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はじめての沢の焚き火
橋岡 崇史

 三峰に入って、はじめて沢で夜を過ごした。沢は初めてではなかったけれど、それまではいつも日帰りだった。だから沢で焚き火を囲む経験はなかった。沢は単に登るところであって、そこで滞在することについて考えたことはなかった。でも沢に滞在することは、単に時間が足りなかったからだけではなく、滞在それ自体に大きな楽しみがあるのだということを知った。
 三峰で沢に行くと、条件の許す限り夜は必ず焚き火になる。テン場に着くと、みんな嬉々として燃えそうな木を探しに行く。火付け名人がノウハウを傾けながら火をつける。それでもなかなか燃えないこともある。自然は思うがままにはならないものだと知る。
 火が燃えはじめると、まだ明るくても酒で乾杯し、暗くなると食事になり、そしてまた酒を飲む。料理に凝ることもあるし、イワナやキノコなど自然の幸を頂くこともある。山のことやいろんな難しい or 下らないことを話しながら、もしくは一人考え事をしながら、長い夜が過ぎてゆく。歌がでることはあまりないが、たまには吠えてみたいなと思う。歌集の作成を希望しておきますね~。
 でも何もしなくてもいい。ただ燃えさかる炎を眺めているだけでもいい。ふと横を見て、火を見つめながら、にたっと笑っている顔(固有名詞は省略)を発見した時は少し不気味だった。でも程度の差はあれ誰でも、心の奥には破壊へのカタルシスがあるはずだ、と納得した。(よく考えるとたぶん単なる思い出し笑いだと思うが)昔、子供の頃には火事があると、はるばる遠くまで見に行ったものだ。火事を心待ちにしていたことを思い出す。
 暖かければ、焚き火の傍らで、朝まで過ごすこともできる。木の燃え落ちる音を夢うつつで聴きながら、寒さを感じて火が消えて、朝が訪れたことを知る。
 おそらく焚き火は人類が誕生してからずっと続く営みだ。大昔、我らの先祖は焚き火をしながら何を考えていたのだろう。獲物が獲れたことを祝いながらの心満たされた喜びの焚き火だったのか、獲物が獲れず空腹のまま、獣たちの影におびえながら夜を過ごす失意の焚き火だったのか、たぶん後者のほうがずっと多かったのではないかと思うのだが。その歓喜やその恐れに我々現代人はつながっているのだろうか?と自問自答する。つながっているはずだと思う。山に行ってはじめてそういうことを考えたけれど、たぶん間違ってはいないだろう、そう考えるのが正しいのだと今では確信のような気持ちを持っている。


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