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百周年に向けて
安田 章

 ぼくが三峰の会員となって2年ほどして会は創立50周年を祝った。20代半ばであったぼくは、半世紀の長さを思った。自分が生きてきた人生の倍の時間である。これはぼくの父の年齢でもあった。
 あれから20年が経った。ぼくの生きた時間も半世紀に近づき、父もこの世にはいない。そして三峰は創立70周年をむかえる。
 現在、ぼくの山は冬の熊よろしく冬眠状態である。理由はともかくそういうことなのだ。在籍期間は長くとも会に貢献できているとは言い難く、70周年だといって何かを言うことにもためらいを感じるが、そう感じながらもとにかくめでたい時なので少し干からびた頭を絞ってみようと思う。
 山の経験はほとんどなかったが、小学校の遠足で山に行ったことがあって、その時、山の中を歩くただそれだけのことに何か不思議な気持ちがした。山がささやきかけてくるような、心の深いところをさっとなでられたような感じがしたことを覚えている。その印象が自分の中に残っていて、また甦らせたくもあり、三峰の門をたたいた。
 三峰の人たちは皆暖かく個性的でとても魅力を感じた。重ねていく山行は常に驚きに満ちて新鮮であった。つらいことや苦しいことはあたりまえなのだが、つい弱音をはいてまわりに迷惑をかけたことも多い。
 季節を変え、山行方法を変えいろいろな山に登った。皆がそれぞれの想いを持って山に行った。そんな中、山岳会としての三峰にも悩みがあって、たとえば会員の募集や新しい会員の教育、現役のレベルアップといった実際的なことがらから、三峰の将来像にいたるまでよく話し合ったりした。いつの時代にも繰り返されてきたことなのだろうが、今思うと懐かしさがこみあげてくる。
 ぼく自身もどんな山登りがしたいのか、悩むというほどではないにせよ、山から遠ざかっている現在でも考えることがある。遠ざかっているからこそなおさら考えるのかもしれない。
 垂直の壁を攀じるもよし、ずぶぬれになって沢を行くもよし、冬の雪に遊ぶのもいい。夏の北アルプスの尾根歩きも好きだし、温泉付のんびり山歩きも格別だ。どの山行形態もそれぞれ楽しさがありよさもあるのだが、山の本当のよさはその形態にあるのではなくて、ただ山の中に身をおくことにあるのではないか。
 文明を離れ、日常を抜け出し、自分たちの力で担げるだけの道具で自然の只中に出る。身をさらす。ここに山に行くことの意味がある。最近はそんなふうに考える。
 今、過去の山行を思い返してみてどんな山がよかったか。それは、その山行中、もう二度と来たくないと思うくらいきつかった山だ。もちろん、今は体力的にみて同じような山行は実行できないだろう。それでも山の自然と思い切りぶつかり合うような山行をひとつでも多くできたらと思う。そうして小学生の時に感じたものをまた山からもらいたいのだ。
 山にくる人は中高年が多い。それは三峰を見てもわかることだし、ぼくもその一人である。この年齢になって山という楽しみを持っていることはすばらしいことだ。気の合った仲間と山で過ごす時間は何物にも変え難い。三峰の人は皆そのように感じているのではないか。そうであるならば、その楽しみを自分たちだけのものとせず、もっと多くの、特に若い人たちに知ってもらう努力をするべきだ。
 山に正面から向かい合い、山のことを考え、山を愛し、山を大切にする。自然保護運動をしようというのではない。日本の山を大事にする気持ちを育てたいと思うのだ。山に行く人は多いが、山の存在など意識したこともない人のほうが圧倒的に多いのも事実だ。明治の近代登山初期を記述した文章を読むと、山は現在よりも魅力にあふれていたように感ずる。登山人口は少なかったが、山に向ける多くの目があった。
 気の早い話だが、30年後、三峰は百周年迎えるはずである。ぼくもその時生きていて、三峰の仲間と百年を祝えたらどんなにすばらしいだろう。でも、それも山あってのこと、人あってのことだ。今までに三峰に何人の会員がいたのか、どなたかに調べてもらいたいと思うけれど、多くの人が山に通いつづけ、山と交わってきた。70周年を迎えて、あらためて日本の山に感謝したいと思う。


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