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三毳山ハイキング
服部 寛之

山行日 2004年4月17日(土)
メンバー (L)服部、井上、柴田、秋場

「毳」をめぐる考察
 あまりお目にかからない漢字である。
 いっぱつで読める人は稀有であろう。
 あっても良さそうな漢字ではあるが、こういう組み合わせの文字を考えたことは、いまだかつてなかった。
 初めて目にしたとき、私は驚愕した。
 意表を衝かれた、といってもよい。
 そのシンプルな構造と、力強いフォーメーション!
 そして、そこから拡がるイメージの、なんと多様なことか!

 考察するに、この漢字を見て、人はおおむね次の三項目を思い浮かべる。
 (1)オバケのQ太郎
 (2)「結構毛だらけ猫灰だらけ」のフレーズ
 (3)発毛剤
 もちろん、この他に思い浮かんだ人もおられよう。事実私も(a) お茶の水博士のあたま、(b) ケムンパスの会議、(c) BUSH、(d) 毛羽毛現(けうけげん)、(e) 二口女、(f) ゴルゴンなどを続けざまに思い浮かべた。それらについてはここでは取り上げないが、万一それらを思い浮かべたとしても、決して異常ではないので安心されたい。
 それでは順番に見てゆこう。

(1)オバケのQ太郎
 今どきのQちゃんはやたらマラソンに強いが、昔のQちゃんはやたら犬に弱かった。
 今どきのQちゃんは髪をゆさゆささせながら力走するが、昔のQちゃんは髪をゆらゆらさせながら空を飛んだ。
 本項で重要なのはその髪の毛の数である。「三」。これがこの漢字との共通項だ。オバケでは髪の毛は伸びるか伸びないか、新たに生えるか生えないかという議論はここでは避けるが、オバQの三本は不動であった。この三本は常に立っていて、腰の強そうな三本であった。中央の一本は長く突出しており、左右の二本はそれぞれ上部でカーブを描いて外傾していた。そのシンメトリー的な安定感もまたこの漢字との共通要素である。見た目はすぐ抜けそうであったが、「けがさんぼん」はテーマソングにも詠われたほど不動の地位を獲得していた。毛が三本しかない、三本はある、という見解の相違は、見る人の立場による。この漢字を見てオバQを思い浮かべた人は、心根の優しい、ウェットな人である。

(2)結構毛だらけ猫灰だらけのフレーズ
 おのずと知れた「結構」を茶化すフレーズであるが、「毛だらけ」というところがこの漢字のイメージと重なる。毛が三つあるのは「毛3」を連想させ、それから推量すると状況はなんだかものすごいことになっていそうだ。見たとたん「うわぁっ!」と叫んでしまいそうな雰囲気がある。だがこれは当漢字の字面から受ける安定感・統制感とは相容れない。この漢字を見てこのフレーズを思い浮かべた人は、ユーモアの豊かな、ブンガク的素養のある人物と言える。
 フレーズ後半の「猫灰だらけ」とは、猫が灰まみれになっている様を意味するが、筆者はそのような猫をいまだ見たことがない。どういう必然があって猫が灰だらけになるのか、また猫についた灰を簡単に落とせる裏ワザがあるのか、猫的事情に詳しい人がいたらぜひ教えてほしい。

(3)発毛剤
 上述の「毛3」の連想を積極的に発展させわが身に取り込みたいと願望する人の発想である。あるいはまた「林→森」関係における植生規模の変化の定理、すなわち「森=n林」の公式からみちびかれる豊饒な環境を思い浮かべる人もおられよう。いずれにせよ、その裏には真剣な切実さがある。申し訳ないが、この問題に関して筆者は依然傍観者の立場にある。「今に見ていろお前だって!」という憤りにも似た意見があるのは承知している。多くは語るまい。
 だが、この字をかかる用剤のネーミングに使用したら、爆発的な売上につながりそうな気がするが、どうだろうか。因みに、この字の音はゼイ、セイ、セツで、やわらかい獣毛の密生を意味するそうである。ワイルド路線で行けそうである。

*      *      *

 当初は土日の二日間で会津の惣山へ行くつもりだったが、都合により土曜日帰りに変更させてもらった。それで選んだのが、ヘンな字の三毳(みかも)山である。この山は東北道佐野藤岡ICのすぐ北側、高速道路に沿って東側にピークを連ねている双耳峰で、標高こそ229m(北峰)にすぎないが、侮るなかれ、この山は万葉集にも謳われている有名山である。文献には「「下毛野美可母の山の小楢のすま麗し児ろは誰が笥か持たむ」(注)と歌われており、三鴨、美可保、三氈とも呼称されていた」とあるが、それがどうして三毳と書かれるようになったかについては説明が見あたらない。また、「三鴨は今の毛氈(もうせん)のことで、緩やかな山体はこの毛氈の印象があったのかもしれない」とも記されてあるが、周辺に同じような標高の似たような山々が連なっている風景を考えてみても、これはいまいちピンとこない説明だ。別の文献には、平安中期の法典「延喜式」中の記述から、三毳山周辺が「氈」即ち毛織物の産地だったと推測され、これが佐野織物の起源だったとされているとあるので、あるいはそれに由来する名称なのかも知れない。いずれにせよこの山は、標高の割には良好な展望が得られる位置にあり、それがゆえに古代七道のひとつ東山道の交通の要衝たる関所が、両のピークの間に置かれていたそうである。
 早朝から東北道をとばして南麓の駐車場に着いたのがちょうど8時だった。三毳山は南北の稜線に沿って佐野市と岩舟町の境界が走り、ほぼ全域が自然公園(大半は県立公園)になっている。管理は場所によって県だったり市だったりしているようで、南側の駐車場は県の管轄らしい。門を開けたばかりなのか、クルマは1台きり。駐車場のすぐ上はきれいに整備され、水洗トイレ、噴水、休憩所などがあった。その脇からまっすぐ続く古い石造りの階段を登りつめると、三毳神社の奥宮に出た。ここが双耳峰の南側のピークで、佐野市や足利市が望める好展望地だ。北側に低山を控えて市街地や農地が広がっている様が望める。今回は南から北へ縦走するのだが、奥宮のうしろからつづく尾根を北へたどると、丁度ツツジが見頃だった。新緑の若々しい緑の林床をピンクの花で飾りたてている。気持ちのいい森の中のハイキングだ。
 やがて坂を下ってゆくと両ピークの間の鞍部で、一旦舗装路に出て、小高く聳える北側のピークを眺めながら少々下ると、関所跡の標識があった。舗装路は県立公園内をめぐっている蒸気機関車型の遊覧車用らしい。色違いの同じような遊覧車が何台か走っており、チケットを買うと一日乗り降り自由で、子供には楽しい乗り物だろう。関所跡は狭い平らな地面が残っているだけで、特に何もない。その一角に東屋があったので、しばらく休む。だべっていると、ハイキングのグループやら犬をつれた散歩風の人やらがぽつぽつ通り過ぎる。北側から下りてきたにぎやかな中高年グループに南側のツツジの状態を尋ねられたのを機に腰を上げ、励ましの言葉を背中にうけて北側のピークの登りにかかる。北側の林床にはツツジは少ないようだ。ひいこら登ってゆくと、茂みに囲まれて小さなピークがむき出しになっていて、西側の茂みの上に展望が開けていた。ピークの東半分には何かの電波中継施設がデンと据えられていた。ここが実質上三毳山のピークで、地図には竜ヶ岳という別名も見える。別のグループが上がってきたので、記念写真だけ撮ってすぐ下る。
ハイキング 背筋強いも腹筋は  尾根沿いに北へと下ってゆくとじきに『カタクリの里』(佐野市営)で、整備され見通しの良くなった林床にカタクリの群落があった。花期は終わっていたが、代わりに少し離れて白いイチリンソウの群落が足元を明るくしていた。栄養が行き届いているのか、カタクリもイチリンソウも野生のものより二回りくらい大きい。カタクリの花期に来れば美事だろうが、普通の大きさを見慣れている目にはちょっと異様かもしれない。それよりもごったがえす人込みを想像すると、花期がずれていて正解だったなと思った。
 それから一旦北側の県道に出て、東側の山裾の田んぼの中の一本道をぺんぺん草を鳴らしながら歩いた。道が舗装されているのは、21世紀の機械化農業では仕方ないと解っていても、やはり味気の無さはぬぐえない。しかし野鳥が多く、家に居ながらにしてバードウォッチングができる環境は羨ましい。東麓にある『とちぎ花センター』には大型の温室があり熱帯植物の観賞もできるようだが、植物園というよりは大きな花屋さんといった感じで、いろいろな花々が咲いている植物園かと思っていたのでちょっとがっかり。余りの暑さに冷房のきいた休憩所で一息いれさせてもらって、ふたたび腰を上げる。
 その少し先の公園駐車場から再度三毳山中に入り、車道脇の東屋で食事タイムとする。通り過ぎる遊覧車はシュッシュカ、ポーポー蒸気機関車風のサウンドエフェクト付きで、乗っている子供たちが珍しいものを見るような目つきでこちらを見てゆく。物を食う人間がそんなに珍しいんかっ!と思わずムッとする。そこからしばらく歩くと今朝登った神社の古い階段がでてきて、そこから駐車場へと戻った。
 まだ時間的に早く、そのまま帰るのはもったいないので、栗田美術館に行く。ここは鍋島・伊万里の逸品がそろった著名な陶磁美術館で、いつ来ても目が洗われる思いだ。焼き物は世界に誇る日本の文化だと思うが、この美術館はまさに日本の宝である。ここは山の斜面を利用した広い敷地とそこに配された建物とが醸し出す雰囲気もまたすばらしいが、ちょうど見頃を迎えたピンクのハナミズキの並木前で新作着物の写真撮影をやっていて、遠巻きながらそちらでも目を楽しませてもらった。
 東京に戻り、品川駅前で解散。お疲れさまでした。

注: この歌についてネットで検索したらこう出ていた。「しもつけの みかものやまの こならのす まぐわしころは だがけかもたむ」(よみひとしらず)[万葉集巻14] 歌意は、下野の国の三毳山に茂る小楢の木のように可愛らしい娘は、いったい誰の食器を持つ(お嫁さんになる意)のだろう。私のお嫁さんになるに決まっている、という意味だそうだ。


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