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小幡氏捜索救助出動顛末
委員長・服部 寛之

計画書の提出から出発まで
 正月合宿の偵察行は、11月2日(土)、3日(日・文化の日)、4日(月・振替休日)の三連休に高橋俊介がリーダーとなって行くことが決まっていた(9月11日委員会で決定)。それに小幡信義が同行することも確定ではないが了解されていた。
 10月28日(月)、高橋から偵察行の計画書が電子メール(以下、メール)で服部のもとに提出された。その主な内容は次の通りである。

メンバー (L)小幡信義、(SL)高橋俊介
コース・日程
11月1日 新宿→信濃大町(急行アルプス)
11月2日 信濃大町→扇沢(バス) →柏原新道→爺ヶ岳→冷池山荘(C1)
11月3日 C1→鹿島槍→キレット小屋→五竜岳→五竜山荘(C2)
11月4日 C2→遠見尾根→神城駅

 直前のルーム(10月16日)での打合せでどういう話になっていたのかは知らぬが、計画書ではリーダーが入れ替わっていた。しかし、どちらがリーダーであろうと、二人の実力と体力を考えれば、この時期この計画で大丈夫と判断し、計画を了承した。
 その後高橋から「大町の知り合いから北アではかなり雪が降っているとの情報を得た」とのメールが服部に寄せられた。そこで服部が高橋と電話で話したところ、「行ってみてキレット越えは無理そうだったら予定を変更して赤岩尾根を下りる」ということで了解した。
 その後、再び高橋から「急遽4日から出張を命じられ偵察行に行かれなくなってしまった」とのメールが入った。そこで服部が小幡に電話してどうするのか確認したところ、小幡は「俊介から何も連絡が来ないのでどうするのかと思っていた」とのことで、出張で行けなくなったこともまだ知らなかった。
 そこで、小幡は高橋に電話して相談、その結果「ひとりで行ってきます」との返答を服部に電話で伝えてきた。現地の雪の状況がどんな具合なのか分からなかったが、11月の初旬ならばさほど大雪になる筈はなく、また小幡ならば以前登ったことのある山でもあり単独でも問題なかろうと判断し、了承した。そしてその電話で、爺ヶ岳の南尾根の取り付き点並びに同尾根の稜線からの下降点を確認すること、冷池の小屋に小屋番がいたら正月のキレット越えがどんな具合なのか聞いてみること、キレットの状況を見てくること、赤岩尾根を下ることなど行動内容を確認した。計画書は、本来ならば出し直してもらうべきところだったが、小幡にはメールもファックスもなくまた時間も迫っていたので、その口頭での了解のもと高橋が提出したものでOKとした。
(高橋の出張命令が服部に伝えられて小幡が単独で入山することに話が進展したのは10月31日のことだったと思う。)

捜索救助隊員招集の経緯と出動
 11月4日の夕方17時頃、金子会長から服部のもとに連休中の全パーティーの下山を確認したとのメール連絡が入った。その三連休には6パーティーの計画書が会長のもとに提出されており、メールはそれらの下山確認と小幡の下山を問い合わせるものだった。だが、服部のもとにはまだ小幡からの下山報告は入っていなかった。何らかの事情で報告が遅れているものと思い、報告があり次第服部がWeb上の登山届を消すことを返信した。しかしその夜23時になっても小幡からの下山報告はなく、少々心配になって、そのことを会長にメールで連絡した。メールには、小幡が一日休暇を取ったと言っていたのでもしかしたら5日に下山してくるのかも知れない旨を書き添えた。折り返しすぐ会長から「もう少し待ってみよう」との返信があった。
 実は、このとき服部は、小幡が取ったと言った休暇がカレンダー通りの5日のことだと思っていたのだが、その後会長から小幡の会社はカレンダーの旗日とは関係なく動いているで休暇は4日のことかも知れないと指摘されることとなり、青くなった。計画書の再提出を省いたことによる思わぬ落とし穴であった。
 翌5日、一日待ったが、18時になっても未だ小幡からの下山報告はなく、自宅に電話しても留守電のままであった。この時点で本格的に心配になってきて、直ちに会長にその旨メールしたが、会長からも折り返しすぐに、今夜中に下山連絡がなければ捜索隊員を招集する心積もりでいるようにとの返信があった。
 同夜21時、依然下山連絡がないことを服部から会長に電話連絡。服部は続けて田原、小堀、紺野、野口(芳)の4委員に電話し、明朝までに連絡がなければ緊急招集をかける旨を伝え、各自に出動準備を依頼。田原には杉並区高井戸東にある店(総合看板ナイル)を東京本部とさせてもらうことを要請、快諾を得た。大町警察への連絡は明朝まで待ってから行なうことを会長と打ち合わせた。
 まんじりともしない一夜が明けた翌6日、7時25分に服部から会長に電話し会員に緊急招集をかけることを決定。次いで田原に電話し、店を東京本部とし出動できる人間をそこに集めることを申し合わせた。
 7時30分、服部から大町警察署に電話し小幡の捜索を依頼。同時に会として東京本部を設置し、速やかに捜索救助隊を現地に送る予定であることを伝える。
 7時45分、服部から小幡の実家に電話して状況を説明、捜索救助については会で対処中であるので追って連絡あるまで待機をお願いする。続けて小堀、紺野、野口(芳)、越前屋、四方田、佐藤(明)、菅原、藤井、荻原、天内、大久保、鈴木(章)、飯塚、松尾、他数名に電話し、出られる者はできるだけ早く入山の用意をしてナイルに集まってくれるよう依頼。何人かにはクルマの提供もお願いした。さらに小幡の会社に電話して小幡の欠勤を確認、彼の上司に状況を説明する。また、この日はたまたまルームの日でもあったので、司会進行を広瀬(優)に、その補佐を藤本に依頼した。これらの連絡の間、心配された小幡のお兄さんから服部宅へ電話があった。連絡要請を一通り終えた服部は、11時過ぎ茅ヶ崎の自宅を出てクルマでナイルへ向かった。
 実は服部が会員に出動要請をしている間、情報収集を進めてくれていた大町警察から連絡が入っていた。それは、柏原新道のトラバース地点で2日発生した雪崩に小幡が巻き込まれた可能性が高いという悲観的なものだった。その概要はこうである。2日、大阪の5人パーティーが扇沢から柏原新道を種池に上がったが、同パーティーの証言によると、単独行の男性が後続していたが、トラバースを過ぎた辺りで姿が見えなくなり、その日種池には上がってこなかったという。一方、同日柏原新道を下山した別パーティーからは、トラバース地点を過ぎた下で5人パーティーとすれ違い、その後ろに単独行の男性が続いていたとの証言が取れた。日時と年恰好から判断してこの単独行者が小幡であったことはほぼ間違いない。翌3日、大阪のパーティーは大雪のため撤退を決め、柏原新道を下山したが、トラバース地点に新しい雪崩の跡があって、未だ不安定な状態のため通過できず、種池に引き返してもう一泊し、翌4日種池山荘の主人柏原さんと共に爺ヶ岳南尾根を下山した。以上の証言と未だ下山していないという状況を考えると、小幡はトラバース地点で雪崩にやられた可能性が高いという報告だった。しかもこの場所の雪崩は通常かなり下まで達するが、この地点の下には滝があり、運良く滝の上で止まったとしても結構な距離を流されていることが考えられるとの話だった。警察からのこの報告で、努めて状況を楽観視しようとしていた我々は気持ちを逆撫でされ、一気に沈鬱なムードに突き落とされた。
 13時頃服部がナイルに到着すると、既に金子会長はじめ要請を受けて駆けつけた数人が顔を揃えていた。皆一様に厳しい表情。田原も朝から大町警察との連絡をはじめ関係箇所に電話して手配を進めてくれていたが、それらの中には大町近郊の美麻村に居る三峰会員で画家の江村(真)さん、大町の旅館『七倉荘』のご主人松澤さん(旅館に現地本部を置かせてくれるよう依頼)、都岳連(万一の場合のサポートを依頼)も含まれる。
 13時42分、第一陣として金子、服部、越前屋、紺野、藤井、四方田、天内の7名がクルマ2台(服部車、越前屋車)に分乗してナイルを出発した。大荷物となった装備の大半は越前屋のバンに積んだ。出発間際、野口(芳)もクルマで到着したが、野口には第二陣としてナイルで待機してもらうことにした。第一陣は、取り敢えず大町警察署に出向いて様子を聞き、七倉荘に現地本部を設置して、状況が許せば金子以下6名で柏原新道に捜索に入るつもりであった。首都高・永福から高速に乗り、長野道の豊科ICめざし中央道を疾ばしていた最中、15時30分頃金子の携帯に田原から小幡無事救出の連絡が入った。沈痛な心持ちから一転安堵した第一陣はそのまま大町警察署に小幡を迎えに行くことにし、トンボ返りするつもりで七倉荘の予約を田原にキャンセルしてもらった。だが、その後小幡と皆の疲れを心配した田原が考え直して七倉荘に再度予約を入れ、やはりその日は小幡と共に宿に一泊する手筈となった。

救出と帰京
 小幡無事救出に到った経緯はこうである。実はナイルを出発する少し前、大町警察から「鹿島槍付近の天候が回復する兆しなので県警ヘリを飛ばせられるが、正式に捜索要請をするか」との連絡が東京本部に入った。電話にでた会長が「要請します」と即答したのだったが、このときの要請を受けた形で14時20分に飛び立った県警ヘリが14時30分雪の中でもがいている小幡を発見、ヘリに吊り上げて救出し、15時頃大町警察署に収容したのであった。小幡は怪我も凍傷もなく元気で、15時15分小幡無事救出の知らせが大町警察から東京本部にもたらされたのであった。この吉報は田原、野口に加え第一陣出発以降東京本部に駆けつけていた鈴木(章)、松尾、佐藤(明)らの逸早く知るところとなった。
 実は、このとき会長が受けた大町警察からの電話で、捜索要請に関し警察と我々との間に重大な齟齬があることが判った。我々としては服部が7時30分に最初にかけた電話で警察が捜索救助の要請を受け付けたものと思っていた。だが、このとき電話の係官は会長に対し「正式な捜索要請がなければ我々は動けない、捜索要請しますか?」と訊ね、会長の返事を受けて「13時15分正式に捜索要請を受けました」と確認したのである。この唐突とも思える警察の要請確認に我々は驚いたが、今後警察に捜索救助を依頼する場合は最初の電話ではっきりと「捜索救助を正式に要請します」と述べ、さらにその受理を確認した方が良いと思われる。
 入山してから救出されるまでの経緯については小幡自身の報告に譲るが、この文化の日の連休中、北アルプスは真冬並みの異例の大雪に見舞われ、槍・穂高連峰周辺では身動きがとれなくなった百名余りの登山者・山小屋関係者らが救助を待っている状態だった(例年のこの時期雪は降ってもせいぜい20~30センチ積もる程度である)。山はずっと雪雲に覆われ、警察の救助活動も5日まで滞っていた。6日の14時頃になってやっと爺ヶ岳‐鹿島槍付近のガスが上がってきてヘリが飛ぶチャンスが訪れたことは美麻村の江村さんからも即座に東京本部に知らされたが(江村さんのアトリエから鹿島槍‐爺ヶ岳が望める)、小幡が居るであろうおよその位置が目撃情報から特定できていたことと、まさにその地点のガスが真っ先に上がったことは、小幡にとって実に幸運であったと言うほかない。江村さんがおっしゃっていたように、同時刻他の周辺地域でもガスが晴れていたり、或いは爺ヶ岳付近のガスが上がるのが遅かったりしたら、他に救助を待っていたであろう人たちを差し置いて小幡一人のために県警ヘリが飛んでくれたかどうか分からない。尚、前述の百名余りの大半はこの日午前中から始まった県警および民間のヘリでの救出活動で搬送されたという。我々の他にも同じ喜びを味わった関係者が大勢いたことであろう。
 第一陣が大町警察署に到着したのは18時丁度であった。金子会長と委員長の服部が代表として控え室に案内されて行くと、恐縮し切った小幡の前に江村さんが座って話をしていた。江村さんは救出の報を聞くや直ちに大町警察署に駆けつけ、ずっと小幡に付き添っていてくださったのである。小幡にとってはさぞかし心強かったに違いない。また小幡遭難の報に接すると知り合いの種池山荘主人柏原さんに連絡を取り、情報を集めてくださってもいた。控え室で係官の方から救出までの経緯の説明を受けたあと、礼を述べて小幡とともに18時30分警察署を後にした。江村さんは自宅へ帰られた。尚、大町警察には感謝の印として菓子と日本酒を置いてきた。
 小幡を加えて8名となった一同は18時40分、七倉荘に入った。聞くところによると七倉荘は江村さん・田原両名の昔からの定宿で、主人の松澤さんとは懇意の仲とのことで、温かく迎え入れられた。一旦部屋で休憩したあと、食堂で夕食をいただいたが、松澤さんは小幡の無事救出を我が事のように喜んでくださり、祝い酒を無料で振舞ってくださった。食事は当然のことながら祝宴となったが、途中で江村さんが差し入れを持って訪ねてくださり、江村さんを交えて話は遅くまではずんだ。江村さん並びに松澤さんご夫妻の温かなお気持ちには一同心から感激した。
 翌朝、所用がある藤井はひとり早朝の電車で帰京したが、残りは朝食後江村さんのアトリエにお礼かたがたお邪魔してから帰途に就いた。豊科から高速に乗って振り返ると、遠ざかる晩秋の安曇野の空に白銀の北アルプスが輝いていた。

 今回の事件に関しては次のような反省点が指摘されるだろう。
 まず、小幡単独での冬山入山を許可した点。委員長としては、高橋が出張で行かれなくなった時点で今回の偵察行は中止とし、後日できるだけ早い時期に日程を調整し再度複数人での偵察行を考えるべきであった。だが、偵察行には最低でも3日は必要で、勤め人には休暇が取りにくいという事情もあり、しかも本格的に雪が来る前の偵察となると11月初旬の文化の日の連休が社会人山岳会にとっては絶好の機会であった。従って私としてもこの際、実力と体力を兼ね備えた小幡ならば一人であってもルートの状況を確認してきてもらいたいという委員長としての願いがあった。電話での遣り取りで私もそれを匂わせたし、小幡もそれを感じ取り、また小幡自身にも正月合宿を成功させたいという思いがあり、それらが単独での入山を決意させたのだと思う。せめて二人で入山していればラッセルも進み、もっと早くに脱出できていたかも知れない。単独で入山させたのは私の判断ミスであった。
 第二には、事前に情報を集める努力を怠った点。偵察行に関しては高橋に任せきりで、高橋から現地での降雪情報を聞いていたにも拘らず予報を軽視し、現地の状況について高をくくっていた。実際、冷池山荘・種池山荘・新越山荘を経営する柏原さんのホームページでは、10月29日の記述で、種池山荘での積雪が120センチを越えいまだ降り続いている異常事態となっているため文化の日の連休の爺ヶ岳登山は中止した方がよいと勧告していた。出発前にこれを見ていたらと思うと悔やまれる。
 第三には、計画書の再提出を求めなかった点。それ故、前述のように、休暇日についての誤解に気づかぬままになってしまった。実際、小幡が申請した休暇日は4日であったが、5日であると思っていたため逼迫した事態の認識が丸一日遅れてしまった。これは冬山では致命的な結果を招きかねないミスであった。たとえ出発後に受け取ることになっても計画書の再提出を求めていれば、休暇日についての誤解が生じることはなく、さらには小幡がそのコピーを現地の登山届け箱に投函することもできたであろう。小幡が警察の連絡による他パーティーの目撃情報によって助かったことからも、現地での登山届け・下山届け提出の重要性を再認識した次第である。大阪のパーティー、2日にすれ違った下山パーティーの入山・下山届けが警察に提出されていなかったらと思うと、ゾッとする。
 第四には、小幡に無線機を携行させなかった点。連絡手段を欠いたことが無用な騒ぎを引き起こした一因となったことは否めない。この点小幡は身にしみて、後日山行用に携帯電話を購入した。
 尚、県警ヘリによる小幡救出の一件は、11月7日付の信濃毎日新聞社会面で匿名で報じられたことを付記しておく。
 今回の緊急招集に応じて馳せ参じてくれた会員諸氏には委員長として心より感謝申し上げる。特に仕事場を東京本部として快く提供し采配をふるってくれた田原とかつ子夫人、現地ですばやく動いてくださった江村さんには特に厚く御礼申し上げます。その他にも大町警察、長野県警ヘリ、種池山荘の柏原氏、七倉荘の松澤氏にも言い尽くせぬほどお世話になった。委員長としてのお粗末なミスを猛省しお詫び申し上げるとともに、この度の経験が今後の会活動に生かされてゆくことを切に願います。

追記
 本捜索救助出動後、かかった経費+日当分の保険金支払いを都岳連を通じて2002年12月末に保険会社に請求したが、2003年3月24日に支払われた。請求額49万1139円に対し、48万3639円の支払いでした。


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