中、厚木のご自宅に向かった。車の中でも後から後から面白い話が止まらない。
 原口藤雄、現在62歳。5人兄弟の次男として大井町に生まれ育った。今は厚木在住。家族5人で暮らしている。学生時代から山を始め色々なスポーツに親しみ、現在も近所のスポーツジムに通い、現役バリバリで仕事と山を楽しんでいる。
 山が好きになったのは、小学5年生の時、隣の牛乳配達のお兄さんに、高尾山に連れていってもらったのがきっかけだ。小仏峠でヘロヘロにばてて、相模湖に下る道の途中赤い柿の実が一つ残っていたのを鮮明に覚えている。山を本格的に始めたと言えるのは、働きながら工業高校に通い始めたころだ。どしゃぶりの中、仲間と丹沢の表尾根にヤビツ峠から入った。当時はろくな雨具もなく、ずぶ濡れの強行軍だった。日を改めて、今度は大倉尾根から登り直し自信がついた。よし次は山岳部だということで、2年の時山岳部に入った。丁度第一次登山ブームが始まったころで、マナスル登頂に成功した松田隊員を、部主催の講演会に演者として招待したこともある。高校山岳部は厳しかった。下界での走り込みトレーニングは勿論、山行中水は飲ませない、先輩達は小さいザックなのに自分達はばかでかいのを担ぎ、ピッケルでどつかれる、などなど。雪山訓練などは、滑落停止法も何も知らないまま、下にピッケルを持った先輩が待つ急な雪面を、確保なしに突き落とされるといった具合だった。岩トレもよくやった。5階建ての屋上からアップザイレンして教頭から怒られたこともあった。沢登りもよくやった。沢登りと言っても、当時沢は岩の入門という位置付けで、ナーゲル靴で登った。ナーゲル靴というのは山靴の裏に鋲が打ってある昔の山靴のことだ。登山靴はよく滑るが、この鋲でそれが止まる。丹沢には毎週通った。3年では部長を務めた。
 三峰に入ったのは、単独行をやっていた時、三峰創立時メンバーの一人長久さん達に会い誘われたのがきっかけだ。19歳で会に入ってもう43年になる。3月に入って最初の山行が北岳の合宿だった。第一次登山ブームのあおりで会員数も一時は280名近くになった。会活動のレベルアップを図り、会則を改め、指導者の育成を目的として、技術研究部、技研を作った。山での思い出は数限りない。
 奥穂高で雪崩にあったことがあった。ガスの中、音もなくブファーと雪が雪崩落ちてきた時の恐怖は今でも忘れない。
 夏は沢によく通った。昔は車が無いから、夜中に行って橋の下で寝て朝から登った。丹沢の悪沢は次から次と棚が出てきて楽しい沢だ。昔はノーザイルで平気で登った。
35周年の時、当時学生だった別所、溝越、牧野の3氏が南北日本アルプス全山縦走に挑戦したことがあった。その時、サポート隊としてそれを援助した。
 昔から山では食当だった。酒は少しは飲めるのだが、飲むとすぐ寝てしまうので、田原さんなどは絶対飲ませてくれない。飲むと、食当がいなくなって、みな餌なしになってしまうからだ。メニューで好評だったのは、塊の豚肉をみりんで溶いた味噌に漬け込んで持って言ったものだ。ステーキにしても良いし、あまったら豚汁にしても良い。安いし豪華だから喜ばれた。
 などなどなど。原口さんの山の話はまだまだあるのだが、厚木へ向かう車の中で、話は予想もしない展開を見せ始めた。
 技研のリーダーだった大学生時代、同時にSCAという聖書研究のサークルのリーダー、教会の役員、営繕係り、聖歌隊のメンバー、学生会の役員などを兼任していて忙しかった。当時二ヶ月に1回だった岩つばめの発行では、編集としてガリ版切りをかって出た。その上、委員長をやれと言われ担当したものの、あまりの忙しさに途中でだれかに変わってもらったこともあった。当時は忙しさを楽しんでいたようなところがある。頼まれたものはすべて引き受けていた。
 筆者は、このキリスト教の話が出た時には正直言って急ブレーキを踏みそうになるほど驚いた。大学が明治学院だから不思議はないものの、失礼な話、原口さんとキリストの結びつきは想像すらできなかった。しかし本当に、原口さんは洗礼も受けた敬虔なクリスチャンなのだ。この話を聞いて、なるほど、と思い出す友人がいた。政府の炭鉱採掘機関のトップを長年勤めたロンという名の熟年のオーストラリア人だ。似ている・・・、そのキャラクター。仕事大好きで、迷わずどんどん前に進むその明るいエネルギー。あれは、アングロサクソン特有の逞しさかと思っていた。地下200mの炭鉱を案内してくれながら、自分の長年やってきた仕事を嬉しそうに説明してくれた時のロンと、さっき工場で色々説明してくれた原口さんのイメージが重なった。原口さんのエネルギーは、ロンと同様に一人の神を信じているところから生まれるのだろうか?
 それにしても、想像してみていただきたい。この忙しさ! 原口さんはこの時期働きながら大学に通っているのだ。その上での、山と数々のサークル活動だ。普通は、働いていたら学校へ通うだけで精一杯ではないだろうか?
 奥様との出会もこの時期で、SCAの活動がきっかけだった。原口さんが4年の時に新入生とし入ってきたのが奥様だった。偶然だが、太宰治の娘の太田治子が同じサークルの同期生だった。SCA主催の講演会の仕事を通して、いつしか二人は結ばれることとなった。奥様は山形の人なのだが、原口さんによると、山形の人間は概して引っ込み思案のところがある。お勤めの病院で婦長になる話しがあった時迷っておられ、「迷わずやれ!」と励ましたら見事婦長になられた。役は人を作ると言うのは本当で、引っ込み思案はどこかへ行ってしまい、人が変わったように貫禄がついた。そして、この奥様に、会社が苦しい時、経済的にずいぶん助けてもらうことになったのだそうだ。
我が家だよ  やがて車は原口さんがいつも通う、大山を眺めながら泳げる素敵な室内プール付スポーツジムに寄り、それを見学してから、ご自宅に到着した。
 原口さんのご自宅は、2年前に建て替えた洋風2階建ての綺麗な家だった。室内には、もうすぐ退職される奥様へのお祝いの花束がいたるところに飾られていた。厨房は、使い勝手の良さそうなオープンキッチン。ここで、いつも料理の腕を振るっているのかと納得。早速シェフの手料理で、ゴマ風味キンピラごぼう、春菊のゴマ和えとほうれん草のお浸しから始まり、リゾット、スパゲッティなど色々とご馳走になった。あとから帰ってこられた奥様も、ビールを飲みながら美味しそうに召し上がっていた。そしてお二人から伺った幸せなご家族の話の数々。原口さんの手料理を真ん中にした一家団欒の歴史がそこにあり、ここにも確かなエネルギー源を発見した。
いやーここは落ち着くな  夢中でお話を伺っている間に、いつしか夕暮れ時になっていた。そろそろおいとましなくてはいけない時間だった。一日インタビューにお付き合いいただいて、筆者はずうっと原口さんのエネルギー源を探していたのだった。最後になっても何がそれなのかよく分からないので、ダイレクトにそのままズバリお聞きしてみた。
「原口さんは、今まで仕事、山、家庭、料理など、色々なことをエネルギッシュにやってこられたわけですけれども、家庭は別格として何を一番大事にしておられるのでしょう」
「うぅ~ん、何だろうなぁ? いやぁ、分からん」
 そう、原口さんの場合、仕事にも山にもどこにも重きがあるわけではない。つまり、それぞれが原口さんの居場所なのだ。後ろに西洋の神様が一人いて応援しているようだが、それだけでもないらしい。興味があることは何でもとことんやってみる。目の前に来た困難から逃げない。頼まれれば何でも引き受ける。つまり、全方向エネルギー全開型の人なのだ。そして、そのことで色々なところから逆にエネルギーを貰っている。多分、そういうことなのだろうなぁ。帰りの車の中でその日の話を何回も反芻しながら、勝手に独りで納得しようとしていた。
 去年の春、タラの芽山行にご一緒させていただいた。原口さんの採り方はすごい。どんどん真っすぐ藪をこいで、どんどんどっさり採って行く。そこには微塵の迷いもない。今回、お話を伺っている間、ずうっとあの日の原口さんの姿が背景にあった。そういえば今年ももう直ぐタラの芽山行の季節がやって来る。

ツーショットで!

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