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地図と私
土肥 雅美

 小さい頃我が家の本棚に、古い旧制女学校の教材だったらしい伯母の地図帳があった。戦前のものだから大日本帝国が領土をいちばん拡大したときのもので、北は樺太の半分、朝鮮半島、台湾、それに南の方の島々まで日本の領土として真っ赤に塗られていた。侵略戦争云々をここで言うつもりはなく、子供の頃、そのかつての領土?の広がりとその地図の美しさに引き込まれた記憶がある。細い綺麗な線で地図が描かれており、地図に表現の美しさという基準があるならばそれはとても完成度が高いものだったのではないかと思う。
 また、たぶん父の仕事の関係で、関東周辺の5万分の1地形図も揃っていた。もちろん現在のように色刷りではなく、黒一色の印刷だったが、逆にそのために等高線が粗密に並んで精緻に織り成す地形の世界に何故か心魅かれたものだ。
 今のように、コンピュータゲームがあるわけでなし、我が家の生活もぎりぎりだったはずで、本を1冊買ってもらうと嬉しくて大事に大事に読んだものだった。そんな時代だった。意味も目的もなかったが、そういう地図を眺めることが小学生の頃の楽しみのひとつだった。
 地図が好きというだけの理由で地理だか地学を勉強しようかなと思ったこともある。結果としてできなかったけど・・・。かつて、大陸移動説ということばは、私にとってロマンそのものであった。大陸が1年にわずか数センチ単位で動いてほかの大陸にぶつかり、その衝撃でヒマラヤも、ヨーロッパアルプスもできたのだという。わたしたち人間にとっては、ほぼ「永遠」とも言えるこの悠久の時の流れを思えば、この現世の、諸々の、日々の煩わしいことなんかどこかへ飛んでいってしまいそうだ。
 今は、山で地図が読めるようになりたいと思い、たとえ数時間のハイキングでもエアリアマップだけでなく、2万5千分の1地形図かそのコピーを持っていく。せっかく地図を生かせる場所があるのに持っていかないなんてもったいない!という気持ちだ。ルートファインディングなど必要ない小さな山の尾根上の登山道を歩いているだけでも、晴れているときなら分岐する枝尾根や沢を地図と照合して予想がピッタリ当たったりすると嬉しい。地図は一人で歩くときは気持ちの上でのお守りでもある。読めるわけではないのだがないと不安だ。
 沢では、ヤブ山や雪山と同様に地図読みがとても大切な要素でかつ醍醐味だと思う。分岐を確認しながら遡行するのはドキドキする体験。まちがうと余分な藪漕ぎを強いられる。私は、いっしょに行った方ならご存知の通り、ホントに体力がないので詰めの藪漕ぎはほんの数メートルでも少ない方がありがたい。また、源頭近くなり枝沢の分岐の選択が厳しくなる頃には、ほとんどいつもみんなに最後尾から着いていくのが精一杯というヘロヘロ状態になっているので、自ら地図を出して確認している余裕はもはやない。山は基本的な体力があって初めてナンボかな、と毎回つくづく思う。
 本来ならわたしには沢に行く体力や判断力はない。なのに、行きたい!という気持ちがいつも先行してしまう。沢へいっしょに行ってくれる三峰の人たちには心から感謝している。


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