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三峰史・ルーム会場の変遷
播磨 忠

 私が三峰山岳会へ入会したのは社会人になりたての昭和37年4月でした。
 当時、ルームは秋葉原の「えびはら」という喫茶店で開かれていました。「えびはら」は昭和山岳会の集会場でもあり、そこに三峰山岳会が後から使わせてもらっていた様です。しかし三峰山岳会に入会する人が増加して、あまりにも人数が多くなり過ぎて、店の方から他の客の迷惑になるとのことで断わられ、近くの喫茶店「ショロン」へ移ることになりました。(S37.8)
 その頃ルームは毎月第一、第三木曜日に開かれており、登山ブームということで先にも書いた様に会員数が多く、全部で100人を超えていたと思われます。ですからルームも盛会で、その頃には技術研究部(技研部)という部を作り、別に部費を集めて冬山や岩、沢等登山技術の向上を目差していました。
 三峰も創立30周年を迎えようとしている頃で、目標はヒマラヤ遠征などと会員の意気も軒昂でしたが、昭和38年の春山合宿(穂高岳沢)での山越氏の遭難死により技研部も自然解消となりました。
 ルームの話に戻りますが、「ショロン」も都合により(多分閉店)、新宿の「菊正」で2ヶ月ぐらい行い、続いてお茶の水駅近くの喫茶店「ウィーン」での開催となりました。(S40.7)
 しかし「ウィーン」も長く続かず、その後飯田橋の喫茶店「田園」へ移りました。この「田園」はポルノ専門のギンレイホールという映画館の2階にあり、お世辞にも綺麗とは言えない喫茶店でした。(S41.4)
 この頃から記憶が定かでなく、記録を調べても私の手元に当時の会報が無く、はっきりした事が判らないのですが、「田園」が閉店になるかどうかで、その並びにあった喫茶店「人形の家」に移る事になりました。(S46頃)
 その「田園」のころに当会も創立35周年を迎えようとしていましたが、会の活動は停滞ぎみでルームに集まる会員も3名などという時もあり、創立会員の宮坂氏をして「もうこの会も終りかな」と言わしめた事もありました。
 「人形の家」は昭和51年頃まで続きましたが、何しろ喫茶店でのルームでは色々な面で都合が悪く、当時原宿の岸記念体育館の会議室を貸し出しているとのことで、一時期、その時委員長だった稲田氏が毎回手続きを取って岸記念体育館の会議室で行うようになりました。
 またこの頃(S51)に週休2日制を導入する会社が増え、それまで木曜日だったルームの開催日が水曜日に変更になりました。
 その後その会議室も一般に貸し出さなくなり、江村(兄)氏の紹介でお茶の水の喫茶店「ローズウッド」を貸し切りで借りる事が出来ました。(S54.4)
 その後「ローズウッド」の都合でもう一度「人形の家」へ戻りましたが(S56.3)、「人形の家」も再開発(道路拡張のため)で閉店となり、もう一度「ローズウッド」を借りる事になりました。(S60年頃だと思う)
 しかし「ローズウッド」も閉店する事になり、平成4年1月から半年ぐらい原口氏の紹介で渋谷近くの全国神社会館を借りていましたが、少々交通の便が悪いとのことで、平成4年6月から植村氏が探してきた飯田橋の雪印健保会館で行う様になりました。
 この会館の会議室はなかなか快適で交通の便も良く、会員にも評判が良く可成り長く使わせてもらいましたが、雪印事件の影響でしょうか、平成13年の2月で会議室を貸さなくなり、金子会長が見つけて来た現在の水道橋の東京学院の教室を借りる事が出来、今日に到っております。(H13.3より)
 時代と共にルームの場所も色々変わって来ました。猫の目の様に頻繁に移った時もあり、又長く同じ場所を使わせていただいた時代もありました。それぞれ会員諸氏は自分が入会した時のルームや、活動していた時のルームに思い入れもあるでしょう。私も今考えると色々な思い出が走馬灯の様に頭の中を駆けめぐります。これからもルームの会場には頭を痛める事もあると思いますが、会長、委員長を中心に問題を解決していってもらいたいものです。 「モートー!」


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