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「一部の篤志家」ということ
越前屋 晃一

 「篤志」。手元の国語辞典に「志のあついこと。公共事業・社会事業などを熱心に援助すること」とある。公共事業も社会事業もあまり縁がないので「志のあつい」ということについて考えてみたい。
 だいたい山に登る人は「志があつい」。重い荷を背負い、困難と闘い、ひたすら高みを求めるのだから志がないわけがない。このことに異議を唱える人はいないだろう。
 ところが、これに「一部の」がつくと意味合いが随分と変わってくる。例えばこうだ。「一部の篤志家によってしか歩かれていない藪山・・・」といった調子になる。どう割り引いても変わり者・偏屈者といったニュアンスに満ちている。藪山、マイナー登山の定冠詞と言って良いほどなのである。
 それにもかかわらず、不思議なことに私にはこの言葉がいつの頃からか心地よく響くようになってきた。地図とコンパスをたよりにわずかばかりの直感をあてにして、道なき道をたどることの魅力にはまり込んでしまった。一歩間違えば丸一日ワンデリングしてもとの場所に戻る危うい世界ではあるが、屈強な自然の力の中に身をゆだねることによろこびをおぼえるようになってきた。
 展望もなく、はねかえされるような密藪をかきわけることに何の楽しみがあるのかと問われると返事に窮するが、手付かずの自然に出会い、時代の流れに見捨てられた杣道が自然にもどる姿に遇うとき、言いようのない感動にひたることができる自分を発見する。
 望むべくもないが、できればマタギのように、山窩のように、自由に山を駆け巡りたいのだ。奇妙な言い方かもしれないが私は今「一部の篤志家」になりたいと願っている。


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