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武甲山
服部 寛之

山行日 2003年7月20日
メンバー (L)服部、西尾、藤本、伊藤(め)

 養魚場から登ってゆくその道は、穏やかな空気に満ちていた。鱒の生簀の先で一旦合流する林道は、最近の山里の例に漏れずアスファルトで固められているが、左手に流れる沢の音が足裏の不快を和らげてくれる。じきに家屋の列が途切れると、森の気配が急速に膨らんでくる。
 やがて林道が左に大きく曲がるところで登山道に入った。登り口に古そうな十五丁目の石標が立っている。実はこの道は山頂の御岳神社へ登る表参道である。表参道といっても、四国の金毘羅社のような威圧的な石畳や石段がつづく道ではなく、普通の登山道と変わらないところが神社の素朴さを物語ってかえって好ましく感じられる。ゆるやかな足の運びの歩きやすい道だ。山頂の神社がいつ頃創建されたのかは知らぬが、道の記憶というものがあるとすれば、古い石標を辿るこの道には山里の人々の篤い信仰と積年の歴史が確かに染み込んでいる。空気が穏やかに感じられるのも、時に浄化されたその記憶が為す作用なのかも知れない。
 山道に入ってしばらく遠退いていた沢音がふたたび足元に戻ってくると、ミソサザイの大きなうたごえが木立に響いた。気がつけば、深閑とした大杉の森に踏み込んでいた。見渡せば、清澄な空気を貫いて屹立する巨人たち。その姿は堂々として、歳月を経た風格を感じさせる。目を転ずれば、高い緑の梢を透かして空の青が克明だ。「晴れぬなら晴らせてみせよう武甲山!」週末の天気予報は芳しくなかったが、強気で押したゴーサイン・メールの予言!?は的中した。新しい仕事に追われ久方ぶりの山行だが、なぜか今回は「晴れる!」という確信にも似た予感が最初からあった。タマにこういう経験をする。
 1時間ほど歩き、尾根筋に出たところで一本立てる。ザックを降ろし、緑に染まったさわやかな初夏の匂いを胸いっぱいに吸い込む。やや冷えた汗にそよ風が心地よい。山にあることの喜びを感ずるひとときである。

*    *    *

 初めて採掘される武甲山の姿を見たのはいつだったろうか。無残に削られゆく山の姿というものは、見る人に何らかの感慨を抱かせずにはおかない。海でも山でも自然の中にあることに感謝する人なら、程度の差こそあれ、胸の痛みを覚えるのではなかろうか。
 山が削られるのが悲劇ならば、武甲山の悲劇はその山体がコンクリートの原料でできていたことにある。採掘しやすい都市の近郊に座していたことも、昭和15年(1940)という早くからの「開発」を促したのではないか。ここで現代文明に果たしたコンクリートの役割とか、そのコンクリートで海岸も河川も塗り固め植物も魚も虫も鳥も獣も追い払って「住み良い住環境」をつくってきた現代日本人の「見識」について云々してみても仕様がない。というより、ぼく自身そんなことを論じられる器ではない。ぼくが興味をそそられるのはそういうことではなく、この山を崩すことを地元の人々がどう受け止めてきたか、という点にある。過去において昭和ほど日本人の生活の質が劇的に変化した時代はないだろう。そうした時代背景の中で、山里の人々の暮らしが変化するにともない彼らの里山観がどう変化してきたかということに興味があるのだ。
 武甲山の名の由来について、地元自治体のホームページにはこう紹介されている。
『むかしむかし、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征されたおり、雁坂峠の頂上から秩父の山並みを眺め、武人のように堂々とそびえ立つ山の名をたずねました。里人はその名を「秩父が嶽(たけ)」と答えました。すると日本武尊はさっそくその山に登り、天の神・地の神をまつられたのです。そしてその時、着用していたご自分の甲(かぶと)を岩室(いわむろ)に納めたので、その後この山を「武甲山(ぶこうさん)」と呼ぶようになりました。横瀬町のシンボル武甲山の名はこうして付けられたのです。』
 この伝説がいつ頃成立したにせよ、ここには武甲山を故郷の盟主として誇りに思う気持ちが語られている。その思いがあったればこそ、武甲山は今日もなお秩父を代表するハイキングコースであるのだろう。唱歌「ふるさと」に歌われているように、故郷の「かの山」を思う気持ちを日本人はつよく持っているのだ。しかしその一方で、武甲山の大規模な採掘は進み、標高さえも低くなってしまったという現実がある(かつて1336mあった山頂は削り取られ、現在は1304m)。そこに我々は齟齬を覚える。
 石灰石の採掘が始まった昭和15年といえば、明治以来の富国強兵策が国民の殉国精神を高揚させていた時代であったろう。そんな中で始まったふるさとの「山崩し」を、にがにがしい思いで見ていた人も少なくなかったのではなかろうか。しかし、セメント産業の隆盛とともに地元が潤うに従い、人々の思いも変わってきたのではないか。年月とともに世の中が変わり、人の考え方が変わり、国土も変わった。そして環境の世紀といわれる21世紀を迎えた今日、時代を映すその思想は地元の町にも否応なしに流れ込んできている・・・。武甲山の変容を見つづけてきた世代の「ふるさとの山」に対する思いの変遷をたどったレポートがあるなら、是非読んでみたいものだ。
 それにしても、荒れた北面の岩壁と、大杉が多く残る緑豊かな南面との様相の違いには大いに驚かされる。南面はこの辺りの山の豊かさをいまだ留めているのだろうか。山好きとしては、もはや戻らぬと知りつつも武甲の山容に堂々とした武人の姿を重ねてタメ息をつくのみである。
 自然と文明とがどこかで収支を合わせねばならないものなら、武甲山は間違いなくその負の痕跡である。その負の痕跡を未来の世代にどう受け渡してゆくのか。今に生きる我々の知恵と見識が大いに試されているのは間違いないだろう。

*    *    *

 石標を五十二丁目まで辿ると、山頂の御岳神社に到着である。立派な社殿の手前、階段の両脇に控える狛犬は狼のようだ。三峰神社の狛犬がそうであるように、これもまた秩父の刻印かも知れない。神社の裏手にまわると狭い展望台になっており、景色が開けた北側の崖には無粋な金網フェンスが張られていた。着いた当初はガスの中でまったく視界はなかったが、にぎやかな50~60代の中高年パーティーの宴を横目にしばらく休んでいると、ガスが切れはじめて下の採掘場や秩父の街並みがちらちら眺められた。流れるガス越しに眺めた採掘場は整然としていたが、凄まじい破壊の風景は自然の大きさとそこにうごめく人間の小ささ、そして営々たる営みの力の大きさを感じさせた。
緑豊かな武甲山南面  帰路は山頂から南へ伸びる尾根を辿り、シラジクボから山腹をへつって往路の林道の先へ下りるコースを取った。シラジクボから林道までの道は細くやや荒れていたが、途中武甲山の姿を眺められる場所があった。きれいに晴れ上がった青空に豊かな緑の山腹が映えて印象的だった。幻の山頂をそこに重ねてみたが、うまくいかなかった。林道に出ると陽射しが強く少しクラクラしたので、銀マットを出してゆっくりと休憩を取った。
 静かな風景のなかを再びぶらぶら下ってゆくと、左から沢が合わさり、岩を食む水の音に乗せてまたもやミソサザイの歌が聞こえてきた。
 透明な山の空気。
 キラキラと跳ねる光。
 風に踊る影―。
 心に浸みた。
 今ぼくが求めているものがそこにあった。偶然の風景が必然に変わり、今日ここに来た意味を知った。そして許されるならば、いつまでもその風景のなかに身を浸していたかった。


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